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 植物に必要なのは太陽と水だし、動物に必要なのは酸素とエネルギーだし、人間に必要なのは睡眠と食事と性欲だけど、おれに必要なのはどう考えたって恋情だった。  できれば一方的なやつがいい。両思いは駄目。駄目だ、あれは駄目、まじでおれに向いてない。  まあそりゃできるならダラッダラに愛されたいけど、おれの性格はどうひいき目に見ても愛されキャラとは程遠いわけで、そしたら欲張って愛をねだるよりもとりあえず熱中できる恋だけでも手に入れたいと思うものだ。  おれは恋愛に向いてない。やっとわかった。いい加減学習した。だから一方的なストーカー行為に心底満足している、というのが一か月前からの現状だ。 「ドクター・アサガヤ、今日はもうお帰りですが?」  顔を出したばかりなのにもうラボを出ようとするおれに対し、物怖じせずに声をかけてくるメンツは大体決まっている。  先月別の大学に引き抜かれちまったリキか、そして今目の前でピクリとも動かない冷徹なツラを晒している柳(リウ)か……ていうかリウ、さっき昼飯行ったばかりじゃない? 中国人ってもっとこう、飯の時間を大事にしているイメージだってのに、この女は一重のツラ以外は全くアジア人らしさのかけらもない。  そんなことをぶつくさと脳内で垂れ流すおれだってまあ、日本人らしいか? って感じだから人のこと言えないけどな。 「別にいいでしょ。仕事はきっかり片付けたし、もうやることねーもん。優秀な助手のお陰様でおれは自分の研究に専念できるし、幸い今は急ぐような用事もうざい学会も授業も取材もない! つまりおれは帰っていい!」 「次はどんな方ですか?」 「――なにて?」 「アサガヤさんの恋のお相手ですよ。貴方がよく喋るときはとても機嫌がいい時で、とても機嫌がいいのは九割方恋をしている時ですので」  ふふ、目ざとくて優秀な助手で嫌になるよまったくね。苦笑いなんてわざわざ出力すんのも面倒くさくて、心の赴くままにそこそこ気持ち悪い笑顔を垂れ流したおれは、リウにだけ聞こえるように小声でシナをつくる。 「フィンランド人の学者。脱いだらすごいソフトモヒカンの細マッチョで柔和な優男、酒が強くてジェントルメン」 「……全部乗せですね。それは本当に実在している人物?」 「いくらおれでもイマジナリーな右手の恋人作り出すほどいかれちゃいないっつの」 「ステディ?」 「ノー。アイム、ストーカー」  わざとカタコト発音の英語をぶちかますのは、アジア人ばっかりで組まされているおれたち流のブラックジョークだ。  いつもは平坦でピクリとも動かない顔をほんの少しだけ呆れた感じに寄せたリウは、でしょうね、と抑揚なく言葉を吐きだした。 「かれこれ一か月程度はご機嫌ですもの。アサガヤさんが誰かとお付き合いして二週間持ったためしはないですから。つまり一方的な片思いでしょう」 「わっはー、事実の刃がおれに刺さっちゃうね。まったくその通りだけどさ!」  叶わない恋は最高だ。  思っていたきみとは違った、なんて事実を突きつけられて振られた後にナイフの値段を調べなくて済むし、犯罪の不利益と今後の人生設計を天秤にかけて吐きそうになることもない。  ヤルマリ・カンガスはオオソリハシシギの研究者として、現在はニュージーランドの大学に籍を置いている。おれが今在住しているカリフォルニアとの時差は十九時間。こっちが日付をまたぐ頃、あっちはようやく朝日が昇る時間になる。まあ、ストーカーできない時差じゃない。ネットの海はストーカーにとっては大変ありがたい文明だ。  といっても彼は、SNSアカウントをそこまでちゃんと動かしてない。学者仲間とのやり取りに使っている程度で、一番交流がある三木原という日本人とも、毎日頻繁に会話をしているって感じでもなかった。  SNS、ウェブインタビュー、雑誌、ちらっと顔をだしただけのネイチャー番組。ありとあらゆるメディアをチェックしてとにかくおれの周りを彼の情報で満たす。それだけで仕事のやる気も段違いに上がって――ああ、いや、おれはわりと仕事に関してはいつもやる気はある。  なんていうか、あー、生きる気力っての? 面倒くせーなもう死んじまっていいんじゃねーの、みたいな気持ちは恋をしている時だけはなりを潜めた。  一晩限り、彼はそのつもりでおれに優しくしてくれた。  勿論おれも一晩限りの関係だとわかっているふりをした。でもそんなものはただの虚勢で、真っ赤な嘘になっちまうんだろうなぁって結構最初から予感はあった。  そして見事にどぼんと落ちた。恋に落ちるのは簡単だ。好きかも? ってちょっとだけ疑うだけでいい。ふらふらでとんでもなく不安定なおれは、ちょっとしたきっかけで容易に足を踏み外す。どーん、真っ逆さま。はは、感情の崖の下には恋で都度死ぬおれの死体が山ほど積み重なっているはずだ。  新しい恋に容赦なく落ちたおれは、すっかり南半球在住の鳥類学者の追っかけになっちまっていた。 「まあそんなわけでしばらくは元気だからさ、今のうちに面倒臭い用事リストアップして押し付けてくれてもいーぜ。ちょっとくらいは他人に優しくしようって気分だから。まぁ今日は帰るけど」 「デート……じゃないんですよね。ニュージーランドまでストーカーをしに?」 「ストーカーをしにいくのは正解。目的地は不正解」  じゃあね、と手をあげて、呆れた顔を飲み込めるくせに飲み込まないリウのため息をやりすごし、羽織ったばかりの白衣を脱ぎ捨て息苦しいラボを出た。  仕事は好きだ。ていうか仕事するために生きてるし。でもまあ、ラボが好きかっつったらそうでもない。リウには感謝してるし、リウをおれに付けてくれた偉い誰かにもまあそれなりに感謝はしている。けれどおれを生かしているのはシンプルに仕事と、そして誰かに傾倒しているときの恋情だけだ。  おれの世界は真っ黒だから。恋をしていないと、誰もかれもが真っ黒で暗くてつまらないから。  浮かれて鼻歌が零れそう。にやつきそうな顔を隠したいが、アメリカの街中で日本みたいにマスクしてたらテロリストか? って疑われちまう。  いつも通りの『研究以外に興味なんかねーですけど?』みたいな顔を装うために(そしてもうちょい落ち着くために)息を吸って吐いてから、塩基配列の麗しい並びを端から思い浮かべた。  さて、ヤルマリ・カンガスは渡り鳥の研究者だ。そして彼は割合フットワークが軽く、研究対象の鳥を追いかけて南はオーストラリアから北はアラスカまで、年中フィールドワークをしている。そりゃ体力もつくし、筋肉もつく……ああ、うん、いや平常心。あの素晴らしい肉体のことを考えるとにやつくからね、だめだ、うん、思い出しちゃだめ。  とにかく彼は別に、ニュージーランドに定住してるってわけでもない、ってことだ。  呼ばれればどこにでも行くって感じで、ひょいひょいと各国各地の大学や学会に顔を出している。日々全力でストーカー行為に及んでいるガチネトストのおれがキャッチした情報によると、ヤルマリは今日なんとカリフォルニア――そう、おれが今このふらつく足で踏みしめているこの場所、カリフォルニアだ――の某大学に立ち寄っているのだ。うまくいけばしばらくは滞在するかも。でも、うまいことヤルマリを引き留めるのはおれじゃなくて、博物館の剥製の担当者だろう。ヤルマリは展示だのなんだの、とにかくそういう文化的な仕事をこなしている様子だ。  おれは基本的には恋を実らせる努力を放棄している。だって実んねーし。実ったところで百パーセントうまくいかねーし。だったら画面越しにだらだらよだれ垂らしながら、はーーーまじ好き超好き大好き抱かれてえーーーと気持ち悪い妄想を繰り広げていたほうがマシだから。  というわけで勿論アタックする気は一切ないし、偶然を装って挨拶かましてメシに誘う気もない。  ただおれは年季の入ったストーカー体質で、そこそこ気持ち悪い粘着質な男だ。  ……推しが近場に来てるなら、遠くから生身を拝みたいじゃん? 同じ空気吸いたいじゃん? 生で喋ってる声聞きたいじゃん?  初めて会った時は、何の準備もできていなかった。おれは振られた直後でぼろぼろで、なんならコンタクトもどっかで落としてて、おれに優しくしてくれた変な外人の外見なんてぼやーっとしてて、でもなんか優しくしてくれるっていうからホイホイとありがたくその差し出された手を全力で握っただけだ。  予感はあったけど、落ちたときにはとっくに行為の最中だったから、盗聴も盗撮もできなかった。まじで抱きつぶされて、気がついたら昼で、ヤルマリは『よかった! 目が覚めなかったら何語で書置きしようかと悩んでたんだよ!』と柔らかく笑った後にじゃあまた縁があったらいいねとキス一個残して(かわいい、最高、気障、好き)颯爽と金を置いてホテルを出て行った。  ……写真くらい撮っておけばよかった。寝起きに弱いおれが自分のクソ野郎っぷりに愕然とするのはこの一時間後のことで、この日からおれの人生は『恋をしている時モード』に切り替わったわけだ。  悔しい。せっかく推しに抱いてもらったのに、残ってるのはうすぼんやりとした思い出だけだ。よし、次にあの脱いだらすごい鳥類学者が近場に来る時には絶対にストーカーしに行こう、そうしよう、せめて写真を携帯に収めよう。そう決めたおれだが、なんと早々に実行する時がきたのだ! ひゅう、やる気が漲りすぎて興奮で眼鏡が曇りそうだ。  タクシーをしばらく走らせ、目的の大学周辺で適当に降りる。当てもなくふらふらとするなんて時間の無駄だ。おれは勿論、今日のヤルマリ・カンガスの予定をほとんど把握している。  彼の今日の仕事は四時まで。その後は大学の資料室のスタッフとメシの予約をしているはずだ。海辺のレストランまでは徒歩五分。この距離をタクシー移動する男じゃないだろう。  てわけで大学の裏口が見える場所まで移動すると、予想通りに目的の男が女性スタッフと談笑している場面に出くわした。  さすがおれ、年季の入ったストーカーだ、完ぺきすぎて自分でもさすがに気持ち悪い!  でも僥倖だから良しとしよう。気持ち悪くったって別にいい。誰に迷惑をかけているわけでもない、ただひっそりと好きなだけだ。  おれはヤルマリと付き合いたいわけじゃない。いや、愛されたいなぁとは思うけど、付き合って結局ダメになるなら見ているだけの方がマシだ。だから襲ったりもしない、迫ったりもしない、脅迫したりコンタクトを取ったりもしない。純粋に推しを観察したいだけなのだ。  つか薄着だなぁおい……まあね、年中暑いけどね、カリフォルニアな……つっても十月なんだけど、なんでアロハシャツなんだろう。似合うからいいけどさ。……同じやつ、ネットで探して見つかるかな。  なんて相当気持ち悪いことを考えていた時、ふっと視界の端に映ったものがあった。  大学の前は緩やかな坂道になっている。ヤルマリがいる位置から、おれがこそこそとのぞき見している場所に向かって下る坂だ。その道の上に、妙にはしゃいでいる子供の集団がいた。  どこから拝借してきたのか、買い物カートのようなものに一人乗り、二人がそれを振り回しながら遊んでいる。日本でそんな遊びしてたら速攻通報されそうだ。  ヤルマリは背中を向けていたものの、さすがにうるさかったのか彼らの方をちらっと見た――瞬間、ドン! っと、ふざけて押されたカートが、結構な勢いで坂を下りだした。  いやいやいやいや! 待っ――。 「う、っそだろ!?」  うわ、とか、ぎゃー、とか、もう誰の悲鳴だかわからない。  とっさにヤルマリは手を出したみたいだけど、カートを掴むことはできずに体勢を崩す。あいにくとここは裏門だ。表ほど人通りもなく、おれの他には誰もいない。  思わず飛び出して、結構な勢いでぶつかってくるカートを全力で受け止める。止める、というか、自分の身体を壁にしてどうにか止まっていただいた、という感じだ。鈍い音と結構な衝撃。肺から息がぐえって零れたけれど、どうにかおれは踏みとどまった。 「……いってー……」 「わーーーー!? え、ちょ、きみ、だいじょうぶ!?」  慌てた様子で駆け寄ってくるヤルマリと大学職員に介助され、カートに乗っていた子供は(おれの功績で全員無傷だ)そのまま大人たちにしこたま怒られていた。  おれはといえば女性職員につかまり、医務室に引っ張られそうになり、渾身の日本人観光客のふりでどうにか振り切った――はずだったのに。  逃げ切る寸前で何故か、屈強な力で腕を握られた。  …………なんでおれ、ヤルマリに腕掴まれてんの? 「本当に医務室に行かなくても――」 「まあ、大丈夫だよサム。彼も平気だって言ってるし、転んだわけじゃないしね。それより、ケネディを手伝ってあげなくて大丈夫? 今日中に終わらせないとまずいんでしょ?」 「ええ、あの、本当にごめんなさい……この埋め合わせは近いうちに――」 「だいじょうぶ、気にしないでいいよ、本当に!」  軽やかに手を振るヤルマリに手を振り返し、資料室スタッフのサマンサ・ブラウンは名残惜しそうに大学に引き返していった。  にこやかでちょっとまろやかな声。おれより高い体温。それがすぐそこにあって、何故かおれは彼にがっしりと腕を握られている。  アロハシャツの優男は、今日は眼鏡をしていない。少し眠そうな瞳でおれを眺めて、手を離さずに笑う。 「いやー、きみが居てくれて良かったよー。このまま下って行ったら、車通りの激しい道まで一直線だったかも。映画みたいにスパイダーマンが颯爽と飛び出してこない限り、大変な事故は確定だ」 「いや……べつに。子供が怪我すんのは、よくねーと思うし……」  ていうかヤルマリはおれに気が付いてないんじゃないのか? おれ今一応帽子とかかぶっちゃってるし、眼鏡もしてるし、髪は縛ってるし。よく考えたらたった一日しか会ってないアジア人の顔なんか、忘れてて当然だ。 「きみも無事でよかったよ。本当に痛いところはない?」  ヤルマリの空いた方の手が、確認するようにおれの肩をトントン叩く。  ぶっちゃけちょっと痛いがまあ打ち身だろう。内臓にダメージがある感じじゃないから、平気だ、と口を開きかけたところで、目を細めて笑うヤルマリを直視してしまった。  うっわ、好き……と思っているおれに向かって、この人たらしな鳥類学者は渾身の甘い顔で、柔らかい言葉をぶちこんできやがるのだ。 「久しぶりだね、ええと……一か月ぶりかな? ……今日は泣いてないね。良かった。きみは本当にいつでも滑空する鳥みたいに急に飛び出してくるねぇ」 「…………ん? え、ちょ……」 「あ、ちょうどいいや。今ちょうどディナーの相手が消えちゃったとこなんだ。よかったらご飯食べない? ええと、それとも先約あるかなぁ……ぼくはアンジュとご飯が食べたいんだけど」  だめ? と笑う男に対して、なんと返事をしたのか記憶にない。  久しぶり、今日は泣いてなくて良かった。  そんな風に言われて恋に落ちない奴がいたらお目にかかりたい。まじで心底そう思った。

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