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 馴染みの店に着席してやっと落ち着いたぼくは、真向かいに座った日本人男性を漸くゆっくりと観察することができた。  さっきまで髪の毛を縛っていたゴムを取ったアンジュは、ぼくが知っている中途半端な長さの不思議な髪型に戻っていた。まだ眼鏡はかけたままだけど、黒縁の眼鏡がオシャレでいいなぁと思う。早急にキスをする予定もないから、眼鏡もかわいいねーと思いながらぼくはにこにこと彼の麗しい顔を観察した。  美しいのに素人が適当に切ったみたいな黒髪。きめ細やかな肌に、切れ長できれいな瞳。小さくて薄い唇。身長のわりに細く、しなやかな体躯。……うん、彼は確かに一か月前に日本のバーで出会った不思議なクロミヤコドリ、もといアサガヤ・アンジュに他ならない。  そういえばぼくは、アンジュのことをほとんど知らない。  ベッドの上で結構言葉は交わしたけど、そのほとんどは単純な感情で、情報じゃなかったよなぁ、と思う。  結局グーグルにお伺いを立てるタイミングも逃していたから、ぼくは本当に彼の名前と顔と声と、ベッドの上の癖くらいしか知らないなんていうちょっとどうなのかなぁ人として、という状態だった。 「日本人はあれでしょ、あのー、名前と職業を書いたカードを交換するんでしょ?」  柔らかいローストサーモンをとりわけながら首を傾げるぼくの正面で、とても座りの悪そうにしているアンジュは嫌そうに眉を寄せる。剣呑な顔もかわいいなぁ、どうして彼はこんなに一々かわいいのだろう? 「あー……名刺なぁー……あの文化まじで最悪だよ。どうせあんなもんゴミになるだけだし、そりゃ昔は名刺が電話帳とコネ代わりだったのかもしんないけど、現代の悪習だっつの。つかおれ、日本の企業務めじゃねーから、名刺とか持ってないよ」 「え、ないのか。そっかー……」 「……名刺があったところで、そもそも読めないだろ日本語」 「まあ、そうなんだけどね。でも、日本語って面白いから好きだよ。ずっとカクカクしてるだけじゃなくて、なんだか妙に丸くて柔らかい線がたくさんで、ぎゅっとしてるのにスカスカしてて、読めなくても面白い。ぼくはきみの名前の羅列が見てみたいなぁ」 「…………もしかして口説いてる?」 「うーん、若干? せっかく再会したんだしね。まあ、とりあえず食べて食べて。せっかくのシーフードが冷めちゃうよ」 「ミス・ブラウンは良かったの?」  唐突に知り合いの名前を出されて、思わず手が止まる。  サマンサ・ブラウンはさっきぼくが顔を出していた大学の資料課の職員で、この辺に来ると大体ディナーに誘ってくれる懇意の女性だった。  彼女はシングルマザーで、熱心な研究者だった。初めて会ったのはいつだったかなぁ……五年前くらい? その時から意欲的に口説かれて、一時期はちょっと親密になったんだけど、結局彼女の方からじわじわとぼくたちの関係に壁を作り始めた。明確に始まる前に、ぼくたちの関係は友達のまま安定してしまったのだ。 「うーん。……どうやらぼくは振られちゃったみたいだから。あ、勿論振られた腹いせにきみとやけ食いをしようってわけじゃないんだけど――」 「知ってるよ。ディナーも三人で予約してたじゃん。サマンサがケネディを誘いたいからって無理やり予約したのに、向こうの二人がいつの間にか盛り上がって、結局アンタは仲間外れだろ?」 「……わお。よく知ってるねぇ、きみの仕事は探偵か雑誌記者?」 「違うっつの。……あんたのことムダに知ってるのは、おれがネットストーカーだからだよ」  それからアンジュは、ぼくの専門も、ぼくの住居も、ここ数日の行動も予定も見事に全部言い当てた。  こういう時、普通の人はどういう反応をするのだろう? びっくりして気持ち悪いって思っちゃうのかも。でもぼくは単純に驚いて、そしてなんだか楽しくなって、つい手を叩いて喜んでしまった。 「すごい! きみはヤルマリ・カンガスの第一人者だ!」  彼の行動はまさにぼくたち、生物学者そのものだった。  とにかく観察する、そしてひたすら生活に随伴する。ぼくはオオソリハシシギをストーカーする行為を仕事にしているのだ。とすると、ぼくを観察しひたすらに追いかけるアンジュは、ぼくの研究者に他ならない。アサガヤ・アンジュは、ヤルマリ・カンガスの優秀すぎる観察者なのだ。  ぼくなんて追いかけても、なんの益にもならなそうだけど。大した趣味もないし、特別な人脈もないし、家族ともすっかり疎遠だ。ぼくの観察なんてつまらないでしょう、と笑えば、なんだか妙に面食らった顔をしていたアンジュが、至極真面目に『なんで?』と首を傾げる。 「楽しいよ。楽しいから観察してんだよ。朝晴れてると鼻歌うたいながらジョギングするとことか最高にカワイイ――」 「待って待って待って、え、待って、それネットでわかる情報なの!? きみ、本当に盗聴とかはしてないんだよね?」 「あんた定住してないじゃん。盗聴器仕掛けたくても仕掛ける場所がねーよ」 「しない、とは言わないんだねー……」 「していいならする。同意なら犯罪じゃないっしょ。あー……州によっちゃ犯罪になんのかな? 日本だったら同意ならたぶん大丈夫だけど」 「えーと。……つまりきみは、ぼくのことが結構好き? ってこと?」 「好き」  ん。……んー、まさか即答されると思っていなくて、ぼくの方が息を飲んでしまう。  ぼくは日本人のことを誤解していたのかも。彼らはとても奥手で、恋に対して臆病な人たちなのかと思っていた。そう、ミキのように。  でも目の前で視線を逸らそうともしない美青年は、なんていうか……恋に対してとても貪欲な感じだ。ぼくはわりと他人に好かれやすい、自覚がある。けれどこんな風に真っ向から好きだと言ってくる人はちょっと稀で、もだもだと返す言葉に迷ってしまう。  ぼくの躊躇を否定ととらえたのか、アンジュはちょっとだけ我に返ったかのようにハッとしてから、バツが悪そうに口を開いた。 「あー……いや、その、別に恋人になれって迫ったり、脅したり、襲ったりはしねーから安心して。ただ、好きなだけだから。あんたはおれのことなんか気にせずに普通に生きてていいよ、その方がおれも楽だし嬉しい」 「……ぼくのことが好きなのに、好きになってほしくはない、ってこと?」 「好きになってくれるなら嬉しいけど強要はしないし恋人になってそのあと振られるならなにも始まらないほうがマシ、ってこと」 「ふうん? ……まあ、ええと、言っていることはなんとなく、わからなくもないけども」  ぼくは少し首を傾げてアンジュの心底真面目で、ちょっと投げやりな態度をゆっくりと観察した。  不思議だ。アサガヤ・アンジュという青年は、やっぱり不思議だ、と思う。彼は察するにとてもぼくのことが好きだ。本当に本人が申告するようなストーカーだし、好意を隠す様子もない。それなのに、ぼくと付き合いたいとか恋人になりたいとか、そういうつもりはないと言い切る。  まっすぐな直球の好意。打ち返すことを許さない剛速球。……彼の感情は、どうしてこんなに投げやりなんだろう? ぼくのことが本当に好きなのは、真剣な表情とグラスを持つ手がちょっと震える様子からひしひしと伝わってくるのに。  なんとなく人生も長くなってくると、恋愛なんてものに重きを置かなくなってくる。  結婚して家庭を持とう、という気持ちがぼくはとても薄い。先に言ったように、実家とは疎遠だ。家を継ごうとか、親孝行しようとか、もう本当にそういう気持ちがない。かといって自分で家を建ててそこに定住して子供を持とう、とも思えない。うーん、結婚したら自然とそういう気持ちになるのかもしれないけれど、ぼくはそもそもオオソリハシシギを追いかけて生活しているから、どこか一か所に腰を落ち着けて生きるという習慣がないのだ。  とにかく結婚願望が皆無な上に、恋愛しようという強い意志がない。それなりに好かれるから、口説かれて付き合い始めることもまあ、ある。あるけれど、どうしてかぼくの恋愛は長く続かない。  ぼくはたぶん、好みのタイプというやつがない。  男性でも女性でも気にしないし、理想の顔や性格もない。基本的に誰でも同じようにちょっと好きで、ちょっとどうでもいい。勿論友達のことは大事にしているし、ぼくのことを好きだと言ってくれる人や、恋人のことは特別に思っている。  それなのに、どうしてかぼくはよく『あなたの愛を信用できない』という理由で距離を置かれてしまうのだ。――今日のサムのように。  ……確かにぼくは、恋の相手を選ばない。性別も、見た目も、性格も、どんな人だって気にしない。でもそれは不誠実なのだろうか? 間口が広いのは悪いこと? 選ばないということは、誰でもいいということではないんだけど。  以上の理由で、ぼくは恋愛が続かない。まあね、ぼくも人間よりも鳥を優先させることが多いから、百パーセント相手のせいで破局してばかりじゃないんだけれど……いい加減、本気の恋なんてもう無理なんじゃないかなぁと諦めてきたところだった。  だからだろうか。真剣で不思議で直球すぎるちょっとどころかかなり変なアンジュの恋情に、とても興味が湧いた。  ぼくの周りにはいなかったタイプだ。ぼくが、初めて触れる感情だ。それは未知の生物に出会った時のように、湧き上がるような興奮をぼくにもたらした。  蒸したエビを咀嚼しながらワインに口をつけるアンジュを眺めて、ぼくは殊更にっこり笑う。研究者ってのは、いろんな人の助力が必要だ。だからぼくは結構意図的に他人をたらしこむ術を身に着けていて、わざとじゃないけどそういうものが外に出る時がある――そう、今みたいに。 「アンジュは、この辺に住んでるの? それとも旅行?」 「旅行……ってわけじゃねーけど、まあ、一応カリフォルニアで働いてるよ。こっからはちょっと距離あるけど」 「そっか、よかった! いやね、実はぼくはしばらく……うーん、二か月くらいかな? ちょっとしたプロジェクトに携わる話が出てて、カリフォルニアに滞在することになったんだ」 「あー。博物館の特設展示の件、結局受けたの?」 「ふふ。本当になんでも知ってるねぇさすがだねぇ。そう、というわけでぼくはしばらくアンジュのご近所さんだ。こっちに住んでるなら都合がいいや、ちょっと付き合ってみない?」  それから一分間のアンジュの表情はとても興味深かった。  彼は驚くより先にまずぼくの放った英語の意味を測りかねたらしく、慌てるよりも先にじわじわと眉を寄せ、相当剣呑な顔を晒してからようやく『恋人になりませんか』という提案であることに気が付いたようで、……それなのにやっぱりとても怖い顔のまま結構低い声で『……はぁ?』と吐き出した。  わぁ。怖いね。でもぼくはきみのその、ちょっと格好いい怖い顔も好きだということに気が付いてしまった。 「――何言ってんの、酔ってんの?」 「白ワイン一杯じゃ酔わないよーぼくはそれなりにお酒には強い自信あるもの。結構どころかちゃんと本気だよ。人の気持ちをからかって遊ぶほど、ぼくはクソ野郎じゃない」 「あんたがくそ真面目なジェントルマンなのは知ってるけど、だからこそおれなんかと付き合う必要はないでしょ。つかヤルマリ、おれのことなんも知らないんじゃねーの?」 「知らないねぇ、顔と声と名前と、きみがぼくのことをすごく好きってことくらいしか知らないかも。でもぼくは、きみにとても興味がある。きみのことがとても知りたい。これって恋の一歩目の動機としては駄目かな?」 「…………嫌だよ。だって、付き合ったら別れるじゃんかよ……」 「えー、そうかな? もしかして運命的に相性がよくって、おじいさんになっても愛をささやく関係になるかもよ?」 「ならない。だっておれは他人に愛されるような性格じゃない。いままでまともに恋愛をこなせたためしがない」 「うーん、言い切るねぇ……じゃあ、こうしよう。そんな先のことは一旦置いておいてさ、もしぼくと付き合ってくれるなら、今日このあとぼくの借りてるウィークリーマンションにきみと一緒に帰ることができるんだけど」 「ん、ぐっ」  お、食いついたね?  ふふ。だてに人たらしと呼ばれてはいない。アンジュはとても心配性で、とても頭がよくて、悲しいくらいに客観性がある。だから自分のことなのに、すごく他人ごとのように感情を横に置いて合理的に判断してしまうんだろう。冷静で頭がいい。でも、いまはちょっとだけ馬鹿になってほしい。  目先のことだけ考えたらいい。頬杖をついて目を細めて、にやっと笑う。たぶんアンジュは、ぼくのちょっとにやにやした笑い方が好きだ。前にベッドの上であんたの顔えろくて好きだと散々言われたことを、ぼくは忘れていない。  そこまで広くないテーブルは、腕を伸ばせばアンジュの手に手が届く。骨っぽい指先の形のいい爪を、人差し指の腹で撫でる。じわじわ赤くなるアンジュがかわいくてダメだ。……かわいい。うん。ぼくはどんどん、悪い大人になってしまう。 「明日はね、オフなんだ。勿論きみは仕事があるかもしれないけど、朝イチで送ってあげることもできるよ。ちょっと遠出して買い物したいから、レンタカーを借りる手筈なんだ」 「…………こんなとこで正々堂々男口説いて大丈夫なのかよ……」 「平気だよーぼくは別にパパラッチに追われる有名人じゃないんだからね」 「……あんたの部屋に行ったら、」 「うん?」 「あんたの部屋に行ったらさ……頭撫でて、抱きしめてくれんの?」  今度はぼくが息を詰まらせて変な声を出す番だった。  なにそれ。……なんだ、それ、アンジュ、ちょっとかわいすぎて困るよ。じわじわと熱が上がって、わーとかひゃーとか口から出そうになる。わーかわいい。今のなに? すごくかわいい。 「頭撫でて、抱きしめていいの? ほんと? え、やるやる。いくらでもする」  だからぼくと付き合ってよアンジュ。  もう一度どろりと甘い声を出したぼくの正面で、すごく嫌そうに、すごくすごく仕方なくって感じで息を吐いたアンジュは、もうとんでもなく後悔している顔でひねり出すように『yes』を呟いた。  ……え、いまのもかわいいなぁ。  なんて思っているぼくのほくほくした感情はきっとバレていて、でれでれ笑うなと怒られてしまった。ふふ。でも仕方ない、久しぶりにできた恋人がかわいいのだから、ぼくは浮かれたって仕方ないのだ。

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