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「はー……帰りてぇー…………」  おれの口から零れ落ちる泣き言は、優秀な助手に見事きれいさっぱりスルーされると知っている。  知っているけれど溢れ出す負の感情は飲み込む前に、ついつい口から垂れ流してしまうのだ。 「先生がお疲れなのは承知していますが、早急に見ていただく書類がもう少々ございます」 「ふえぇぇ……無理ぃ仕事もうやだぁっつーか実験と研究と計算だけしていたいぃー……大体おれには向いてないんすよぉ、人員育成なんてさぁ!」 「存じておりますよ。身をもって体験しておりますから」 「言ってくれるじゃないのー」  仕事への文句を軽口に変えて、おれは手元の書類にがつがつサインをしていく。提出しなけりゃいけない書類仕事が一番面倒くさいってのに、人様の分まで引き受けなきゃなんなくて嫌になる。でもウチの研究室の期待の新鋭くんが、別大学との共同研究に抜擢されたんだからそりゃね、面倒くせーって放り投げるわけにはいかないでしょ。  ちなみにこの将来有望な有色人種の青年の名前は、ペドロっていう。彼はおれが『結構いい論文書くじゃん?』って褒めた日から、一心不乱に机とコンピューターに向き合ってこの場所まで走ってきた。  多少どころかほとんど教育とは無縁で、マジで不向きなおれの下について幸せなのかはわからんけど、とりあえず本人は文句もなく毎日熱心に研究に励んでいる様子だ。  まあ、ペドロがどんだけ優秀な卵だろうが、おれが教育に向いてない事実には微塵も影響しないんだけどさ。まじで向いてないし。  すっかり冷めて若干酸っぱくなった珈琲で喉を湿らせ、最後の書類に目を通してリウに預ける。いつも通りおれの横にすらりと立つ無表情のチャイニーズは、いつも通りおれに辛辣で気持ちいい。 「リウがおれんとこ来たのだって、シンプルにアジア人同士くっつけとけーみたいな雑な人事だからだろうしなー。リウ的には苦労してるっしょ?」 「とんでもない。アサガヤさんが教育現場に向いているかいないかと問われれば一ミリの迷いもなく『否』と答えますが、それとこれとは別問題です。私は元々、あなたの下で働くことを所望していましたので」 「…………え、そうなの? ちょ、初耳なんじゃないのこれ」 「そういえば初めてお話したかもしれません」 「ちょっと、そういうのは言ってよーって思ったけど、よくよく考えたら別にそれ言われたからってなんも変わんねーわ。うはは」 「……そういうところがアサガヤさんの素晴らしいところなんですよ」 「え、うそ、情がないって言われますけど?」 「アサガヤさんは少々わかりにくい上にご自身も自覚がないだけで、人並にお優しいですよ。ただ、過度に他人の言葉に踊らされないだけです。私はそういう部分をとても尊敬しています」 「……どうしたの? 明日死ぬの? え、研究室抜けるとか言わないでよ?」 「抜けませんよ、勿体ない。私でもたまには愛情深い気持ちになります。というか変わったのは私ではなくて、アサガヤさんの方では?」 「おれ?」 「そうです。以前はもっと、なんというか……ほんの数人の知り合い以外はみな空気かジャガイモのように扱っていたように思います。別にそれはそれで構いませんが、最近は、そうですね……随分と人間に近づいたような……」 「ふはは、おれ人間認定されてないじゃん!」  ごもっとも! と思って爆笑しちまって、通りすがりの別の研究室の教授にすごい怖いモノ見たって感じで二度見された。失礼だな、おい。とは思うものの、おれだっておれが爆笑してたら二度見すると思うから仕方ない。  空気かジャガイモ、とはリウらしい的確な表現だ。  確かにおれの周りは興味のないものばかりで、今でも世界は割合暗くて黒いと思う。そんなに劇的に人生観も性格も変わるもんじゃない。ただ、おれを取り巻く黒にも、それぞれ絶妙な違いがあることに気が付いただけだ。  例えばリウ。例えばペドロ。挨拶がうるせえカフェのおばちゃん。隣の研究室の貧乏ゆすりが激しいけど頼めば珈琲を分けてくれる助教授。しれっとおまけしてくるパン屋のおっさん。真っ黒だと信じていたこいつらは、全部別の黒だ。 「まあ、なんつーか、あー……おれそんなに人間が嫌いってわけでもねーのかなぁ、って思ったんだよ。そんだけ」 「なるほど。……恋は人を変えますね」 「どうだかねぇ。どっちかっつったら愛じゃない? おれが恋しかたから変わったんじゃなくて、彼が愛してくれちゃったからでしょうよ」 「………仰っていることは理解できますが、そのお言葉を口から垂れ流している人物がアサガヤ・アンジュ先生だと認識すると脳がバグを吐きそうになりますね」 「ひっでーの! 素直に感動しとけよー」  わははと笑う。リウ相手だと気を遣わずに反射で喋れて楽でいい。まあこれってつまり愛情だ。今は素直にそう思う。  黒にも色がある。同じ黒は存在しない。黒は無じゃなくて、色だから。  そう言って甘く笑った男の顔をうっかり思い出しそうになって、慌てて珈琲を流し込んだ。  だめだめ、仕事中にアレのことを考えるのはよろしくない。勝手に体が反応しそうになる。アレの話は禁句。禁句にするべきだ。  と、おれが頭を切り替えて仕事に戻ろうとしたっていうのに。 「わ。思ってたよりすっきりした部屋だねぇ」  ――頭の斜め後ろあたりからぽーんと飛んできた声に、おれは思わず飛び上がりそうになったし、反射で体温上がったし、ちょっとパニックになって口から『ふえ』みたいな声が出ちまいそうになった。  っていうかなんでおま、ウチのラボにノーマークでご案内されてんだよヤルマリ・カンガス……! 「………………え? は? 何……何で居んの!?」 「わー、びっくりしたときのアンジュって目が丸くなって猫みたいでかっわいいよね~」 「待って、まじ、待っ……今日、偉い教授とランチとか言ってなかったか!?」 「その予定だったんだけど、向こうの都合が悪くなっちゃって、完全に暇になっちゃったんだよ。暇だし顔見にきちゃった。最近のアンジュ、すごく忙しそうで構ってくれないんだものー」  おまえさっき鼻歌混じりに運転してたのはランチに行く為じゃなくてここに来るためだったのかよ……!  言えよ! と珍しく正当な理由で怒鳴るおれの言葉を軽やかににこやかに躱して、ヤルマリはリウに向かってほほ笑む。ひぃ……まじで最近忙しくて生身のヤルマリ久しぶりなんだよ軽率に笑うな勃つだろ馬鹿野郎! 「どうも、お久しぶりです、私たちのヤルマリ」 「うはは、きみはとても素敵な言葉を使うねぇ。見習いたくなっちゃうな。大学の通行証、有難う、リウ。ていうかぼくの無茶なお願いきいてくれてありがとう」 「とんでもない。こちらこそお礼を言わせてください。私が至らないせいもあるのでしょうが、このところのアサガヤさんは見るに堪えない様子でしたので……」 「は? え、なに? おれが何だって? ……てか何なのよ、二人でなんか打ち合わせしてたの? おれの誕生日まだ先だけどどっきりパーティは向いてねえからやめてよね?」 「サプライズはぼくも苦手だよー。祝うときはちゃんと正々堂々祝うから大丈夫。今日は顔を見に来たついでに、アンジュを攫いに来たんだよ」 「………………仕事があるんで無理――」 「と、仰ってこの半月ほとんど休まない有様です。真面目なのは素晴らしい事なのですが、アサガヤさんは少々のめりこみすぎです。私が何度かお休みになられては、と進言してもまるで蜂の羽音程度の雑音のように流されてしまいまして……」 「いやもうちょいちゃんと聞いてるでしょリウの言葉は。つかシンプルに時間が足りない、いや待て、白衣脱がすな! おれは! 仕事が!」 「室長からは『いい加減アレを誘拐するかどうにかして休ませて』と言われております。私の言葉が響かないのであれば、響く方をお呼びしようと思いました。というわけでヤルマリさん、有給申請はお任せください。どうぞお好きに誘拐してくださいませ」 「だってさー、アンジュ。はいはい、仕事着脱いでーぼくとデート行こう?」 「いや、あの、だって、書類――」 「先ほどの書類で急ぎのものはすべて終わりました。あとは休み明けでも問題ありませんよ。……ドクター・アサガヤ。私にだって愛情はあります。倒れて死なれては困りますから、さっさとお帰りになってください」  よい休暇を、と腰を折ってメイドみたいに挨拶をかましてくる助手を、おれはどんな顔して見つめていたんだろうか。……素直に嬉しい、というよりは『解せねえー』の感情の方が勝ってたから、まあ、なんだ、納得いかない顔してたんだろうよ。  それでも思い返してみれば確かに、ここ数日家に帰った記憶がない。仕事が苦じゃない体質のせいで、うっかりすると休むことを忘れる。最近は特に、自分ひとりの仕事ばかりじゃなくて指導者的な? 人の人生背負ってる雑務も多くて、言われてみれば随分と息を抜けない雰囲気だった。  ……帰りてえとは言ったけど、マジで帰ってくださいと言われるとなんかこう、絶妙なお気持ちになる。  納得いかないおれの手をひくヤルマリは、なんだか妙に楽しそうだ。 「愛されてるねぇ~アンジュ」 「……愛されてるか……?」 「愛されてるとも! 愛なんて感情はね、およそ人間だけのものなんだから、ちゃんと生きてるうちに満喫しなきゃ。アンジュが他の人に愛されてると、なんだかぼくも嬉しくなっちゃうな~。これってやっぱり愛情なのかな?」 「わっかんねーよおれアンタがちやほやされてたら全員ナイフでぶっ刺したくなるもん」 「うははは! 怖い! きみの愛は相変わらずバイオレンスだねぇ!」  うるせーそんなおれが好きなくせに。  というのはさすがに思うだけで言わなかったのに、『でもそんなきみが好きだよ』と笑われてしまって、肋骨の中心あたりがぎゅっとしてしまった。  この男はおれの気持ち的なものを容易につかむ。いちいちきゅんとしたりぎゅっとしたり、ぎゃーーーーうわーーーみたいになるこっちの身になれと思う。すげーカロリー使ってる気がする。  恋は体力勝負で、精神力まで持ってかれる。たぶん毒だ。すごい猛毒。でもおれは愛って奴を朧げながらも眇めた目で確認できているので、恋に殺されずにどうにか生きているのだ。 「……ヤルマリ、暇なの? そろそろニュージーランドに行く季節じゃねーの?」 「うーん、そうだねぇ来月あたりには荷造り……あ、ニュージーランドで思い出した! アンジュ、オーストラリア行かない?」 「…………唐突に何」 「いやね、アンジュも勿論知ってると思うんだけど、ミキとアンドレア。あの二人にねーキャンプとバーベキューに誘われちゃったんだ。だからぜひぼくはこの機会にきみを恋人として紹介――なんで嫌そうなの!?」 「嫌だからだよ。断る」 「えー!? なんで!?」 「なんでもなにもないだろ……向いてねえんだよキャンプとかBBQとかホームパーティとか全般……見りゃわかんでしょうよおれの根暗っぷり……」 「そうかなぁ……ミキとは仲良くなれそうな気がするけど」 「相手の人格が問題じゃないんだよ。キャンプでバーベキューっていう字面がパリピ過ぎて無理」 「ぱりぴ……? 日本語? 何語? ええと、まあいいや、うーんと……でも、一緒にオーストラリア旅行に行けば、星空の下でキスできるよ?」 「行く」  即答してしまった。くそ。……ヤルマリは相変わらず、おれをたぶらかすのが上手くて嫌だ。  軽快に笑った鳥類学者は、そんなとこもかわいいよねぇと余計な一言を吐きながら、至極楽しそうにおれの手を引いた。その足取りは、普通に歩いているはずなのになんでかスキップしているみたいに軽やかだ。 「アンジュ、あのね、好きだよ」 「知ってる。……おれも好き」 「ふふふ、知ってる」  そんなバカみたいな愛の言葉をぽんぽんラリーしながら、おれはやっと飲み込めるようになった人様の愛ってやつに、ちょっと酔っぱらってるみたいに浮かれてしまった。  無は黒だ、と信じていた。色がないから黒なのだ。何もないから黒なのだ。  おれの世界は黒ばかりで塗りつぶされていて、どこもかしこも何もない。ひどくつまらなくて静かな世界。そう思っていたのに、アンタは笑ってこう言うわけだ。  黒は色だ! きみの黒い世界だって、きっと極彩色に溢れている! さあその黒は何色? どんな黒? 全部一緒のわけがない、だってきみは、とても世界を冷静に、しっかりと観察しているのだから。  大げさな言葉を放つ鳥類学者に、おれは恋をして愛を叩き込まれたわけだ。いまでもたまに、振られちゃわない? って不安になって少しだけ呆れさせてしまうんだけど、都度『仕方ないなぁ』と笑って抱きしめてくれるアンタの愛の深さに冗談じゃなく命を救われている。  色とりどりの黒の中で、おれはアンタと、手を繋いで歩いていく。 終/pixivFANBOX内で連載していた作品を同人誌用に加筆修正しました。ヤルマリたちの短い話とかもファンボ内で書いているのでご興味あればよろしくお願いします~

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