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第1話
昭和17年、春。
私は当時の大日本帝国軍において上級士官が約束されていた江田島の海軍兵学校を卒業しました。
それはそれは優秀だったであろうと浅ましくも自負しております。
同期の中でも体力、学力共に抜きん出ており、一部学生のみが選ばれる選修学生としてより上級の教育を受け、更にお国をいかにして守るべきかという戦略についても学び、いざという時の為に機関士としての技術も習得いたしました。
卒業生は皆横一列に特務士官という階級をいただいておりましたが、昇進は卒業時の席順も同然でしたので、順調であれば私は一番か二番目には兵曹長という位にはなった事でしょう。
ただし、あくまでも『順調であれば』です。
意気揚々と俗世に戻った私はそのまま呉の海軍基地へと配属され、上官だった方のお宅に住まわせていただいておりました。
いつ南方出撃の命令が下っても良いように日々の鍛練を怠る事もなく、穏やかで『水兵さん』を非常に大切にしてくれる地元の皆さんに恥ずかしく無い姿をお見せせねばと常に凛と生きてきたつもりです。
そんな中、まず私と同階級の友人に出撃命令が下りました。
あれは卒業の翌年だったでしょうか。
生きて戻ると言いながらも何故か涙で水盃をかわし、彼は甲板で見事な敬礼を見せておりました。
彼の乗った戦艦は当時の帝国技術のすべてを集約したと言っても過言ではない船で、私はこれであの憎いメリケン人どもを蹴散らせると拍手を送り、先に出撃する事になった友人を羨ましく思ったものです。
しかし、水盃を手にした彼の判断こそが正しい物でした。
我が国が誇る最大で最高の戦艦は、メリケンより飛び立った数機の鉄の翼によりあっさりと撃沈されてしまったのです。
出港からわずか6時間後の事でした。
最強の海軍を持つ帝国こそが世界の支配者であると教わっていた私達に、もはや戦争の主役は船ではなく飛行機である...そんな現実が突きつけられたのです。
それでも私にはお国に従うしか道はありませんでした。
帝国より選ばれた者であるという事だけが私にとっての生きていく理由だったからです。
すでに身内を無くした私にとって、私を必要としてくれるお国と、家族と同様に大切にしてくれる上官と、そして海軍の人間というだけで慕ってくれる皆を守る事しか目的はありませんでした。
上官の家には病で伏せる奥方様の他に3人のお子様がいらっしゃいました。
18になったばかりの男の子と5歳の女の子、そしてまだ2歳にも満たない男の子です。
奥方様はこの末のお子の産後の肥立ちが悪く、歩く事もままならないとの事でした。
18歳の男の子でありながら、この長男の元に赤紙が来る事はありません。
彼は生まれつき心臓に難があり、激しい運動ができなかったからです。
非常に聡明にも関わらず、更にお父上が海軍指令部所属という上級職にありながら彼の海軍への入隊が叶わないのはそういうわけでした。
しかし彼は、とても心臓が悪いとは思えないほど艶やかで美しい、真っ赤な唇をしていました。
その肌は少し青白くも見えましたが頬はほんのりと紅く色づき、まるでよく熟れた桃のように瑞々しく見えました。
大きくはありませんが涼しげによく響く声もその容姿に似合っておりました。
いつも控えめで、けれどその心根はしっかりと強く深く、彼と話をするだけで私の胸は何かで満たされて温かくなるようでした。
いつしか私は、美しくたおやかな彼に恋をしていたのです。
勿論秘めた思いです。
男子でありながら同性に劣情を抱くなど、あってはなりません。
けれど伝えあってはいなくとも、彼もおそらくは私を憎からず思ってくれていたでしょう。
翌年、大型戦艦の完成と同時にようやく私にも出撃命令が下り、彼に笑顔と、ほんの少しの涙で見送られて港へと向かいました。
必要な物資と人員を確認し、そして積み込み作業を始めた直後です。
突然耳をつんざくような空襲警報が鳴り響きました。
急いで避難を始める私達を嘲笑うかのように大きなプロペラ音が響き、空からバラバラと黒い物が降り注ぎます。
逃げ惑う私達の目の前で、乗るはずだった戦艦は大爆発を起こしました。
爆風に巻き込まれ怪我を負った私は辛うじて助けられ、直ぐに医療部へと連れていかれました。
高熱の為になかなか意識が戻らず、目が覚めた時にはそれから3日ほど経っておりました。
共に戦艦に乗り込む事になっていた上官殿は、船と共に海に沈んでしまわれたのだそうです。
私だけは生きていると聞きつけ訪ねてきてくれた彼は、覚悟はしていたのだと悲しそうに微笑みながら、淡々と私に告げました。
ようやく動けるようになったものの、もはや私には特務軍人としての働きはできません。
かの爆撃の際左足を傷め、目的地への上陸後には到底白兵戦に参加する事などできようはずもなく、ただ足手まといになるからです。
私は呉の海軍指令部から広島の宇品港の輸送、機関部への異動を命じられる事になりました。
かつての上官のお宅も出ねばならないとお別れの挨拶に向かいましたが、病床の奥方様をはじめ、お子様方皆が私に出て行かないで欲しいと泣いてくれました。
一家の主を失い心細かっただけかもしれませんが、私はまだ誰かを守って良いのだと嬉しくなりました。
早朝から夜遅くまでの仕事です。
決して体は楽ではありませんでしたが、私はこの家から職場まで通う事にいたしました。
その間にも刻一刻と戦況は悪化していきました。
東京の指令部は我が国の戦法はもはや外国には通用しない事をようやく認めざるを得なくなったのです。
もはや戦争の主役は船ではなく飛行機でした。
世界最強の海軍という名前に縋り続けた結果、指令部はただいたずらに人命と貴重な資材を無駄にしてしまったのです。
戦艦から飛行機へと戦力を移行させる中、私はひたすら南方に物資を送る為の輸送船の整備の仕事に明け暮れました。
それまで『海軍さん』『水兵さん』と敬うように声をかけてくれていた人々は、私をどこか蔑むような目で見るようになっていましたが、家に戻れば貧しくとも穏やかな家族の笑顔に迎えられる日々は慎ましくとも幸せでした。
しかしそんな幸せな日々が続くわけなどありません。
我が国は戦争の真っ只中にいるのですから。
最大の海軍基地であった呉への空襲は、日に日に激しくなりました。
もはや新しい軍艦を作る能力などありはしないのに、それでもすべてを焼き尽くさんばかりに爆撃が繰り返されました。
昭和20年、7月。
私を家族として愛してくれた奥方様もお嬢様も、ようやく言葉が出始めた次男坊も...焼かれてしまいました。
愛しい彼だけは...家族の為の配給品を受け取りに行っていた彼だけは...生きていました。
一人だけ残されてしまいました。
職場から慌てて帰った私は、その光景を忘れる事はできません。
彼は皆の為に必死に確保してきた芋を生のままでかじりながら、涙を流して笑っておりました。
私は黒焦げになった皆のご遺体を不自由な足を引きずりながらも山へと運んでいき、せめてもと墓標代わりの大きな石を探してくると、皆を一つの穴に丁寧に埋めました。
彼はようやく涙を止めると、持っていた芋を一緒に埋めていました。
私も彼も、本当に一人ぼっちになってしまいました。
お互いにはお互いしかいません。
共に行きますか?と差し出した右手を、彼は無言で握りしめました。
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