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第104話・におい
一方、先に出社していた杉野は藤ヶ谷より先に祝福を受けていた。
杉野の片思い歴が長いことは皆が知っていたため、とにかく藤ヶ谷が来るまでもみくちゃにされていたのだった。
出社した藤ヶ谷に皆の意識が向いてからは、独りデスクに座ってことの流れを眺める。
藤ヶ谷と女性同僚たちが仲睦まじく抱きしめあっているのを微笑ましく思った。
すると、後ろから肩に腕を掛けられる。
「杉野、あれはいいのか?」
「ああいうのに妬くほど心が狭いと思われてんのか俺は」
顔を見ずとも声で、広報部に所属する同期だと分かった。
藤ヶ谷に触れる彼女たちに下心がなく、純粋に喜んでいることくらい誰にでも察せる。
そう冷たい声で返事をすると、さして気にした風もなく彼は杉野から身体を離した。
「そうか、じゃあ俺も」
「良いわけねぇだろ」
「ちぇー。じゃあお前にお祝い!良かった良かった」
「本当にそう思ってるか?」
ふざけた様子で頭を撫でられて、杉野はやれやれとデスクに頬杖をついた。
すると、心外だと唇を尖らせてくる。
「両方が鈍すぎて口出したいのずーっとがまんしてたの俺だけじゃないんだぞ!」
朝一番から同僚たちに言われ続けた台詞をぶつけられ、杉野は何も言い返せなかった。
まさか自分が藤ヶ谷の好意に気が付いていなかったとは。
思い起こせば心当たりしかないのだが、「素敵なおじ様」ではない自分は完全に相手にされていないのだと思い込んでいた。
自分に嫉妬していたと嘆く藤ヶ谷を可愛らしく思ったが、自分も同じことをしていたのだから笑えない。
これは墓まで持って行かねばならない事案だ。
「そういや八重樫部長、昨日からお前らのことを色んな部署に言いふらして喜んでたぞ」
「何してんだあの人」
「だから真っ先に声かけに来ると思ったけど……」
「おー、賑やかだなー」
噂をすれば影。
渋く深い声とともにドアが開き、穏やかな笑顔の八重樫が姿を見せた。
同僚たちに取り囲まれていた藤ヶ谷が真っ先に反応を示す。
「あ!部長!おはようございま……どうしたんですか?」
「ん?何がだ?」
「なんか元気ないです」
杉野と番になっても、相変わらず笑顔で八重樫のもとに飛んでいった藤ヶ谷。
心配そうに八重樫を覗き込むが、周囲の社員たちは声を顰めて首を傾げ合う。
皆の目に映るのは、どうみても通常通りのスマートな仕事のできる上司だ。
「……そう?」
「さぁ……」
その他大勢の疑問を他所に、八重樫は額に手を当てて大げさによろめいた。
「藤ヶ谷……お前は鋭いな」
慌てて身体を支えた藤ヶ谷を、そのまま腕の中に抱きすくめる。
「え、え、部長どうしたんですか!?」
頬を染めてどこか嬉しそうな藤ヶ谷の肩に埋めた顔からは、すんすんと鼻を啜るような音が聞こえて来た。
「実は、オメガの息子が……かわいい息子が……『臭いから近寄るな』って……」
余りにも家庭的かつ悲壮感溢れる台詞に、部屋全体が一瞬で同情の空気に染まる。
すぐに引き剥がそうと鬼の形相で近づいていた杉野ですら動きを止めた。
気まずい空気の中、互いに目を合わせる社員たち。
勇気ある女性社員が、不自然なまでに明るい声を出した。
「し、思春期あるあるですよね! オメガじゃないけど私も父にそう言ったことがある気がします!」
「そ、そうそう! 誰にでもありますよね、そういう時期!」
「俺の友達のオメガも似たようなこと言ってました! 嫌いじゃないのに臭いがしんどい時があったって!」
一人の言葉に乗っかって、カラー部門の社員たちが口々に慰める。
いつの間にか、八重樫と藤ヶ谷を囲む形になっていた。
「……部長が……くさい……?」
円の中心で、藤ヶ谷は1人で首を傾げる。
今までに経験したことがないほど八重樫と密着して役得と考えていたのだが。
納得できない声で唸りながら、犬のように鼻をひくひくと動かす。
しばらくそうしたのち、どさくさにまぎれて胸に顔を埋めて深く息を吸った。
たばこの煙と香水に混ざって匂う、熟成されたフェロモンに胸を躍らせ顔を上げる。
「いつも通りむしゃぶりつきたくなるくらい最高の匂いですよ! 大丈夫です部長!」
「は?」
親指を立てて褒めちぎる藤ヶ谷の言葉に暗い重低音の声が重なった。
皆が「やっちまったな」と見守る中、八重樫が返事をする前に。
藤ヶ谷の身体は杉野によって引き剥がされた。
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