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第10話

 ピピピ、という電子音で目が覚める。  すっきりと目覚められた。体が軽い。  どれくらい寝ていたのだろうか。ここは地下なので窓がなく、時間がわからない。  電子音は携帯端末から鳴っている。  携帯端末はどこに置いたのか。そうだ、隊服のポケットだ。  起き上がって、ソファに脱ぎ捨てた隊服を拾う。そこから携帯端末を取り出すと、兼景からの着信だった。  通話ボタンを押して電話に出る。 『千樫! やっと出たな! 今すぐ訓練場に来てくれ!』  珍しく慌てた様子で兼景が言う。 「訓練場?」 『A棟の五階だ。そうか、お前宿舎じゃないんだっけか』 「はい、ちょっと事情があって特研の近くに部屋があって……」 『まあいい、とにかく来てくれ! レオが大変なことになってんだ』  それだけ言って通話は途切れてしまった。  レオニードが大変なことになっている、とはどういう状態なのだろうか。  とりあえず行けばわかるだろう。  通話の終わった端末を見ると、一件通知があった。 『クリーニング済の隊服をポストに入れといた』  アカートからである。  ポストというからには部屋の入口近くにあるのだろう。  眠気で閉じそうな目をこすって入口まで行く。  見ると入口のドア脇に赤いランプの点いた四角いパネルがある。取っ手がついていて、これがポストらしい。  取っ手を引いて開けると中に紙袋が入っていた。取り出して中身を見ると隊服が二着セット入っている。  悪魔を討伐して一段落したというのに、新しい隊服の手配をしてくれるとは有難いことだった。これで汚れた隊服を着ないで済む。  新しい隊服に着替えて部屋を出る。  兼景の言う通りにA棟の五階を目指す。  エレベーターホールにある軍本部の地図を見るに、特研は地下で独立しており、A棟の五階までは少々距離がある。  しかし兼景があんなに慌てていたのだ。只事ではない。足早に歩いてエレベーターに乗る。  一階で降りて、案内図を頼りにA棟まで行く。そこからまたエレベーターで五階に行く。  五階は廊下を挟んで左右に三つずつ、計六つのホールで構成されていて、どれもが訓練場だった。出入口のシャッターはどれも開け放たれている。 「どこのホールだろう……」  これだけ広い中から兼景とレオニードの二人を探せというのか。  もう一度兼景に通話を入れてみるか。  そう思ってポケットから端末を取り出した瞬間だった。 「兼景! もう一度だ! 次こそ勝つ!」  そんなレオニードの怒鳴り声が右手前のホールから聞こえた。尋常じゃない、何かに怒り狂っているような様子である。 「どうしたんだろう……」  疑問に思いながらホールに入るとすぐ声をかけられた。 「来たか千樫! こっちだ!」  近くで兼景の声がする。見ると兼景が木刀を振り回して居場所を示している。  ホールの中は体育館のようで、ワックスのかけられた板張りの床に何本ものラインが引かれていた。  剣道の試合場のように一辺十メートルほどの四角形の線の中に、兼景とレオニードはいた。 「何してんだ兼景! よそ見してねえでさっさと俺と勝負しろ!」 「レオ、ちょっとは落ち着けって……」  兼景はレオニードを宥めようとしているが、なかなか上手くいかないらしい。  レオニードは兼景の態度に痺れを切らしたかのように手に持った木刀で斬りかかる。  その動きは獣のように速い。剣道の試合であればまず見えない。  試合のように緊張している状態だと視野狭窄が起こる。トンネル視野とも呼ぶ。小さな筒を覗いているように視界が狭まる現象だ。自分にも経験がある。  この状態で相手が速く動くとまったく視界に入らなくなるのだ。  しかし兼景は静かに中段に構えて半歩踏み込み、面に打ってきたレオニードの木刀をいなしてがら空きの胴を打った。お手本のような返し胴である。 「駄目だ、今のお前じゃ話にならねえ。時間も時間だし、飯でも食って落ち着こうぜ。なあ、千樫?」 「お、俺?」  突然兼景に話を振られたので戸惑う。 「兼景が駄目ならチカシ、お前が相手しろ! 刀持て!」 「えっ?」  レオニードは鬼気迫る勢いで怒鳴り散らしている。 「ほら、これ貸すから」  言って兼景はこちらに歩み寄り、持っていた木刀を俺に渡す。 「レオ、千樫が勝ったら飯にする。約束だ」  兼景が諭すように言うと、レオニードは舌打ちをする。 「何でもいい、行くぞチカシ!」  叫んだ瞬間にレオニードは踏み出していた。  倒れこむように駆け、その勢いのまま剣を上段に構えて打ち込んでくる。  真正面から向かってくるのは威勢がいいが、それだけだ。昨日のようなしなやかさがない。  横に踏み出してかわし、中段に構えた剣先をわずかに上げる。  それに釣られたレオニードはまた上段から攻め込んでくる。その手はがら空きだ。  木刀を持っているレオニードの手を打って、レオニードは木刀を取り落とした。今度は小手打ちである。  まさかこんなに呆気なくレオニードに勝てるとは思わず、ぽかんとしてしまう。 「ほら、千樫にも負けるんだぞ。今のお前は猪武者だ。何本やっても勝てねえよ。さ、飯を食うって約束したよな。食堂行こうぜ。千樫もこっち来い」  言って兼景はホールの入り口に向けて歩き出した。 「……わかったよ」  レオニードはまた不満げに舌打ちをして返事をすると、木刀を壁際に置いて兼景の後を着いていった。自分も木刀を置いて二人の後を歩く。  食堂は四階にあった。  広々とした食堂は、まだ十一時だからか人もまばらだ。  ここもトレーを持って列に並ぶバイキング形式である。  兼景はさっさとトレーとプレートを取り、好みのおかずを次々にプレートに載せていく。  自分も兼景に倣って列に並び、おかずの群れと対面する。  まずはサラダを取り、ソースのかかった鶏肉のグリル、マッシュポテト、パンを選ぶ。 「千樫、こっちだ」  言って兼景は人気のない隅のテーブル席に向かう。  兼景の向かいに座ると、やや遅れてレオニードが来て兼景の隣に腰を下ろす。  レオニードの皿にはパン一つが載っているだけだった。 「おいおい、飯くらいちゃんと食えよ。どんな時も生き残るのは飯が食えるやつだ」  心配そうに兼景が言う。 「栄養的には足りてんだろ」  拗ねたようにレオニードは言ってパンを齧った。そして数回咀嚼しただけで飲み込んでしまう。 「……薄々勘付いてはいるがな。どうしてそんなに荒れてんだ、お前は」  サラダを食べながら兼景はレオニードに問う。 「……今回の戦い、俺は何もできなかった」  俯いてレオニードは言う。 「何もって、ちゃんと魔族の足止めはしたろ」 「そうじゃねえ! 魔族を倒せれば本部だって攻撃は受けなかった、悪魔を倒せれば……。悪魔さえ、倒せば……!」  己の不甲斐なさを悔いるようにレオニードは心情を漏らす。 「シュラミットさんのこと、思い出してんだろ」 「誰ですか、シュラミットさんって」 「言っていいのか」  兼景はレオニードに確認を取る。 「……別に。好きに話せよ。もう終わったことだからな」  レオニードはそう言って、テーブルに肘をついてそっぽを向いた。  兼景はそれを見てから口を開く。 「シュラミットさん、てのはレオニードの運命の番だ」 「運命の、番……」  ここに来たばかりのとき、アカートから少し教えてもらった。運命の相手と番う、そういう本能があるとだけ聞いただけだが。 「俺も転生者なんでよくは知らないが、運命の番のαとΩってのは引き離せないほど強い結びつきでな。レオとシュラミットさんも、色々あって運命の番になったんだそうだ」 「それで、シュラミットさんは今……」 「死んだよ。魔族にやられてな」  レオニードはそう言い捨てた。 「……俺とシュラミットは東のテティスの生まれだった。家から逃げ出して盗みで食ってた俺に、シュラミットはまともに向き合ってくれた」  レオニードはそこで言葉を区切る。 「レオニードさんも、家出したんですか」  家出。その言葉にふと、頭の中で何かがちらついた。 「俺はαの生まれで、両親が強盗に殺されて親戚に養子に出された。俺はその時十七歳だった。俺がもっと強ければ両親を守れたはずだって、ずっと思ってた。だから俺はずっと強くなりたかった。でも、養父はそれを許してくれなかった。勉強していい大学に入って、自分のやってた会社を継がせたかったんだ。俺はそれが嫌で家を出た。俺は警官や軍人になりたかったんだよ」  レオニードは言って溜息をついた。 「逃げた先に俺の居場所なんてなかった。警察や軍に入りたくても一つ歳が足りなかった。持ち出してきた金も無くなって、俺は盗みに手を出した。盗むのに丁度いい穴場があったからな」 「穴場?」 「俺はαだからΩはまず手出しができねえ。だから俺はΩの隔離区画に行って食い物を盗んでた」 「Ωって隔離されてるんですか」 「場所によってはな。チタニアのドーム内だってΩ用の居住区画はあるぞ。発情期対策にはΩを隔離するのが一番手っ取り早いからな」  兼景はそう言った。 「俺のいたテティスはΩの隔離区画に壁があってな。そこを越えればやりたい放題だった。そこで食堂で働いてたシュラミットに会ったんだ。盗みに来た俺とばったり出くわして、あなたはαなんだから、私とは違ってまともに生きていけるでしょうって言って、内緒で飯を食わせてくれた。俺みてえな悪いαに襲われるかもしれねえのによ。俺はΩなんて何もできねえクズだって見下してたってのに優しくされて、何のために生きてんだろうって思った」  レオニードはどこか遠くを見ているような目をしていた。 「次の日、俺はまたシュラミットのいる食堂に行った。何でもいい、ただ会いたかったんだ。裏口で待ってるとシュラミットが倉庫に来た。そこでまた俺を見つけると、紙袋にパンを入れて持ってきてくれた。これは私が買ったものだから大丈夫って。Ωの少ない稼ぎで、俺なんかにパンを買ってくれたんだ。俺は何かしてやりたかったが、何もできなかった」  少し黙って、レオニードは続きを話した。 「そんなのが何回も続いて、俺はシュラミットのためにまともに働こうと思った。下働きのアルバイトで稼いで、シュラミットに礼がしたかった。誰かのために何かしたいなんて思ったのは久しぶりだった。初めての給料で花を買ってシュラミットのところに行った。でも、あいつは来なかった」 「来なかったって、どうして……」 「Ωは隔離されちゃいるが、許可があれば壁の外にも出られるんだ。それでシュラミットは母親の誕生日プレゼントを買いに壁の外に出た。そこで突然発情期になっちまってαに襲われたんだ。すぐに抑制剤を打って未遂なのが救いだったが、暴力を振るわれて手に怪我をした。俺が近くにいればそんなことにはならなかったのに、って思った。俺はまた何もできなかった。俺はバイトが終わってから、シュラミットがまた仕事場に来るまで毎日待ち続けた。一週間後、やっとシュラミットが来た。それで俺は言った。お前は俺が守るって。冗談だと思われて笑われたけどな」  レオニードは自嘲するように言う。 「でも、また壁の外で買い物をしたいから一緒に来てくれないかって言われて、俺はすぐに頷いた。予定の日に、俺はちゃんとした格好をしてシュラミットを迎えに行った。それで特別な買い物をするんだって食器屋に行った。でも、入る寸前になってやっぱやめるって言い出したんだ」 「それは、何でですか」 「こんなに薄汚い格好で入れないって、場違いだったって。俺には聞こえなかったが、すれ違いざまにマフラーがぼろぼろだって笑われたんだと。でもこれは母ちゃんからもらったもんで、子供の頃から大事にしてるって泣きそうになって。これを外したら首輪が見える、Ωだってバレるからって。俺はそんなことねえって、シュラミットの手を取って食器屋に入った。そりゃ確かに高級店だったがよ、断られるほど汚い身なりじゃねえ。だから、俺がいるから気にすんなって言ってやった。それでシュラミットはティーカップを買った。大して高いもんじゃなかったが一年間頑張って金を貯めたんだと。いい年した大人が嬉しそうにしてよ。隣にいてくれてありがとうって言ってた。俺はそれを見て、シュラミットには笑っててほしいし、守りてえって思ったんだ。その帰りにシュラミットの家まで行った。シュラミットは俺を家に上げてくれて、俺たちは運命の番になった。シュラミットを守ると誓ったんだ。……でも、守れなかった」 「守れなかったって……」 「俺は十八になって軍に入った。シュラミットと結婚して、俺の稼ぎで食わせてやれるように特殊部隊に志願して、どんなに厳しい訓練でも耐えた。貯金もできて、やっと胸を張ってシュラミットと結婚しようって思った矢先だった。悪魔が攻めてきたのは」  悪魔が攻めてきたのは一年前だったはずだ。 「テティスは魔族に襲われてジリ貧だった。俺は部隊で魔族を相手にしてたが、上級魔族となると話にならねえ。テティスはいつまで持つのかわからなかった。だから俺は軍から逃げて、シュラミットとその家族と一緒にこのチタニアまで避難しようとしたんだ。ここには一人で悪魔を倒せる教官がいる。食い物にも困らない。同じことを考えた人間同士で車を出して、トラックに詰め込まれてチタニアに出発した。その時だった。魔族が襲撃してきたのは」 「それで、シュラミットさんは……」 「……俺一人じゃどうしようもなかった。俺以外全員死んじまったよ。……その時俺は思った。弱い奴が悪いんだってな」  レオニードの告白に、言葉が出なかった。  そうだ。ディヒトバイも過去に傷を負ったし、この世界の他の人間だって何かを失くしている人がいるくらい、想像できたはずなのに。 「目の前の人間一人守れねえ弱い俺も悪い。だがな、身を守れねえくらい弱いΩも悪いんだ」 「そんな、それは言い過ぎですよ! 貧乏な家に生まれたのが悪いって言ってるのと同じじゃないですか。生まれは誰だって選べないのに……」 「転生者が何をごちゃごちゃほざいてやがる。そっちの世界はさぞ単純だったんだろうな」  レオニードは自分の弱さを認められないのだ。だから他人を弱いとすることで悪にする。そんなことをするほどレオニードは深く傷ついているのだろう。  迂闊に過去のことやΩについて触れるのはよくないような気がした。 「なあレオ、お前の気持ちはわかったが、我武者羅に剣を振っても強くなるわけじゃないだろ」  兼景は言う。その通りだ。 「俺ならいつでも相手になりますから、一緒に強くなれるように頑張りましょう」 「…………」  レオニードは不満げに黙り込んでいる。 「ところで千樫、お前も剣の心得がありそうだったな。武家の生まれか?」  黙ってしまったレオニードから俺を見ながら、兼景は問いかけてくる。 「ぶ、武家? 侍ってことですか?」 「違うのか? 剣を振るうのは戦うからだろ?」  兼景は不思議そうに聞いてくる。 「いや、全然、俺なんかただの庶民で……。剣道だってスポーツですよ」 「スポーツ……運動のためってか。お前のところ、日本って言ったっけか。そこは随分と平和な世なんだな」  呆れるように兼景は言った。 「そういう兼景さんの……扶桑でしたか。どんな所なんです」 「俺は扶桑の和泉国、そこの武家の生まれよ。ここみたいにカガクもない、争いばかりのところだった。二人の帝がいて、どっちが正統かでずっと争ってたんだ。俺の家もそれに巻き込まれてな」 「本当に武士なんだ……」 「そうよ。剣術を修めるのは戦うため。敵に勝つためだ」  実にシンプルな結論だった。 「俺はある戦で負けて、逃げる途中で農民の落ち武者狩りに遭って殺された。それで気付いたらこの世界にいたんだ」 「じゃあ、この世界に慣れるのに大変だったでしょう……」 「中途半端に変わるよりは、何から何まで変わっちまったほうが諦めもつくってもんだ。考える前に受け入れるようにした」  言うのは簡単だが、実際に行うのは難しいだろう。 「俺の場合は不便なのが便利になったってのが多いんだから楽なもんさ。俺の家族にもこんないい暮らしをさせてやりたかった。特に身重の嫁にはな」  残念そうに兼景は言う。 「えっ、お嫁さんがいるんですか⁉」  兼景は自分とそれほど歳は変わらないように思う。それが子持ちと聞かされると驚いてしまう。 「当たり前だ、二十なんだからいないほうが問題だろ」 「いや、武家の人はそうかもしれないですけど、俺のいたところなんて二十歳過ぎるまで学生で、結婚なんて、とても……。相手なんて選べないし……」  自分は今十九歳だが、あと数年したら結婚などというビジョンはまったく見えない。 「こっちは生まれる前から許嫁が決まってるんだ。結婚は家のため、血のためにするんだよ。だからお前らの言う恋愛、なんてのは理解できないな。結婚してから相手を好きになるもんだ」  それだと順番が逆のように思うが、昔の見合い結婚も結婚という結果が先にあると思えば、案外最近まで残っていた価値観なのかもしれない。 「こっちに来て面倒な柵から解放されたと言や都合がいいのかもしれんが、いざなくなるとどうしたらいいのかわからないのが困ったところだな。俺には国もなきゃ家もない、家族もない。どこにも寄る辺がないってのは、いざってときに踏ん張りがきかない」 「でも、兼景さんはちゃんと戦ってるじゃないですか。国を、世界を守るために」 「そりゃ戦うしか能がないからよ。一宿一飯の恩義ってもんだ。飯を食わせてもらっただけ働く。それだけだ」 「……それだけで、命を懸けられるんですか」  この世界は確かに悪魔と戦う世界だが、何も戦うだけが生きる道ではない。 「馬鹿。言っただろ、俺は武士だ。それが今更怖いって逃げられるかよ。それこそご先祖様に申し訳が立たねえ」  大切なものを守るために命を懸ける。兼景はそう生きるように教育されてきたのだ。そこに何を言っても無粋だろう。 「それこそ千樫、お前は何で戦ってるんだ。お前のいた世界は平和だったんだろう」  兼景はそう問い返してきた。 「俺は……」  俺は流れでここにいる。  この世界に流れ着いて、ディヒトバイに助けられ、成り行きで協力することになり、近くにいるのに不自然ではないようにと軍人になった。  でも、そこに俺の意志がないかと言われるとそうではない。  ディヒトバイに協力すると決めたのは自分の意志であるし、昨日の戦いでディヒトバイの元に行ったのも自分で決めたことだ。  それは何故か。  ボロボロになっても立ち上がるあの人を、守ってやりたいと思ったから。 「……守りたい、人がいるから……」 「守りたい人?」 「周りからは強いって言われてるんですけど、背中を見ると傷だらけで、なんで立っていられるんだろうって、不思議で……。誰もその人のことを守らないなら、俺が守らなくちゃって思って……」 「なんだ、そりゃ教官のことか?」  兼景が呆けたように言う。  まさかバレるとは思わず、どうしようかと慌てふためく。 「いや、その……」  バレると恥ずかしいから濁したのを当てられると、どうしていいのかわからなくなる。 「教官はそんなタマかぁ? なあ、レオ」  兼景はずっと黙り込んでいたレオニードに尋ねる。 「……教官は十分に強いだろうが。守るなんて言ったら逆に失礼だろ」 「そうそう。まさに泰然自若って感じだけどな。有名人だし色々言われてはいるけどよ。気にしてるようには見えないぜ」  兼景はそう言って苦笑いする。  兼景は知らないからそう言えるのだ。  あの人がどれだけの傷を心と体に負い、それでもなお強い決意で悪魔と立ち向かっていることを。 「……俺にはディヒトさんが、なんで立っていられるのか不思議なくらいに見えますよ」  その時だった。  食堂内の天井から釣り下がったモニターが記者会見に切り替わる。 「お、やってるやってる」  兼景はモニターに視線を移した。俺もモニターを見る。  壇上には一人分の台があり、横から眼鏡をかけたスーツ姿の男がファイルを持って台の前に立った。  字幕テロップには「都市防衛についての記者会見」と書かれている。 『防衛大臣のデニス・ミュラーです。この度は昨日行われた悪魔討伐についての概要について申し上げます』  そう前置きをして、防衛大臣は言葉を続けた。 『昨晩首都チタニア南部一キロ地点に出現した魔族、及び悪魔ですが、皆さんもご存じの通り、無事討伐に成功致しました。出現したのが都市に近いこともあり、市民の皆様、及びプロテウスからの避難民の皆様におかれましては、不安を抱かせてしまい申し訳ありません』  防衛大臣は言って深々と頭を下げて詫びた。悪魔を倒したのだから、謝るようなことはないと思うのだが。 『討伐作戦においては、統合軍で百五十三名が死亡、避難民百十四名が重軽傷、一名の死亡の被害が確認されております。避難民キャンプは半壊、一刻も早い復旧を進めております』  そこで防衛大臣は言葉を区切った。 『今回の討伐において、ディヒトバイ・W・ヴァン・デン・ボッシュ少佐が活躍し、悪魔を消滅させることに成功いたしました。第四次悪魔掃討作戦での負傷により半年にわたる長期の療養を行っていましたが、今回の作戦から前線に復帰することとなりました。今後の魔族、及び悪魔討伐における要として、全力でサポートをする所存です。また、今回の悪魔討伐に貢献したことから三つ目の議会名誉勲章を授与することを決定いたしました』  そこでカメラは座っているディヒトバイを映し、また防衛大臣に戻った。 『今後の魔族、及び悪魔討伐に関しまして、確認されている悪魔は一機となり、世界を救うまであと一歩となりました。市民、避難民の方々が安全に暮らせるよう全力で努力いたします。現在防衛省では第五次悪魔掃討作戦を計画中であり、それに向けての大規模演習を行う予定です。今後も引き続き、皆様のご協力をお願いいたします。私からは以上です』  防衛大臣はそう結んだ。 『続いて、ディヒトバイ少佐からのコメントです』  司会が言うと防衛大臣は退場し、隊服に勲章をつけたディヒトバイが台の前に立った。背筋がぴんと伸びていて、堂々とした態度に見える。 『ディヒトバイ・W・ヴァン・デン・ボッシュです。先程防衛大臣からの説明がありました通り、此度の作戦から前線に復帰致しました。長期の療養で皆様にご心配をおかけしたことをお詫び申し上げます。これからは以前のように作戦に参加致します』  ディヒトバイはそこで言葉を区切った。 『また、私の現状についても簡単な説明を行わせていただきます。今まで重傷による療養とだけ説明しておりましたが、それは市民の方々に過度な不安を与えないよう配慮したものでした。私は第四次悪魔掃討作戦の折、見ての通り右目を失いました。また、大規模な頸部裂傷により声帯麻痺が起こり、人工声帯を使用して発声しています。そして、四肢の切断により現在は義肢を装着しています』  その発言に会場がどよめいた。まさかそこまでの重傷とは思われていなかったのだろう。 『一時期は意識不明の重体でしたが、度重なる手術、リハビリによって以前の能力を取り戻しております。それについては、今回の悪魔討伐によって十分証明ができたと思っています。残る悪魔一機におきましても、一日も早く討伐ができるよう全力で臨みます。皆様のご期待に添えるよう尽力していきます。以上です』  そう言ってディヒトバイが話を終わらせる。  するとディヒトバイは脇に控え、大臣が戻ってきた。 『では、質疑応答の時間です』  とある記者が名乗って質問した。 『チタニアには悪魔フォカロルがいますが、その扱いについては今後どうされますか?』 『残りの悪魔一機を倒すまで協力する、と意思表示しています。その後自ら退去すると。彼は悪魔ですが、我々の味方です』 『悪魔の言うことが信用できますか?』 『信用に値します』  大臣はそう言い切った。 『プロテウスからの避難民の受け入れについては? ドーム内にこれ以上人を収容できる場所はありませんが』 『公共施設、及び一部の民間施設を新たに住居用に建て替える予定です。これについても少しでも早く進められるよう調整をしております』 『統合軍にばかり予算が割かれていて、配給の遅れなど市民の生活に支障が出ていますが、これ以上市民に負担を強いるおつもりですか』 『重々承知しております。それについても予算の見直しを図る予定です』  矢継ぎ早に浴びせられる質問に大臣は次々と答えていく。 『ディヒトバイ少佐の出撃の遅れで市民の被害、死亡者が生じたと言えます。それについては』 「何言ってんだ、避難中に転んで頭打って死んだだけだろ」  兼景は呆れたように言う。 「そうなの?」 「今朝のニュースで言ってたぜ。……結局は軍部の連中がいい暮らししてるのが気に食わねえのさ。だから軍部を叩いてるんだよ。そうすりゃ市民も少しは溜飲が下がる。市民に我慢を強いてるのは本当だから、慎ましくしなきゃいけないのはそうだがな」  そう兼景と話していると、次の記者が口を開いた。 『ディヒトバイ少佐がΩに転化したというのは本当ですか? Ωになって低下した身体能力を悪魔の力で補完していると聞きました。もし本当ならその説明が欠けていると思いますが』  ある記者が大声で質問した。  その言葉にディヒトバイは少し驚いたように表情を崩した。  どこからの情報だ? その件については特研関係者しか知らないはずだ。  突然の発言に再び会場が困惑に包まれる。 『今の話は本当ですか⁉』 『何かコメントを、少佐!』  記者が次々にディヒトバイに言葉を浴びせかける。  会見を見ていた人々も、どういうこと、と話し始めている。  大臣は何も答えられないディヒトバイを押しのけてマイクの前に立つ。 『コメントを控えさせていただきます。会見は以上です』  そう言ってディヒトバイと共に去っていく。カメラはそれを追いかける。  そして映像は途切れ、報道ニュースのスタジオに切り替わった。 「おい、何だよ今の……」  レオニードは驚きでそれしか言えないようだ。  同じように会見を見ていた食堂内の人間もざわついている。  人類最強の英雄と呼ばれた男にΩの疑惑が持ち上がることの重さが見て取れる。 「……千樫、お前教官と何かあったな?」  兼景が訝しむように眉を寄せて尋ねてくる。  その時だった。  ポケットに入れていた通信端末が振動する。長く続いているから通話の呼び出しだろうか。 「ちょっと待って」  言いながら端末を手にすると、アカートからの通話だった。大事な話だろうか。休みの日につまらないことで連絡をする人間には思えない。 『チカシ、今の会見見てたか』 「はい、見てました」 『これから国のお偉方が特研に来るんだよ。ディヒトがΩってのはどういうことだってな。すぐこっちに来てほしい』  説明をする、とは。まさかディヒトバイの体のことを全部話すつもりだろうか。 『……返事は』 「は、はい。わかりました。すぐ行きます」  そう返すと通話は切れた。 「ごめん、呼び出されちゃって……。検査の結果がおかしかったみたいで」  兼景に詫びる。これから席を外すこともだが、嘘をついたことにもだ。 「検査? そういやお前、変な体質だからって特研の世話になってんだったか」  前に話したことを覚えていてくれたのは助かる。  チキンとマッシュポテトを飲み込むように食べて、行儀が悪いがパンは歩きながら食べることにする。 「皿なら片付けとくから、さっさと行ってこい」  兼景に頭を下げて、パンを頬張りながら特研に向かった。  エレベーターで地下に降りている途中、また端末が振動する。今度は一瞬だったので何らかの通知だろう。  端末を見るとメッセージが届いている。これも差出人はアカートだった。  内容を読む。  ――ディヒトがΩであることを話す。だが他のことは秘密にしておく。口裏を合わせろ。迎えを行かせるから着いてこい。  それだけだった。 「迎えって誰だろう……」  そう言った瞬間に特研のフロアに到着する。  俺がエレベーターから出ると刀を腰に差したイングヴァルが近寄ってきた。 「やあ、チカシ君。大変なことになってしまったね」  イングヴァルは優しく微笑みながら話しかけてくる、  どうやらイングヴァルが迎えのようだ。イングヴァルは特研に向けて歩き出し、その隣を歩く。 「国のお偉方ってどんな人ですか?」 「まずは防衛省のウィレム事務次官、デニス防衛大臣、そしてマイルズ大統領補佐官だ」 「はぁ⁉」  大臣に大統領補佐官と聞けば、なんとなく大学生をやっていた俺にもえらさがわかるというものだ。 「ほ、本当にそんな人に話すんですか?」 「隠し事にも限界はある。まあ、君は何もしゃべらないことだ。若造のついた嘘なんてすぐに見破られてしまうからね。相手は腹芸でのし上がってきたんだから」 「……まあ、全部を話すわけじゃないですからね。何も言われないかも」 「それはどうかな。君はまだこの世界を知らない」 「どういう意味ですか、それって」 「すぐにわかるさ」  丁度特研の入り口に差し掛かり、イングヴァルはカードキーを翳して中に入った。  中にはディヒトバイ、アカート、三人のスーツ姿の男がいた。一人は前にあったウィレム事務次官、ディヒトバイの父親だ。  もう二人は黒髪の老齢の男性と、眼鏡をかけた男だった。眼鏡の男は先程会見でも見た防衛大臣だ。となると黒髪のほうが大統領補佐官になる。  ディヒトバイとアカートはパイプ椅子に座り、他の三人は見学席に座っている。 「大隊長、丁度いいところに。これから話を始めるところで」  アカートが言って、空いていた二脚のパイプ椅子を俺たちに勧めた。  ディヒトバイの隣にはイングヴァルが腰を下ろし、四人並んだ一番端に俺が座った。  ウィレム事務次官、防衛大臣、大統領補佐官は、俺のことを怪訝な目で見ている。  それはそうだ。重要な話し合いだというのに大した階級もない一般兵がいるのだから。 「どういうことだね、アカート特務医官」  ウィレム事務次官が厳しい口調で言った。 「少佐がΩに転化したのはゴシップではありません、事実です」  アカートがそう宣言すると三人は顔を見合わせた。 「八か月前、少佐が悪魔に攻撃された折、体をΩに作り変えられました」 「しかし、少佐がΩだというなら悪魔を倒すなどできないはずでは?」  防衛大臣が言った。 「仰る通りです。並のΩなら悪魔を倒すなど夢のまた夢。しかし皆様もご存じの通り、この世界には新たな力が発生しました。思念の力です。それによって少佐は悪魔殺しを達成しました」 「そんなことが本当にできるのかね? だってΩなんだろう?」  補佐官は眉を寄せて疑問に思っているようだ。Ωは身体能力が優れていないので、それは当然の疑問だろう。 「ええ。思念の力は本能に近いほど大きな影響力を持ちます。そこの彼は数日前にこの世界にやってきた転生者、カシマ・チカシ。彼は特殊な体質をしており、彼と少佐は疑似的な運命の番とでも言うべき関係にあります」  言ってアカートは俺のほうを見た。三人も俺のほうを見る。それだけで冷汗が止まらなくなる。 「少佐とチカシ青年が近い距離にいると、少佐の身体能力が向上するというデータが取れています。昨日の件でも、チカシ青年は前線に出て少佐と近い位置にいました。少佐がΩでありながらも悪魔殺しを達成したのは、チカシ青年の協力があってこそです」  虚実織り交ぜたアカートの説明に三人は唸っていた。 「困るな」  補佐官が苦々しげに言った。 「何が、ですか? Ωに転化したとはいえ、悪魔を倒すほどの力はあるのです」 「だから困るんだよ。英雄はαでなければ」  補佐官は当たり前のように言った。俺はその言葉の意味を理解するのに時間がかかった。 「困りますね、Ωは軍に在籍できない」  防衛大臣も補佐官に同調した。 「これまで社会を動かしてきたのは我々αなんだよ。それを、元はαだったとはいえΩが世界を救うなど。αの面子に関わる」  補佐官は言う。 「人類が滅ぶか否かの瀬戸際なんですよ? αの面子など捨てればいいではありませんか」  アカートは真っ向から歯向かった。 「アカート特務医官、君は医者だから怪我だの病気だのには詳しいのだろうがね、政治がわかっとらん。αが統治をしてこそ社会が回るのだ」 「Ω差別をなくすと公約を掲げた与党の補佐官にあるまじき発言と思いますが」  アカートは引かずに口を開く。 「何回言わせる、医者は患者を診るのが仕事だ。政治には関係ない」 「しかし……」  なおも引き下がるアカートに防衛大臣は言った。 「ああ、そういえば君は番を事故で亡くしていたね。キースチァとか言ったか」 「大臣、何故それを……」  アカートはわずかに狼狽える。 「特別研究室を預ける人間を調査しないわけがないだろう。駄目だ駄目だ、Ωと番ったαは全員Ωを大切にしようなどと言う。Ωなどというゴミにあてられてな。我々がΩを生かすためにどれほどの無駄金を使っているか。Ωはαやβの足を引っ張るだけだ」 「ΩもΩだ。真っ当に生きられないのは努力が足りないのではないかね」  防衛大臣につられて補佐官が吐き捨てるように言う。 「何を偉そうに……!」  自分でも驚いた。自分が感情のまま、意識より先に喋っていることがあるなんて。  でも言葉は止まらない。 「さっきから何なんですか、あなた達は! 昨日ディヒトさんが悪魔を倒したから無事に生きていられるんですよ! あなた達みたいな人間もディヒトさんは守ったんだ! 命を懸けて! それをΩだから認められないとか……! 一体何を見てるんですか!」 「まあまあ、チカシ君、落ち着いて」  イングヴァルが言う。 「こんなに言われ放題で落ち着けますか⁉」  こいつらはディヒトさんの何を知っているんだ。そう思うと怒りが抑えられなくなる。  補佐官がディヒトバイを見ながら口を開いた。 「いけないなぁ、少佐。自分の口で言えないからと他人に言わせるのは」  その発言で更に頭に血が上る。 「違う! 言わされてるんじゃない、俺があなた達に怒ってるんだ! これ以上ディヒトさんを侮辱するな!」 「チカシ君。ここは喧嘩の場所じゃない。話し合いの場だ」  イングヴァルが宥めるように話しかけてくる。それも焼け石に水というものだ。だが、俺はもうこの三人に対する嫌悪感でこれ以上の意思疎通をするつもりもなかった。 「何だね、転生者風情が。君はこの世界の何を知っているというんだ」  補佐官はこちらを睨みつけながら言う。  アカートが隙を見て口を開いた。 「チカシ君の言葉にも一理あります。Ωになった少佐の前でそれを言いますか、お三方」  ディヒトバイはただ俯いて話を聞いていた。 「医者は綺麗事しか言わん。もういい、君の話は聞き飽きた。……まあ、今更悪魔を倒したことをなしにはできん。何か対策が必要だ」  補佐官は渋々とした様子で言う。 「しかし、なぜそのことを今まで黙っていたのかね? 少佐、特務医官、それに大隊長」  事務次官は尋ねた。 「それは僕から言いましょう」  イングヴァルが口を開いた。 「少佐がΩである事実を話した時のあなた方の反応、それが答えです。Ωに対する偏見や差別意識は根強いものがあります。迂闊に公表すれば誹謗中傷の的になりかねません。説明するべき時期を見計らっていました」  三人は少し思案するように黙り込んだ。 「……しかし、今なら公表してもよいのではないですか。悪魔を倒した実績があります。私としても、いつまでも秘密を抱えるのはよくないと思います。特研のスタッフに緘口令を敷いていましたが、人の口に戸は立てられません。実際、なぜかマスコミにすっぱ抜かれていました。まあ、軍を叩きたいがために言った出任せなのかもしれませんが」  イングヴァルの言葉に三人は悩んでいた。 「悪魔の侵攻以来、余裕を失くした民衆へのΩ差別は高まる一方です。そこに人類最強の英雄がΩであり、Ωに世界を救われたとしたら、Ωへの差別も少しはなくなるというものでしょう」 「それを考えるのは軍人の仕事ではない。我々の仕事だ」  補佐官はイングヴァルの言葉を切って捨てた。 「少佐はどう思うのかね」  補佐官がディヒトバイに尋ねる。 「……ご命令に、従うだけです」  暗く沈んだ声音で、呟くようにディヒトバイは口にした。  当事者のディヒトバイの言葉に、全員が静まり返った。  そして、溜息をついて補佐官が席を立つ。 「この件は一度持ち帰らせてもらう。アカート特務医官はデータをまとめて提出するように。そして……」 「そして?」  アカートが尋ねる。 「二度と隠し事をするな。何かあれば全てを我々に報告すること。わかったか。次があると思うな」 「……承知しました」  補佐官と防衛大臣は特研から出ていった。  そして、一人残ったウィレム事務次官はディヒトバイのことを睨みつけていた。  それだけでは留まらず、急に立ち上がって椅子に座っていたディヒトバイを殴った。避けられなかったのか、あえて拳を受けたのか、ディヒトバイは床に倒れた。  ウィレムはさらに馬乗りになってディヒトバイを何回も殴りつける。ディヒトバイは抵抗せず、殴られるままだった。 「Ωになっただと⁉ 馬鹿息子が、ボッシュ家の名に泥を塗るつもりか⁉」  ウィレムはディヒトバイにヒステリックに怒鳴った。 「何するんですか!」  俺は慌てて事務次官を羽交い絞めにする。事務次官は拘束を解こうともがいている。 「止めるな! ボッシュ家はαとして代々軍で優秀な功績を残していたんだ、それがΩになった⁉ 先祖に顔向けができない!」 「悪魔を倒して世界を救えばこれ以上ない功績です! それに、なってしまったものはどうしようもありませんよ。認めるしかありません」  アカートが言う。 「っ……」  事務次官は大人しくなって、俺は手を放す。  事務次官はディヒトバイを睨みつけながら服の乱れを正した。 「……もう息子とは思わん。父とも呼ぶな。事が済んだら縁を切る」  それだけ言い捨てて事務次官は去った。 「大丈夫ですか、ディヒトさん……! 親でも言っていいことと悪いことがある……!」  ディヒトバイに駆け寄り、手を取って体を起こす。 「……別に」  ディヒトバイはぶっきらぼうに言った。その額には血が滲んでいる。 「別にって、血が出てるじゃないですか!」 「指輪してたからな」  それを聞いたアカートは医療キットを持ち出してきた。  個包装された綿を取り出し、ディヒトバイの出血箇所を拭って絆創膏を貼る。 「なあ、お前本当に平気なのか? 俺にはお前が無理してるようにしか見えねえんだが……」 「無理なんてしてねえよ。親父と仲が悪いのは昔からだったしな」  そう言ってディヒトバイは立ち上がる。 「なあ、レオと兼景には言っていいか」 「はぁ⁉」  ディヒトバイの申し出にアカートは素っ頓狂な声を出した。 「これ以上秘密を知る人間を増やすのも危ないし、あの二人だってどんな反応するかわからねえだろ。兼景は転生者だからともかく、レオニードは生粋のαだぞ」 「これ以上誰にどう嫌われようと構わねえ。だが、あの二人は俺によくついてきてくれた。だから隠し事はしたくねえ」 「……どうなっても知らねえぞ」 「迷惑かける」 「そんなこと言うなよ。お互い様だ」  そう言ってアカートは笑った。 「いいですか、大隊長」 「ああ、君が決めたことだ。意思を尊重するよ」  イングヴァルも頷いた。 「あの二人を特研に呼ぶのはまずいな。他の連中に何かあったと勘付かれる。こっちから行くほうがいいだろう。僕の執務室はどうだ? あそこなら防音も効いてるだろう」  イングヴァルは端末を取り出し、どこかに連絡を入れた。

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