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第2話
すべて焼けてしまいましたので、二人とも家財道具などありません。
それでも着の身着のまま汽車に乗り込むと、私達は広島市内へと向かいました。
家族もいない今、無理に呉に残る必要は無いのです。
何より、軍港のそばに住んでいる限りはまた次の攻撃を受ける事は目に見えていました。
幸い、宇品までそれほど離れてはいない小さな長屋に空きを見つけ、そこに住まわせてもらえる事になりました。
夏の今は布団が無くともたちまち死んでしまう事はありませんし、風呂が無くとも近くの川で水浴びでもすれば事足ります。
運良く配給で着物だけは手に入りましたし、どうにか暮らしていける目処がたちました。
越してきて数日は無表情なままで言葉も出せなかった彼も、長屋に世話焼きのご婦人がいらっしゃったおかげか少しずつ笑顔が戻ってきました。
どうかこのままで...せめてこのままでいさせて欲しい...
私と彼の細やかな願いは、それから10日もしないうちに叶わぬ事になりました。
私の元に召集令状が来たのです。
怪我の為に海軍から放り出されたも同然の私の元にです。
もう我が国に、この戦争の勝ち目は無いのだとはっきりわかりました。
配属先は鹿児島県田原...陸軍管轄の飛行機部隊のある場所です。
お国は私に『死ね』と命じました。
聡明な彼は私の手を握り、行ってくれるなと泣きました。
もう笑ってはいません。
ただただ泣いて泣いて、私に縋りつきました。
二人でどこかに逃げようと言ってくれました。
田原への出征との文字を目にしただけで、その意味がわかったのでしょう。
しかしやはり私は...軍人なのです。
命じられれば行かねばなりません。
首を横に振った私は、初めて彼に思いを告げました。
墓場まで持っていく思いです。
もう死に場所も死期も決まったのですから、せめて最後に告げたかった。
あなたを好いております。
誰よりもあなたを愛しいと思います。
これが私にとって、最初で最後の恋です。
そんな私の言葉に、彼はスルスルと目の前で着ている物を脱ぎ始めました。
私もあなたをずっとお慕いしておりました。
これが最後の夜になるのならば、どうぞ私に最後の思い出を...最後のお情けを。
彼の肌は夏の夜の湿気でじっとりと汗ばんでおりました。
いえ、湿気のせいだけではなかったでしょう。
人肌の感触など、お互いに初めてです。
何をどうすれば良いのかもわからぬまま、私はただ気持ちと本能に任せて彼の唇を、肌を、そして秘めた場所を貪りました。
彼の細く白い脚が私の腰に絡みつく様は、まるで離さないと言っているかのようでした。
体は強張り震えているのに、その赤い唇からはひたすらに嬉しいとの言葉しか出てきませんでした。
離れがたいと思いながらも体を起こした瞬間、彼の体内から私の吐き出した欲の残骸が流れるのが見えた時は本当に胸が震えました。
最後の最後で彼が私の物になったという喜びだったのでしょう。
空が白んでいく中、私は疲れて眠ってしまった彼の顔を、飽きる事もなくずっと見つめていました。
最後の瞬間に思い出すのがこの安らかな寝顔になるようにと。
翌日、身支度を整えた私は彼に一つの懐中時計を渡しました。
早くに亡くなった父の形見です。
若い頃英国に留学していたという父が気に入って使っていたというこの時計だけが、今の私が彼に残してやれる物でした。
形見として持っていてくれても良いし、売ればそれなりにまとまった金になるでしょう。
この時計がどうか彼の未来の支えになるように...そう伝えると彼は何も言わず、ただ愛しそうにその時計を胸に押し当てていました。
さよならは言わず帰るとも言えず、私は鹿児島に向けて汽車に乗り込みました。
彼は見送りには来ませんでした。
田原に着くと、早速飛行機の操縦法を教わる事になりました。
その間にも、私と同じかそれよりも若い青年達が次々に片道分だけの燃料を積んだ飛行機に乗り込み出撃していきます。
見送りながらそれを怖くないと言えば嘘になりますが、耐えられないほどではありません。
目を閉じれば、あの彼の安らかな寝顔を思い出す事ができるのです。
彼の気持ちと純潔を受け取ったのだと思えば、燃料が無くなるまでいくらでも敵機を撃ち落とせる気になりました。
飛び立つ日を今か今かと待っていたものの、いつまで待っても出撃命令は出ません。
燃料も資材も満足に調達できない中、急拵えの飛行機は整備もままならなかったようです。
静かにその時を待っていた私の元に、その一報は突然もたらされました。
広島から来た者はいるかとの兵長からの問いに右手を上げたのは3人。
その3人が執務室へと呼ばれました。
広島に巨大な爆弾が落とされたと。
市内は跡形もなく焼き尽くされたと。
爆弾の正体も被害の状況もわからない為今は帰れないが、帰宅の準備をしておくように言われました。
そこからはあまり覚えておりません。
その一報から数日後、今度は長崎から来ている者が呼ばれたそうです。
そして帰宅の許可が出ないまま、私はラジオから流れてくる現人神のお声を初めて聞き、そしてこの長い長い戦争が終わった事を知ったのです。
田原から戻った私の目の前に広がるのは、まさに焼け野原でした。
長屋のあった辺りまで行ってみましたが、そこには何一つありませんでした。
落とされた爆弾は猛烈な光と熱を放っていて、一瞬にして全ての物が焼けて消えてしまったのだそうです。
無駄とは思いましたが、黒焦げの、誰が誰かもわからない炭になった遺体が集められているという場所に行ってみました。
なるほど、滑稽なほどに見事な人型の炭の塊だらけで、恐ろしいとは思っても悲しいとは思えませんでした。
現実味が無さすぎたせいかもしれません。
ゆっくりと見て回る中、私の目は一つの炭に釘付けになりました。
地面に転がされてはいましたが、何かを胸に抱き、まるで祈りを捧げるかのような姿。
私は思わず駆け寄り、その炭の塊に触れていました。
胸の間から、その人が庇う事になったからでしょうか...燃え尽きていない、半分だけ溶けた時計のような物が見えました。
残念ながら、彼のすべてを移動させる事は今の私にはできません。
私はチラリと見えた時計の残骸をそっと抜き取り、おそらくは口許であろう場所に一度唇を押し当てると、一人立ち上がりました。
呉行きの汽車に乗り、かつての家の裏山へと必死に上がっていきます。
ついこの間立てたばかりの墓標はそのままで、まだ土も完全に固くなってはおりませんでした。
彼が押し込んだ芋も、少し干からびたままでそこにありました。
懐から懐中時計だった物を取り出し、墓標の元を丁寧に掘っていきます。
この時になって初めて、私はようやく涙を流せました。
あれからもう何十年という時間が過ぎました。
私は兵学校時代の知識や人脈を活かし、広島の復興に最善を尽くしてきたつもりです。
あの石を立てただけの墓標も、終戦から10年ほどしてきちんとした墓の形を整えてあげる事ができました。
周囲の勧めがあったものの、結婚はしませんでした。
私の恋は最初で最後...あの時計と共に土に埋めたのです。
すべての事業から手を引いた今、私は毎年この時期になるとアサガオの形の盆灯篭を持って墓参りをする事だけを義務として生きていました。
色とりどりの灯篭を手に、今年もえっちらおっちら山を上ります。
月に一度は参ってピカピカにしている、彼と彼の家族の眠る墓。
誰も訪れるはずのないそこには、何故かすでに盆灯篭が立てられておりました。
それも、初盆を表す純白の盆灯篭が。
「お疲れさまでした」
不意に聞こえたのは、何年経とうとも色褪せる事の無い、あの涼やかな凛とした美しい声。
「本当にお疲れさまでした。旦那様、お迎えにあがりましたよ」
「...私の事を旦那様と呼んでくださるのですか?」
「勿論ではありませんか。あなた様は私にとって...最初で最後の愛しいお方ですから」
墓石の陰からゆっくりと現れた姿に、思わず目を細めました。
「君は相変わらず美しい。それに比べて私はどうだ...こんな老いぼれた姿を見ては、君も幻滅しただろう?」
「旦那様はあの頃と何もお変わりではありませんよ? ほら、もう腰も足も痛くなどないでしょう?」
その言葉の通り曲がった腰がみるみる伸びれば、いつも少し見上げていた墓石を私は久々に見下ろしていました。
「もっと早く君に会いたかった...」
「旦那様は、まだまだ戦後の復興の為に尽力していただかなければいけませんでしまから」
「しかし、君のいない毎日は寂しかったんだ」
「もう離れる事などありませんよ」
「そうか...では私はちゃんと役目を終えられたのだね? 長かったな...」
「本当に立派なお姿でございましたよ。私はずっと見ておりました」
「やっと君と一緒にいられる」
「はい...本当に本当にお疲れさまでした。そして...おかえりなさいませ」
「ああ、ただいま...やっと君をこの腕に...」
目の前の人を抱き締めた瞬間、私の体は軽く熱くなりました。
翌日の新聞には、被爆者支援に生涯を捧げた一人の老人の死が小さな記事になった。
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