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 派手な音と共に飛び込んできた彼は、驚くほどに真っ黒だった。  クロミヤコドリがうっかり紛れ込んだのかと思った。でも残念だ、ここは日本の最北端の繁華街で、時間は深夜に近く、野鳥がのうのうと目の前を通り過ぎるような場面ではない。というわけでそれはクロミヤコドリじゃなくて、単に真っ黒な人間だった。  乱暴すぎるほど乱暴に店の扉を開けた黒い人は、滑空する鳥のように、脇目も振らずにカウンターの端までつかつかと歩き(それはもうびっくりするほど速足で!)、癇癪を起した子供が投げた人形みたいな反動をつけて椅子に座る。心地よい雑音で満ちていた店内は、朝の湖みたいに静かになる。みんな、黒い人の次の行動を待って、息を飲んで観察しているかのようだ。  すううう、っと息を吸う音がする。次に聞こえたのはでかすぎる嗚咽で、その声の低さで初めてぼくは、その人が『彼』であることを知った。  日本人は細いね、本当に。女性も男性もみんな平均的に細いから、ぼくなんかは一見して彼らの性別すら判断がつかない。みんな髪の毛結構長いし。でもよく考えたらこの店は男性の同性愛者が集まる場所なんだから、そりゃ彼は男性だよね、ということに後から気が付いた。ぼくはしたたかに酔っていたのかもしれない。  夏の終わり、九月。  どうしても外せない学会の用事で来日したぼくは、どうしてもお願いしますと友達に頼み込まれて、急遽トウキョウからサッポロへ飛んだ。遠くてごめんと言われたけれど、いやいやニュージーランドからアラスカへの移動に比べたらこんな距離大したことはない。  やばい人に目をつけられちゃったかも。ヤルマリ、ちょっと僕の彼氏ヅラしてしばらく飲んでくれないかなぁ、お酒は奢るし勿論ご飯も奢るしなんならこの前の査読の話も受けるからさぁ。  そう言って、ビデオチャットで『お願い』のポーズをとってぼくを召喚したのは、ミキハラという名の同業者だ。そして彼は今さっき、本来彼氏ヅラをするべきだったイタリア人に颯爽と連れ去られたばかりだった。  巻き込まれた、なんて思うわけない。迷惑? とんでもない! この日のぼくはとてもハッピーだった。  ミキとアンドレアのじりじりとした関係性は、見守っているこっちがそわそわしてしまうようなじれったいものだったし、何よりぼくは友人たちが幸せヅラをしているのが割合好きだ。ハッピーの名残を肴に、ぼくの酒はどんどん進む。  日本の店はキレイで楽しい。普段はよそよそしい彼らも、アルコールに背中を押されると途端に笑顔を小脇に抱えて、ぼくの肩を叩いてくる。正直ちょっと不用心なくらいで、その気さくさが安全大国日本って感じでもある。  ぼくはゲイじゃないけれど、まあ同性愛に偏見はないし、たぶんバイなのでこの店でお酒を楽しんでいても問題ないよね? と思うことにして、しばらく『頼めばなんでも出てくる優しい日本のバー』を楽しんでいたところだった。  バン、と激しい音が響いた。そして前途のように、黒い鳥の如き男性が駆け込んできたのだ。  ぼくと好きな映画の話を日本語で繰り広げていたマスターは、泣きだしてしまった彼を見てちょっとだけ眉を寄せると、ごめんねとあいさつしてからそちらに歩み寄る。気にしないでと手を振りながら、甘いお酒を飲むふりをしてそっと耳をそばだてた。 「ちょっと~……なあに、久しぶりだってのに、いきなり号泣はないんじゃないの? 挨拶くらいしてから泣きなさいよ。ほらぁ、ちょ、汚……アンタの中で唯一褒められるところなんだから、顔面は大事になさいよ!」 「…………顔大切にしたら、慰めてもらえんの?」 「嫌よ。アタシは嫌。出禁にしないだけ優しいと思いなさい。てーかアンジュ、また振られたのぉ!? 今年入って何度目よ!?」 「数えたくない…………ねぇまじでおれの何が駄目なの? いやわかるけどさぁーこういうところだよおれの全部だよ陰湿で粘着質で猪突猛進で怖いんでしょ知ってる知ってるめっちゃ言われるもん別れ際にさぁ!」 「こっわ、まじでそういうところよアンタ……今日は新規の子も多いんだし、ちょっとは声落として頂戴。静かに泣いてるだけならそこの席貸してあげるから」  口では随分と辛辣なことを言いつつも、カウンターの中の男性は慣れた様子でギムレットを作って彼の前に置く。テキーラがいい、とごねる彼の名はどうやら『アンジュ』というらしい。  日本人っぽくない名前だなぁ。もしかしてミキの『ミッキー』と一緒で、ちょっと個性的なあだ名なのかも。  アンジュは確かに心配になるくらいだらだらと涙を流していて、時折マスターが差し出した鼻紙で鼻をかむ。目が真っ赤で、真っ黒な髪の毛は肌に張り付いてぼさぼさだ。  中途半端に伸びたミディアムヘアーはちょっと変な髪型で、子供が人形の髪を適当に切ったみたいな……なんていうか、鋏を横に入れてばつん、と切ったのかな? という感じだ。不揃いで、独特で、ちょっと印象に残る。  そんな不思議な見た目なのに、それでも『きれいな人だな』と思えるのだから、本来の彼はそれなりに見目麗しい容姿なのだろう。ただ、うん、なんだかすべてが台無しだ。  変な子だ。不思議な子だ。日本人も外で泣き喚いたりするんだねぇ。不思議。この国の人たちは、感情を閉じ込めるのが好きなのかと思っていたぼくは、なんだか彼に興味が湧いてきた。  それに実はさっきうっかり気が付いてしまったのだけれど――後ろの席でやけ酒を煽っていた男性――そう、ミキの元ストーカーの彼が、アンジュの方をちらちらと窺っているのだ。  うーん。……ぼくは厳密にはゲイじゃない。男性だって気にしないけど、バイを好まないゲイの人もいるだろう。アンジュと呼ばれた青年はどう見ても二十代で、三十代が終わろうとしている僕との歳の差も、おそらくは相当なものだ。  でも、ストーカー気質の若人よりはマシなんじゃないかなぁ、たぶん。と思うことにして、手元のグラスを持つと端の席の前に立った。  壁にもたれていたアンジュが、ぐらり、と顔を上げる。近くで見ると、結構目つきが怖いね、うん、でもやっぱり魅力的な顔だ。  足の先から頭の先まで、ぐるりと視線を一周させたアンジュは、『……グクベル?』と呟いた。  惜しい! そして素敵だ、アンジュは頭がいい! 「残念、それはお隣の国の言葉だね。ぼくの国での夜の挨拶は『ヒュヴァーイルター』だよ」  英語で話しかけても、彼は身構えたりはしない。そして慣れた様子で英語を返してくれる。 「となり、……っあー、フィンランドか……くそ、酒入ってなかったらたぶん当ててた……」 「隣、座ってもいい?」 「座ってもいいけどおれにロックオンされるよ、いい?」 「斬新な口説き文句だなぁ。それ、拒否権はないの?」 「ない。だっておれは今、誰かに愛されたいから。甘やかされて慰められてぐだぐだに優しくしてほしいから、その覚悟がないならやめといたほうがいいよ、おれはおれが面倒な人間だっていう自覚くらいはあるんだ」 「うーん……それ、一晩だけでも大丈夫?」 「…………本気? 今晩慰めてくれんの?」 「まあ、暇になっちゃったからね。特に予定もないし、ちょうど誰かに優しくしたい気分だったんだ」 「なにこれ、夢? さっきの酒に幻覚剤でも入ってた? おれに都合よすぎない?」 「現実だよー」  ほら、と手を取り、指を絡めて笑う。ついでにさらりと腰を下ろしたぼくに、マスターとかストーカー君とかの視線がザクザク刺さった感じがしたけれど、鈍感な酔っ払いのふりをしてやり過ごした。  アンジュの手は冷たかった。骨っぽくて、指は長い。欧米の同業者に子供みたいだとよくからかわれるミキと比べたら、アンジュは背も高いし手も大きい。  冷たいねぇと笑えば、潤んだ目を大きく開けて息を止める。感情があふれちゃってるんだろうなぁと分かる。ますます、ぼくは彼のことが気になる。 「……ほんとに? いいの? おれ、お世辞とか嫌いだから基本本気に――あー、でも、向こうの人種はリップサービスとかあんましない? のか? え、まじで? ……てかおれなんかでいいの? おにーさんモテるでしょ?」 「うーん、でも日本語そんなに得意じゃないんだよね。いろんな国の言葉は好きだし値段交渉くらいはできる自信あるけど、ちゃんと意思の疎通するなら母国語か英語がいい」 「モテるってのは否定しねーのね……」 「わはは。まあ、うん、ぼくは割といろんな人に好きになってもらいやすいよ、自覚はあるかな」 「おれは好きになるとずぶずぶにハマるし抜け出せなくなって最終的に泥沼になる、自覚しかない。興味本位で手を出すには地雷すぎるでしょ、おれなんか」 「えー、そうかなぁ? 熱烈で素敵じゃない? 恋も愛も、燃え上がってこそだよ。せっかく繁殖以外の感情が存在するんだもの、楽しまなくっちゃ損だ」 「…………文学系の学者?」 「残念、惜しい、生物系の学者だよ」  ぼくの専門はオオソリハシシギで――などとわざわざ説明したりはしない。大概の人間は野鳥の名前なんか知らないし、興味もないだろうし、それに専門的で自分しか知らないような知識は口説き文句としては最悪だと知っている。  あー、と納得するように唸るアンジュも、アカデミックな場所に精通しているのかもしれない。なんだか彼は、ぼくと同じにおいがした。  だからぼくは彼の手を取ったのかな?  普段は自分から口説くことなんか稀なんだけれど……旅先でテンションがおかしくなっていたのだろうか。酔っていた? もしくは、友人のハッピーに当てられて、自分も少しくらいは誰かと愛し合いたい気持ちになっていたのかも。  ともあれぼくはその日、失恋して傷心すぎる黒い鳥のような彼を見つけてしまった。  まあ、今思えば運命的だよねーと思う。けれどこの時は本当にその場限りの縁のつもりだったし、彼もあくまで一晩心の隙間を埋める相手としてぼくを扱ってくれた。  ギムレットを一気に飲み干したアンジュは、ぼくの手を取ってお会計をしてからさっさと店を出る。ほんの一瞬行動が遅れたばかりに、ぼくの分のお会計までカードで払われてしまった。  さすがに慌てて引き留めようとするものの、すたすたと歩くアンジュは止まってくれない。振り向いてすらくれない。まったく、不思議すぎる日本人だ。 「ごちそうさま、ってさらりと言える額じゃないと思うんだけど!」  仕方なく追いついて横に並び、彼の手を抗議するように握る。やっぱりかなり背が高い。人類の中ではわりとでかい部類のぼくより、少し小さいくらい。アンドレアと同じくらいかな? 日本人の中に紛れたら少しだけ浮きそうだ。 「一晩付き合ってくれるお礼の前払い。どうせ誰も見つからなかったらゲイ風俗に金落とすつもりだったから、安いもんだよ」 「へぇ……日本にもそういう文化あるんだねぇ」 「……あんた、なんであんな店で長々飲んでたの? おれが言うのも何だけど、あそこわりとなんでもありの評判良くない店だよ。おれみたいなヤバい奴も出禁にできないヘタレがやってて、だから治安も若干悪い」 「あー……いや、トモダチに呼ばれてね。でも急用で彼が帰っちゃったから、そのまま日本の空気を楽しんでただけだよ」 「ふぅん。……そのトモダチのこと、好きなの?」 「……どうかな。自分では友達として好きなつもりだけど、ちょっとくらいは特別だったかもね。良い奴だから」 「おれは友達なんてもんいないから知らねーけど、まあ、要するにあんたも振られた仲間ってわけね」 「わはは。そうだね、うん。そうだ、ぼくたちはどちらも愛を求めている!」  だから暖めあう必要がある。  赤信号で歩みを止めたアンジュの腰を抱いて、何? と見上げた彼の唇を塞ぐ。たっぷり二十秒は舌を絡めてから唇を離して覗き込むと、ぼくの服の裾を握りしめていたアンジュがだらしない顔で笑った。……その顔、ぼくの何かに刺さるな。うん。 「……フィンランド人ってみんなあんたみたいにエロいキスできんの?」 「え、どうかな……ぼくはあんまり同郷の人と付き合ったことがないからなぁ」 「期待で腰が砕けそう。ホテル、外国人も大歓迎のところ知ってるからそこでいいよな? ……おれ、名前言ったっけ?」 「聞いてないけど、アンジュって呼ばれてたのは知ってるよ」 「阿佐ヶ谷庵寿。大層な名前だけど本名だよ。あんたは? あ、行きずりの相手に名前とか教えたくないなら――」 「とんでもない。名前がわからないと、感情を伝える時に言葉があて先不明で迷子になっちゃうよ。ぼくはヤルマリ・カンガス」 「……ヤルマリ・カンガス。著名な鳥類学者。これアンタ?」 「え。ぼくってグーグルで調べてすぐ出てくるの? わぁ、知らなかったすごいね。著名……著名かなぁ~。もしかしてアサガヤアンジュで調べたらぼくもきみのことを知ることができる?」 「おすすめしないよ。どうせろくなこと書いてない。おれには敵が多いから。そんなことよりおれはあんたとキスがしたい」  自分はすぐに携帯で調べたくせに、アンジュはとても我儘で身勝手だ。でもぼくはそれが不思議と心地よくて、かわいいなーと思って笑ってしまった。人の我儘はかわいいから好きだ。甘えてもらっている、と感じることができる。ぼくは振り回されるのが好きなのかもしれないし、アンジュは振り回すタイプなのかもしれない。  相性は悪くない。まあ、問題があるとすればぼくは明日飛行機に乗って日本を出なくてはならないし、アンジュも普段はどこで生活しているのかさっぱりわからない、という事くらいか。  今晩だけだし、まあ、いいか。  縁があればそのうちまた再会することもあるかもしれない。それこそ、グーグルに彼の名前を尋ねることから始めたらいい。髪型、そのまま出てくるのかな。ちょっとだけ楽しみだ。  わくわくしたついでに繋いだ手の指の腹を撫でたら、興奮するからやめろと怒られて、やっぱりかわいいなーと思った。  ぼくはこの日、ちょっと寂れた日本の片隅で黒い鳥のような人に出会った。  彼はとても傷ついていて、とても我儘で、そして不思議で興味深く、とてもかわいい人だった。

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