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第8-1話

 紫がいってしまった後、青は落ち着きなく両手を握りしめてじっと床を睨み付けていた。水干を脱ぎ捨てれば縄など脅威ではない。だが帳や簾の向こうには刀を佩いた屈強な武士たちが固めている。  ふぅ、と、潤う唇から秋口の風のような吐息を零して顔を上げる。  ――と、目の前に無言で立ち尽くす男の姿が飛び込んだ。  仰け反る青に、転がるような鈴が鳴る。  入ってきた気配すら気付かなかった。目の前に人が佇んでいるとは思いも寄らない。  その姿は蛮絵の文を施した褐衣を纏う随身である。首下まで顔を覆った姿には形相もわからず、高坏を持つ手は千鳥の手ぬぐいに分厚く包まれていた。 「驚いた。朝餉を持ってきてくれたのか?」  気を配る彼の素振りと、腰を下ろすその体つきには、どことなく覚えのあるような気がしたが、まさかと、青は笑みを浮かべる。もし彼であれば、不機嫌な面構えで青を叱り飛ばさずにはいられないだろう。よく似た男。そう思い、青はくつろいで足を崩す。 「誰も相手をしにこないから退屈していたんだ。名前をなんという?」  男はまるで青の問いかけが聞こえていないかのようであった。覆われた顔では何を見ているのかさえ定かでなく、会話のきっかけさえもが掴めない。語りだそうとする素振りもない彼に、青はもしや彼の言葉は枯れてしまったのではないかと思った。  盛りを過ぎた緑は再び芽生える為に葉を落とし木枯れて、巡る春に備えて眠りに入る。  それならば彼の春が満ち溢れた緑を迎えられるように、青は可能な限り言葉の種を撒こうと思う。紫が幼い頃は、時折北殿へ行ってやはり同じように語りかけたもの。懐かしい。 「お気に入りの場所が増えたんだ。ヤンとギューという、狼のような瞳を持つ青年の怪士の家で、彼らの宝物で作り上げられた暖かな家なんだ。柔らかな寝床があって、横になると鳥に包まれているような気分がする。あんたもきっと気に入る。そうだな、名前がないと呼びにくい。(はやて)とよぼう」  颯はじっと青の声に耳を傾けているようだった。そんな彼から伝わってくるのは、ゆったりとした相槌のような気がするのである。  青は縄を手にかけて、まるで人肌にふれるように優しく撫で上げる。  ウグイスの囀りをじっくりと聞き入るような男の様子には、同じだけ年月を重ね、気心知れた相手のように思えてならなかった。  しんと静まり返った屋敷に、冷たい衣擦れの音が転がる。鼻を啜る武士の寒そうな気配と、(かけい)の水が氷ついていく切ない音が、青の身体をしんしんと凍えさせていく。 「親切な兄弟で、怪我の手当までしてくれた。霜の花を飲ませてくれて、この通りなんてことない。俺がいつの間にか色眼鏡で見ていたことを教えてくれた大切な友人なんだ。優しい彼らの命が脅かされるのは心が苦しい。なんでも飲み込んで言い訳して諦めて、それだけじゃ清瀬のことも、ヤンとギューのことも守れないって気付かせてくれた」  俯く青は箸を止め、簾を上げようと腕を伸ばす。その指先は少しも触れることができない。どれほど身体を伸ばしたところで届きはしない。もどかしさに首を絡める縄を掻き、藻掻こうとする青に、颯が背後からそっと腕を差し出した。

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