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第26話 新しい風

「工房を立ち上げたい?」 「はい」  僕の返事に殿下がぱちくりと瞬きをした。そんな表情も絵に残したくなるほど美しいなと思いながら、スケッチブックに書き留めた内容に視線を落とす。  思いついたことを書き留め始めてひと月弱が経った。こういうことに不慣れな僕の案がどこまで通じるかわからないが、とりあえず殿下に話をしてみようと思い、今日実行することにした。 「いずれはアールエッティ王国に近い品質の物を作りたいと考えています。そのためには専用の工房が必要だと思うのです」 「品質のよい画材を我が国で作る、ということか」  殿下の言葉にこくりと頷く。 「残念ながら、ビジュオール王国で出回っている画材はあまり質がよくありません。近隣国の画材もいくつか見させていただきましたが、やはり質はよくありませんでした」 「たしかに画材自体に注目している国はあまりないだろうな。とくに見た目では判断できないだろう」  以前、画材の違いについて殿下に尋ねられたとき、僕が普段使っているキャンバスとビジュオール王国のキャンバスに筆で絵の具を塗ってもらったことがある。そのとき「見た目ではわからないが、わたしでも違いがわかるほどだな」と驚いていた。  そういう殿下なら、今回の提案にも耳を傾けてくれると思った。 「我がアールエッティ王国は芸術に特化した国ゆえ、一切妥協することなく注力できることから新しい画材を多く生み出しています」  おかげで財政は火の車だ。しかし、その甲斐もあって他国の追随を許さない品質のものを生産し続けている。それは画材だけではなく、アールエッティ王国で芸術と呼ばれる分野のあらゆる道具類にも言えることだ。 「そういうこともあって、僕が使う画材はすべてアールエッティ王国から運んでいますが、それではきりがないと思っています。かといって、僕にビジュオール王国の画材を使うという選択肢はありません。あー……その、この国の画材では、納得できる絵を完成させることができないのです」 「わかっている」 「そこでアールエッティ王国から職人を呼び、この国に工房を作れないかと考えたのです」  そうすれば、遠いアールエッティ王国から頻繁に画材を運んでもらう必要はなくなる。  僕が普段使っている画材の材料の多くは、アールエッティ王国のみで作られているものだ。材料を安定して輸出できればアールエッティ王国の新たな収入源になるし、ビジュオール王国の画材の質も一気に向上する。  アールエッティ王国は、もともと画材を輸出して利益を上げている国ではない。だから、遠い他国で同等の画材を作っても問題はほとんどないと確認できた。それよりも、よい画材が他国に広まることで優秀な画家が生まれることのほうがアールエッティ王国にとってもよい刺激になると思っている。 「なるほど。しかし、それではアールエッティ王国の工房を我が国の中に作るということになるが」 「最初はそうなりますが、ゆくゆくはビジュオール王国の職人たちだけで働いてもらうことを考えています」 「どういうことだ?」 「アールエッティ王国の職人には、技術を伝える師として来てもらいます。そうしてこの国の職人に学んでもらうのです。そうすれば、いずれはビジュオール王国の職人だけで工房を回せるようになると思うんです」  僕の言葉に殿下がわずかに眉を寄せた。 「それでは、アールエッティ王国は損をすることにならないか?」 「それは大丈夫です。工房で作る画材はキャンバスや基本的な絵の具のみを考えています。それらの材料はアールエッティ王国でしか作られていませんから、材料は我が国から買い取っていただくことになります。たとえ材料を調べたとしても、原料自体アールエッティ王国内でしか手に入らないものがいくつもありますから、そっくりそのまま真似ることは難しいでしょう」 「それに、そんな手間暇かけてまで画材を作る国はアールエッティ王国くらいでしょうから」と続ければ、殿下がふわりと微笑んだ。 「それもアールエッティ王国が芸術国として名高い要因の一つだ。なるほど、我が国に工房を作っても、末永く材料を輸出することになれば損は少ないということか」  もちろん、それが狙いの一つだ。ただし、それ以外の思惑もある。 (もし僕に子ができたら、よい画材を与えてやりたいからな)  子が本格的に絵を描きたいと言えば、それだけ画材もたくさん必要になる。できれば我が子には最初からよいものを与えてやりたい。それが芸術に興味を持つきっかけになってくれれば、アールエッティ王国の王子としてこれほど嬉しいことはなかった。 (さすがにこの話は我が儘がすぎるから、殿下にも話せないが)  もちろん、同じ理由でビジュオール王国の子どもたちが絵を身近に感じるきっかけになればとも思っている。そのためにはよい画材を手頃な値段で流通させることが必要だ。そうして絵画に親しむ人たちの裾野が広がり、そこから芸術を好きになってくれる人が増えればとも思っている。  いずれはそういった人たちがアールエッティ王国の芸術品を買ってくれれば御の字だが、この国の人たちが芸術自体を好きになってくれるのが一番だ。絵画以外の芸術も身近に感じてほしいと思っているが、そのあたりは追々考えていこう。 「我がアールエッティ王国の利益ももちろん考えていますが、よい画材が身近にあれば興味を持つ人たちが増えるのではと思っています。溶き油の匂いが駄目だと言う人は多いですが、我が国の溶き油なら手に取ってもらえるかもしれません」 「たしかに、我が国の溶き油は何とも言えない匂いがする。完成した絵からも少し匂うくらいだから、それで部屋に飾るのを嫌がる貴族もいると聞いている」 「それが残念でならないのです。溶き油の問題が解決できれば、もっと身近で鑑賞したいという人も増えるでしょう。それに、芸術が王族や貴族たちだけのものだと思われているのも残念でなりません。できれば民たちにも、もっと身近に感じてほしいのです」 「ふむ。我が国としても新しいことに挑むのはよいことだと思う。得てして大国は変化を嫌うが、それでは国にも民たちにもよいとは思えない。ときには新しい風を入れることも必要だろう」  殿下の言葉に国王とのやり取りを思い出した。  殿下は、おそらくこれまでの国王のあり方に疑問を抱いている。国王の初めての子がもっとも優秀なαだったとしても、それだけで次期国王にすることをおかしいと思っているのだろう。同時に、長くこの国で続いている“生まれ持ったαの能力”だけで優劣を決めることも良しとしていないようだった。「ときには新しい風を」とは、そういった部分にも呼び込みたいのかもしれない。 (αの能力のことは、正直僕にはよくわからない)  しかし、αであっても努力した者が報われる世の中のほうがいいはずだ。できれば、生まれたときのものだけですべてを決めてしまわないほうがいいと思っている。 (僕自身、努力すれば理想のものが描けるとわかったときの感動は、いまでも忘れられないからな)  あのとき、僕は目の前がパァッと開けたような気がした。もちろん僕が恵まれた環境で生まれ育ったということもあるだろうが、それだけで国一番の画家になったとは思っていない。諦めずに努力した経験がいまの僕に繋がっていると信じているし、簡単に諦めない自分を誇りに思っている。  そういうことを、αであっても感じられる国のほうがいいはずだ。もちろんΩだって“生む性”以外に誇れる自分を持てる国のほうがいい。そうすれば、ただ優秀なαを生ませるためだけにΩを集め後宮に閉じ込める、なんて国にはならないはずだ。 「工房の件はわかった。さっそく職人たちに話をしよう」 「ありがとうございます。アールエッティ王国のほうは僕に任せてください」 「よい職人たちが大勢いるのだろうな」 「はい。腕前も優秀ですが、我が国の職人たちは自分たちの技術を後世に伝えることも重要だと考えています。ビジュオール王国に招いても、きっとよい師になると思います」  大国の職人を弟子にすることに抵抗を覚える職人たちもいるとは思うが、職人同士、きっと通じ合うものがあるはずだ。それに、ビジュオール王国の職人の技術力は首飾りの製作で何度も感嘆させられた。きっと互いに学び合えることもあるに違いない。 「ビジュオール王国で製作された画材は、我がアールエッティ王国のお墨付きで近隣諸国に輸出することも考えています」 「それはおもしろいかもしれない。そのあたりは工房の道筋ができてから考えよう」 「はい。我が国では画材を正式な輸出品として扱った経験がありません。そのあたりはビジュオール王国の官僚たちに相談できればと思っています」 「わかった。輸出できるかは工房の規模次第だろうな。……それはそれとして、そろそろ“我が国”と呼ぶのを控えてほしい気もするんだが」 「何か?」 「いや、何でもない。工房の件は話がまとまり次第、ランシュにも手伝ってもらうことにしよう」 「はい」  最後に殿下が何かつぶやいたような気がしたが、よく聞こえなかった。気にはなったものの、先に進めておきたいことが他にもある。 「次に首飾りの件ですが、間もなく完成品が上がってくるとの報告がきています」 「そういえば、そちらも新しい工房が稼働し始めたと聞いたな」 「はい。それと今回採用した留め具ですが、せっかくなので他の装飾品にも使えないかと思っているんですが」 「他の装飾品に?」 「装飾品の職人たちには随分とがんばってもらいました。あれだけのものをΩ専用の首飾りだけに使うのはもったいなさすぎます。職人たちが自分たちの手がける作品にも使えるようにできないでしょうか」  Ω専用の首飾りは、すべて王宮を通じてΩの姫君たちに売り渡されることになるそうだ。後宮の姫君たちにも配られる予定だったが、僕以外いなくなってしまったので王宮内での需要は一気に減ることになる。Ωの姫君たちが買わなければ、せっかくの首飾りも日の目を見る機会がグッと減ってしまう。  本来、王宮に納めるものは一般には出回らない。どの国でもそれが一般的だが、それではもったいなさすぎる出来だった。 「ランシュらしいな」 「え?」 「大国の王族や貴族なら、自分たちの身につけるものが他に出回ることを嫌う。それが特権階級の考え方だ。しかしランシュは違う。わたしの周りにはない考えだ」 「ええと、なんというか、申し訳ありません」 「いや、わたしは悪くない考えだと思う。すべてを許すことはできないが、王宮でのみ手にできるものが多すぎるのが現状だ。……そうだな、その辺りも少し踏み込んでみるか。しかし、そうなると官僚が何と言うかだが」  やはりそこが問題か。アールエッティ王国のような小国でも、官僚とのやり取りは大変だった。財政に関しては口出ししないほうがいいと父上も僕も考えていたが、それ以外ではそこそこやり合ったこともある。とくに芸術祭に関しては、四年に一度の開催だというのに毎回喧々囂々のやり取りをくり返した。  それが大国ともなれば想像できないほどの困難があるのだろう。国を動かすのは王族や貴族だが、現場を取り仕切り調整するのは官僚たちだ。彼らをうまく動かせなくてはすべてが滞ってしまう。 (やはり、ルジャン殿下のような王族が必要な気がする)  しかし、どうすればルジャン殿下を表舞台に戻せるのか……。 「それにしても、少し働きすぎではないか?」 「はい?」 「国のためとはいえ、根を詰めるのはよくない。程々にするべきだと思うんだが」 「そうで……すね」  思わず「そうでもないですよ」と言いかけ、殿下の心配そうな眼差しに慌てて言葉尻を変えた。僕は殿下と祖国のために働きたいと思っているが、だからといって殿下に心配をかけたいわけではない。 「最近はスケッチしかしていませんから、余った時間を使っているだけです。でも、そうですね。気をつけるようにします」 「あぁ。それに、最近また少し食が落ちたとも聞いている。暑さの名残のせいかもしれないが、十分気をつけたほうがいい」 「わかりました」  たしかに少し食欲が落ちた気はしていた。じっとりした暑さは和らいできたというのに、なぜかあまり食べたくない料理があるのだ。とくに気になるのは一部の食用油の香りで、それらを使った炒め物や揚げ物は匂いを嗅ぐだけで食欲が失せてしまう。同じ理由で、野菜には油をかけず塩やレモン汁に変えてもらったほどだ。  油の香りに敏感になったことで絵の製作にも影響が出ている。なぜか溶き油を使うことができなくなってしまい、リュネイル様の肖像画は完成間近で止まったままだ。僕が使っている溶き油は食用油ではないし特有の油臭さもないというのに、どうにも気になって瓶の蓋を開けることができない。 (殿下の誕生日まで三月(みつき)もないというのにな)  こんな体調では、期限内に次の発情を迎えるのは難しいだろう。今回の発情で子ができていればいいのだが、できたかどうか自分ではわからないままだ。 (あれだけの発情だったのだから、子もできそうなものなんだが……)  思わず自分のお腹を撫でてしまった。本にあれこれ書かれてあったことを思い出すが、僕のお腹にはまったく膨らみがない。気分が滅入ることもないし、食が落ちたといってもわずかな量だ。吐き気がしたり、逆に食欲が増したりといったこともなかった。 (本の内容から考えても、子ができているとは考えにくいか)  わかっている。僕はΩになってまだ一年も経っていない。そんな僕がそう簡単に妊娠できるとは思えない。  それでも諦めきれず右手でお腹をさすった。あれだけ殿下の子種を注いでもらったのに、全部実らなかったのかもしれないと思うと落ち込みそうになる。自分でもわかるほど強い香りを放ち、殿下の香りに溺れ、今度こそはと期待したのだが果たしてどうなのか。 (さすがに、こればかりは努力のしようがないしな)  そんなことを思いながらお腹をするりと撫でたとき、体がグラッと揺れた気がした。 「なん、だ……?」  出した自分の声まで二重に聞こえる。もしかして目眩だろうか。いや、そんなふうになるほど無茶はしていない。それに直前まで何ともなかった。 「何か、変だ、な」  そうつぶやいた僕の耳に、「ランシュ!」という殿下の声が聞こえてきた。 「……え?」 「ご懐妊です。おめでとうございます」 「ええと……僕に子ができたと?」 「はい」  王家専属の医者だという長い黒髪の女性が、もう一度「おめでとうございます」と微笑んだ。慌ててノアール殿下に目を向けると、静かにこくりと頷いている。 「僕に、子ができた」 「Ωの妊娠の兆候が見られますから、まず間違いないでしょう。と言いましてもまだ初期の段階ですから、十分に体を労ってください。くれぐれもご無理はなさらないように」 「そうか……子ができたのか……」 「ランシュ殿下、聞こえていらっしゃいますか?」  腕に触れた手の感触にハッとした。ふかふかの枕を背にベッドで上半身を起こしている僕を、女医の黒目が優しく見つめている。 「あぁ、いや、少し驚いただけで、大丈夫だ」 「わたくしも男性のΩの妊娠を確認したのは初めてです。出産までしっかり見守らせていただきますので、よろしくお願いいたします」 「こちらこそ、よろしく頼む」 「アフェクシィは代々王家に仕える専属医の家柄で、Ωの体や出産に詳しい。三十三歳ながら、すでに十三件のΩの出産に立ち会っている。我が国でもΩの出産数が減ってきているなかでは経験豊富な医者だと言えるだろう」 「医者の世界ではまだまだ若輩ですが、精一杯務めさせていただきます」  小柄な女性だが、声や雰囲気から見た目よりも大きく感じられた。殿下が選んだ医者がそばにいてくれるならきっと大丈夫だ。そう思いながら、ふかふかの掛け布団の中でお腹にそっと手を当てる。 (そうか、ここに殿下との子が……)  改めて考えると不思議な気がした。ついこの間までは妃を迎える側だった僕のお腹にαの子が宿っているのだという。そして、その子はビジュオール王国の未来の国王だ。 (……そういえば、男の僕はどうやって子を生むんだ?)  閨で僕のどこにナニを入れるのかは十分すぎるほどわかった。しかし、どうやって子を生むのかはわからないままだ。「殿下の子を生みます」と宣言したのに、首飾りや画材のことを優先してすっかり後回しにしていた。 (通常なら、殿下のナニが入るところから生まれるはずだが……)  そこまで考えて、体がブルッと震えた。 「少し冷えるか?」 「あ、いえ、大丈夫です。その、武者震いと言いますか、気合いと言いますか」 「そんなに気負わなくていい。いまは心身ともに穏やかに過ごすことだ」 「ノアール殿下のおっしゃるとおりですよ。子を身ごもったΩが流産することはまずありませんが、男性のΩはわからないことが多いのも事実です。どうぞ心安らかにお過ごしください」  僕の体を労ってくれている二人を見ると「どこから子が出てくるか不安で震えただけです」とは言いづらい。もし尻からだったとして、ノットくらいの大きさなら耐えられるとわかったが子はそれよりずっと大きいはずだ。そんな大きなものがあそこを通り抜けられるのだろうか。 (いや、いまは考えないでおこう)  そのうち、さりげなくアフェクシィ殿に尋ねてみよう。医者である彼女なら笑うことなく教えてくれるはずだ。いや、生むときにどうせわかるのなら土壇場で知るほうがいい気もする。  よし、この件は終わりだ。それよりも、無事に生むことのほうに注力しよう。むしろ、これからが本当の正念場に違いない。 「まずは食事を見直しましょう。しっかりと食べていただくことが大事ですが、これから食べられなくなるものも出てくるでしょうし、その都度わたくしが調理長と相談いたします」  アフェクシィ殿の言葉に「ありがとう」と答えてから、ゆっくり目を閉じた。  殿下と話をしていたとき、目眩のようなものを感じた僕はそのまま倒れてしまったらしい。すぐに寝室に運ばれ、医者であるアフェクシィ殿が呼ばれたそうだ。そうして慎重に診察した結果が「おめでとうございます」だった。 (願っていたことだが、嬉しさより驚きのほうが強いな)  気分を落ち着かせようと目を瞑ったはずだったが、気がついたら夕食の時間を少し過ぎる時間まで眠ってしまっていた。  こうして無事に子を身ごもることができた僕だが、生活に大きな変化はとくにない。ただ一つ、殿下の心配性が少しばかりひどくなった。 「やはり少し忙しくしすぎではないか? それに、毎日執務室まで来なくてもよいのだぞ?」 「アフェクシィ殿に許可をもらっていますから大丈夫です」 「しかし、」 「殿下は少し心配しすぎです。もっとドーンと構えてください。殿下は父上になられるんですから」 「父上、」 「そして僕は母上ですね」  そう言って微笑みかければ、殿下がわずかに頬を染めながら「そうだな」と視線を逸らした。  父上母上という言葉だけで照れくさそうにする様子は微笑ましいと思う。しかし、僕に対しては心配のしすぎだ。ほとんど僕の専属医状態のアフェクシィ殿には毎日診てもらっている。それなのに心配性の殿下は一日に何度も後宮にやって来るようになった。 「それでは執務が滞るし、なにより忙しくしている殿下の体のほうが心配だ」  そう考えた僕は、一日に一度殿下の執務室に行くことにした。そうすればお互いに様子を見ることができるし、僕も首飾りや画材工房の状況を細かく確認をすることができる。もちろん執務の邪魔をしないように気をつけ、時間に余裕があるときはスケッチや依頼された絵の下書きを描き進めた。  以前は執務室に入るだけで官僚たちから冷たい視線を向けられることがあったが、最近はそれも感じなくなった。おそらく僕が殿下の最初の子を身ごもったからだろう。もしくは、ヴィオレッティ殿下の「王太子妃も正式に誕生することだし、これで我が国は安泰だな」という言葉のおかげだろうか。 (そういえば、陛下は「子ができれば、正式な王太子妃として挙式するがいい」とおっしゃっていたけど、そのあたりはどうなっているんだろうか)  殿下からは何も聞いていない。アフェクシィ殿が「少し血が薄くなっているようですから、ひと月は血を濃くする食事にしましょう」と言っていたから、僕が落ち着くのを待ってからという話になったのかもしれない。 (まぁ、そのときになればわかるか)  結婚式となれば僕は当事者中の当事者だ。何かあれば知らせてもらえるだろう。それまでは、いま自分ができることをやるだけだ。  そう思いながら工房の設計図を見ていたとき、トントンと扉を叩く音がした。殿下が「入れ」と告げると、初めて見る顔の男性が入ってきた。 「どうかしたのか?」  殿下の声が少し固い。表情もなくなっている。 「陛下が、式についてお話があるとのことでございます」  僕をチラッと見ながら男性がそう口にした。なるほど、この男性は国王付きの侍従といったところか。 「後ほど陛下の執務室へ行く」 「その際は、ランシュ殿下もご一緒においで下さいますように」 「ランシュも?」 「そうお伝えするようにと承っております」  男性の言葉に殿下の眉が寄った。おそらく結婚式についての話なのだろうが、僕も一緒にというのが少し引っかかる。 「ランシュはいま大事な時期だ」 「大事なお話ゆえ、お二人揃っておいでになるようにとのことでございます」  ますます殿下の顔が険しくなった。僕の体を心配してくれているのだろうが、結婚式の話なら僕も当事者だ。それに僕も呼ぶということは何かあるということに違いない。 「わかりました」 「ランシュ」 「体調に問題はありませんから大丈夫です」 「しかし、」 「では、陛下にはそのようにお伝えいたします」  殿下が返事をする前に男性がそう告げたことで、国王に会うことが決まった。殿下が「わかった」と言うと、侍従らしき男性は頭を下げすぐに部屋を出て行く。  男性が去ったあとも殿下は不満そうな表情を浮かべていたが、小さくため息をついてから「お茶を用意させよう」と席を立った。そんな殿下の後ろ姿を見ながら「何も起きないといいけれど」と願った。  前回のことを思い出すと、国王の言葉次第ではまた殿下とぶつかりかねない。国王と王太子の衝突は避けたいところだが、親子としてもできればぶつかってほしくないと思っている。 (この世でたった一人の父と子なのだしな)  そう思いながら、そっと自分のお腹を撫でた。

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