9 / 10

09

 あなたの愛が信じられない。  ぼくは今まで、別れ際の元恋人たちからそんな言葉を山ほどぶつけられてきた。  そのたびに、人間は本当に不思議だよねぇ、本能じゃなくて感情なんてものが子孫繁栄に影響しちゃうんだもの、なんて他人事みたいに悲しくなっていたのだけれど――いざ、自分が似たような感情を抱くにあたり、ぼくは過去の彼と彼女たちに大いに謝罪したい気持ちになったものだ。  いや、うん、アンジュの愛は信じているよ。とても信じている。だって彼は誰がどう見てもぼくのことが好きだ。大好きだ。なんなら自分の命よりも好きなのかも。これは愛で、執着で、激情だ。  でも彼はどうしてかなぁ、ぼくの愛を全然信じてくれないのだ。  うーん、ちょっとくらいは愛されてる自覚はあるみたいなんだけど、なんていうのかなぁ、ヤルマリは優しいから愛してくれてるんでしょ? みたいな。要するにぼくが愛情と同情をはき違えているみたいな見解をしてくる。  とんでもない。さすがのぼくでも、愛の種類を間違えたりはしない。  ぼくはアンジュを愛している。不器用で、冷静で、頭が良すぎて客観的で、だからこそ他人の感情を信じられない可哀そうでかわいい人。アサガヤ・アンジュのすべてが可愛いし、格好いいし、愛おしい。  ぼくは正直なところ、運命ってやつを信じていない。ただこれでも生物学の末端に在籍している研究者だからね、とんでもない奇跡的な偶然、ってやつが存在することは知っている。  地球が生まれた偶然、そこに水があって、凍らず蒸発せずに大気ができて、そして生物が生まれた奇跡。どれもがただの偶然で、とんでもない確率をかいくぐってオオソリハシジキも人間も生まれたわけだ。  ぼくとアンジュが出会った偶然も、きっと、そういうものと同じくらいの奇跡なんだろう。  心底かわいい恋人ができて初めて、うーん、自分の愛情がちゃんと伝わってないってのはよくないぞ? と、ぼくは今更ながらに気が付いた。というか傷ついた。  そして過去の恋人たちへの愛情の薄さに、とても申し訳なくなってきたわけだ。  パーナム、ごめんね、きみがぼくのハムを食べちゃったときに、いいよと笑わずにちゃんと喧嘩をしたらよかった。  マリアンヌ、あの時に泣いたキミを許したのはどうでもよかったからじゃなくて、キミが泣いていること自体がとても悲しかったからなんだってちゃんと言えばよかった。  なんて、シャワーの下で無心に反省を繰り返し、日本の僧侶のように心を無にした後にちょっとだけ冷水を浴びてから、ぼくはベッドでぐったりしている恋人の元に戻った。 「……だいじょうぶ? って、ぼくが言うのも何だけど……」  苦笑いでベッドの端に座り、ほとんど濡れたままの髪の毛に指を絡ませる。  可愛くて可哀そうなアンジュは、ちょっと寝てたらしい。そのまま寝かせてあげようかな、と時計を見たところで、髪を梳く手を取られて指を噛まれた。 「ちょ、痛い、痛……っ、アンジュ、だめ、痛いから本気で噛んじゃだめ……!」 「……ちょっとくらいダメージ受けろ……なんでおればっかこんな疲れてんだよ……」 「えー……ぼくもちゃんと疲れてるよ?」  昨日の夕方チェックインしたホテルは、思いのほか高級仕様でちょっとだけ笑っちゃう感じだったんだけど、それでもベッドの上で服を脱いでしまえば皮張りのソファーも、やたらと光っているサイドテーブルの水差しも何もかもどうでもよくなった。  ぼくはそこまでセックスが好きだ! ってタイプでもないけれど、アンジュは結構好きみたいだ。勿論、性に積極的なパートナーが嫌ってわけじゃないし、ちゃんと声を上げて求めてくれるアンジュはかわいいしセクシーで素晴らしい。  ただぼくはいつも、アンジュに合わせてセックスを楽しむように心がけていた。アンジュは体力がないから、一気に煽り立てて一緒に果てる方がいい、と思ってさ。  でも、今回は違う。アンジュに、ぼくの全部を受け入れてもらうためのセックスだからだ。  キスをしながら服を脱がせて、全身に口づけをして、足の先からゆっくりを舐めて、恥ずかしいから早くとせかされるたびに『どうして?』と甘く髪の毛を梳いた。  どうして急かすの? 好きなのに、いやなの? ぼくはきみを端から端まで味わいたい。甘やかせて気持ちよくさせてヤルマリじゃなきゃ嫌だよって身体が覚えるまでキミとセックスがしたい。愛しているから全部ほしい。愛しているから全部さらけ出したい。  そんなことを口に出すたびに、もう無理やだ無理しぬ吐くわかった好きだから愛してるから許してとアンジュは口だけの嘘を吐く。  七割くらいは本心なんだろうけどね、うん。逃げるための嘘はよろしくないものだ。  だからぼくは彼のうわ言のような叫びはほとんど聞かなかったことにして、ただひたすらにじれったくゆっくりゆっくりと愛を伝えた。  思い返せばちょっとイジメすぎたかなぁ……と、思わなくもない。アンジュは気持ちいいことが好きで、我慢が得意じゃない。焦らされると気持ち良すぎて辛いらしく、ぼくの背中に爪を立てた。  日本人は向かい合ってするのが好きだって聞いたけど、確かにあれは良いものだ。ちょっと動きにくいけど、アンジュの顔を見ながら彼にぎゅうぎゅうと縋られる体験は素晴らしいの一言に尽きる。  一晩だらだらと焦らして甘やかしてゆっくりと身体をつなげて、朝方ようやく抱き合いながら眠りについた。昼過ぎに目を覚ましたアンジュはなんていうか、あー……生まれたての雛みたいにぷるぷるしてたけど、それでもひとりでシャワーを浴びる体力はあったらしい。  いや、うん、どうみても瀕死だけど。 「アンジュは運動嫌いだよねぇ。テニスとか誘っても絶対嫌だって言うし」 「絶対嫌だ……なんだよテニスって陽キャの刺客かよ……絶対ラケットふっとぶし球はコート外にしかとばねーし途中でつまずいて転んで額打つじゃん……」 「それはそれでかわいいけど。運動は健康にもいいよ?」 「知ってる。理解してる。わかってる。でも嫌だ、やりたくない、別におれは運動不足の末さっさと死んでも――」 「駄目。嫌だ。そんな悲しいこと言わないで、ぼくとずっと一緒にいて?」 「……あんた、全力で愛を囁くとちょっとわがままになんのずるくない……?」  一瞬で耳まで赤くしたアンジュが、恨めしそうに枕に埋もれる。はーかわいい。やっぱりかわいい。ずっとかわいい。でも枕が相手なのは良くない、ぼくがここに居るのに。そう言って背中から抱きしめると、腕の中のかわいいひとが『ふは』と軽やかに笑う。 「やめろ、まじ、かわいいがカンストする……!」 「それ、すごくたくさんかわいい! ってこと? それはぼくの台詞だよー」 「つか馬鹿力ちょっと緩めろ」 「え、辛い? 痛い?」 「違う。そっち向けないからキスできない」  そんなカワイイこと言うものだから、もうほんとぼくはわーーーーってなっちゃって、もぞもぞと向きを変えて向かい合ったアンジュと照れ隠しみたいに熱烈なキスをしてしまった。 「……………ふ、…………ふふふ。セックスじゃ勝てねーけど、ピロートークはおれの圧勝じゃね……?」 「恋愛は勝ち負けじゃないけどぉー……でも、うん、きみの方が上手かも。アンジュはすぐにぼくがぎゅっとしちゃう言葉を選ぶのがうまいよねぇ……かわいい、好き、愛してる」 「……それ何回聞かされんのよ……」 「勿論きみがもう嫌だって泣き叫ぶまで叩き込むよー。もしぼくの愛の言葉を止めたいなら、きみの方からも反撃してくれないと」 「…………好きって言っていいの? うざくない? てかおれまじでうざいくらいあんたのこと好きだけど口に出しても引かない?」 「引かないよー、たぶん。盗聴器だって面白いこと言うなぁ、って思っただけだったし、ぼくは結構人間の感情に関しては寛容っていうか鈍感――」  ふ、とアンジュの手がぼくの両頬を挟み込む。極限まで近づいた彼は、ぼくの鼻にキスする手前くらいの距離で、ゆっくりと声をひそめた。  あいしてる。  確かにそう聞こえて、ぼくは、あー……。胸がぎゅっとしたどころのさわぎじゃなくて、なんか全身がぐわーっとして、あたまがぎゃーってして、そしてとても即物的にちょっとだけ興奮してしまった。  だってかわいい、嬉しい、それに今の声はちょっとセクシーすぎるよ!  もう、きみは本当に自分の魅力をうまく使うくせに、それがどんな効果を発揮するのか微塵もわかっていない! 「…………昨日、ちょっと、無茶しちゃったから、今日は、ゆっくりしようかなって思ってたのにー……」 「え。え? なに、うそ、スイッチ入ったの!? 嘘だろおれのアイラブユーで!? ちょ、うはははマジ勃ってんじゃん!」 「はー…………アンジュが『近づくな勃起する』って言ってる意味、ちょっと分かっちゃって嫌だなー……ていうかぼくたちって結構即物的なカップル?」 「え、いや、そうでもないんじゃね? ちゃんと喋ってコミュニケーションしてっし、別にアンタ、セックスがしたいからおれと付き合ってるわけじゃないっしょ?」 「勿論! アンジュが好きだからぼくはきみとセックスがしたいと思うんだもの!」 「じゃ、いーんじゃね? 誰に迷惑かけてるわけじゃねーんだしさ。……おれも、そのー……いや、もともとエロいこと好きなタイプだけど、今はアンタとしかしたくねーよ」 「ずっとぼくだけでいいんだよ?」 「ちょいちょい魔王なの、マジでなんで」  ふはは、と笑う声がかわいい。そんなかわいい声で笑うのに、なまめかしい手はぼくの下半身に伸びて緩やかに肌を撫でる。 「……アンジュ、疲れてるんじゃないの?」 「んー……まあ、しんどい。ねみーし。でも、昨日おれは『これから三日間エロいことされちゃう……!』って期待しちゃってるし。それに、あー……アンタに虐められるの、結構良かったし……」 「え、ほんと? 嫌じゃなくて? アンジュ途中から日本語でもう無理ってずっと言ってたよ?」 「無理だけど嫌じゃねーの、伝われよ」 「えー難しい……じゃあ、でも、えーと。今日もきみをたくさん愛してもいいってこと?」 「…………そのセリフ吐いて許されるヤツ、世界でアンタだけじゃねーのって思うよ」  かわいい、とアンジュは笑う。  ぼくの台詞だ、とぼくも笑う。  笑ってキスをしてお互いに熱を持った下半身を押し付けあって、人間の愛情ってなんでこんなにあけすけなんだろう、ぼくときみは繁殖できるわけじゃないのになんでこんなに好きなんだろう、なんて、答えの出ないことを少しだけ考えてから、愛してるからどうでもいいやと思う。  鳥は飛ぶ。人は人を愛する。どちらも子孫を残すための戦略なのに、ぼくとアンジュはその遺伝子の隅っこでちょっと悪いことをしている反逆者だ。  でもずっと反逆者でいてほしい。できればその片割れはずっとぼくでありたい。  そんなことをアンジュのバスローブを剝ぎ取りながらキスと共に囁くと、ゲラゲラ笑ったかわいいひとは『魔王! わがまま!』とぼくにキスをしてくれた。  どうやらぼくは、好きな人にとってはちょっと変で、我儘らしい。きみと一緒にいると、新しい発見ばかりだ。  鳥は飛ぶ。人は人を愛する。そしてぼくは、きみの隣で手を繋いで愛を叫ぶ。  素晴らしい偶然の末の今を、ぼくはきみごと愛しているよ。

ともだちにシェアしよう!