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第5-6話

 重く身体を起し、冷えたつま先に触れる姿は柳が撓むようであった。 「花など関係なしに思いを伝えてみれば、答えはでるだろ」  身体をかがめるギューの手は、強く結ばれた青の唇をそっとなぞっていく。顎を包んで親指を強く押し当てれば、ふっくらとした唇はあえなく開かれる。その小さな白い歯の間に指を入れ、真っ赤な舌をなでつけようとすると、青は顔を背けた。 「妻のいる男に、どう思いを伝えろという」  花とともにこの気持ちさえも朽ちてしまえば苦しいことはなかったはず。  暗闇になれた目が、ギューの精悍な顔を睨み付ける。その頬に一筋の引っ掻き傷を見た。さては怒りに目が眩み、彼の髪を引き掴んだときに引っ掻いたのだ。 「顔、まさか、俺が?」  細やかに変化する青の表情に、ギューの目が途端、三日月に撓む。青の手を引き寄せて意地の悪い顔をした。 「心が痛むか? 舐めてくれよ。そうすれば痛みが引く」 「嫌だといったはずだ。それなのに無理矢理しようとするからだろ」  口を窄めてよそを向く青の澄ました様子が、ギューは全く面白くなかった。  「誰の手で乱れて善がっていたのだ」。そう口にしかけて、まるで子どもが気を引くようだとギューは苦笑いを零す。  思い通りにならないこの青年に若干の未練が残った。この頑固な青の心を捉えて放さない清瀬という男はどうやって青を絆したのか。顔も見知らぬ男に敵わないと思うのである。 「人の身で、あの酒は強すぎる。興奮してしばらくは寝付けないはず。俺が話し相手をしてやるよ」 「そんなものを飲ませるなよ」  青は苦く笑う。俯く顔に黒く艶やかな髪が垂れかかる。美しい花に影が差すようだと、ギューは杯を持った手で払いのけた。  春の空のように霞んだ瞳は、胸を締め付けるほどの切ない情愛を浮かべて指先を見つめている。曇りがちな空は花の匂いで溢れ、実を結ばせたいと誘う香りにどれほどの胡蝶や花蜂(はなばち)が春を催すか、青は知りもしないのだ。 「俺を、青臭い男と思っただろう。御すのは容易いと。俺は怪士。心を許しすぎるなよ。それともやはり、慰められたいのか? 望むのなら願ってもないが」  ふざけた奴。と、ギューを睨み付ける。  だが青は何も言えない。実際、軽んじたのは本当なのだ。若い怪士と思い油断した。それも人を騙すのに不慣れな様子を見せた彼に、青の気は緩んだのだ。  失態を曝した。つけ込まれたのはこちらだと、青は苦く思う。 「いろんな怪士を知っているつもりだったが」 「俺も、いろんな人間を知っている」  ギューは思いを巡らせる。怪士相手だろうと言葉を交わし、理不尽な理にさえ順応しようとする人間は青くらいしか知らない。彼は影である住民を受け入れてなおかつ春の到来に喜びさえ分け合うというのだから、普通ではない。自ら怪しい宴に飛び込む理由も、彼が花一族の血筋であるというのなら察しがつく。その花径を怪士の特性と思い、居場所を求めているのだ。 「礫を投げる人間もいた。住処は荒らされて奪われて、だが、青はそのどちらでもない。俺に礫を投げないし、まあ、住処は荒らしたが奪いはしない」 「住処を荒らしたのは、わざとではない」 「知っている」  もうすぐ朝を迎える。帳はほのぼのと開けかけて来光を告げる鳥たちの囀りがその隙間を押し開こうとするようだった。 「頭を冷やしてくる。ゆっくりしていろ」  杯の残りを飲み干して青の身体を寝台に押し戻す。沈む白い羽の中に、青の黒い髪が乱れて流れる。天の星々をちりばめた水脈のような一房を指に絡ませ、花一族のこの男を厄介な質だと思うのである。 「俺の寝台、綺麗に使えよ」  瞼を伏せて彼はいう。 「お休み」  青は離れていこうとするヤンの身体を引き留めた。 「話し相手をするのだろ」 「そうしたかったが、中々いい具合に昂ぶってしまった」  ギューの手がするりと足の付け根を辿った。その指先の仕草を目で追いながら、青がそれを惹き起こしたのだと自覚する。咎めることはできまい。際だって主張するその膨らみのおさまる所がないのだから、無性に気まずい思いがした。 「他に休めるところはあるのか? 俺は床でも眠れるが」 「兄貴の寝台がある。何も気にしなくていい」  杯と瓶を手にしてギューは下りていく。優雅な靴音をしばらく響かせていたが、やがて床を軋ませて足早に出て行ったようだった。

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