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クーデターの日 1

 青年は、目の前の光景に呆然と立ち尽くすことしかできなかった。  空までを赤く染めるほどの炎を上げて轟々と燃えているのは、ほんの昨日まで荘厳にそびえ立っていた王都の象徴である宮殿だった。  自身が生まれ育った場所。敵意ある者が踏み入れるはずのない神聖なる場所。  それが─── 「王太子殿下!」  前方を見つめたまま動けずにいた視界の端に、鮮紅色の外套がはためいた。  鋭く、よく通る声。 「馬上からの無礼をお許しくださいませ」  力強い笑みが向けられていた。殿下と呼ばれた青年、セフェリノは声をかけてきたその人物と視線が合い、ようやく現実に引き戻される。  黒毛の逞しい体躯をした軍馬の鞍上にある、その姿を見とめてうなずいた。 「いや……気にするな。迎えに来たのがおまえで助かった」  差し伸べられた手を取り、引き上げられるままに体を預ける。  彼は、セフェリノが最も信頼を置く人物であった。国王およびその継嗣に仕える、誉れある騎士。勇壮なる親衛隊の隊長、アルヴァドール──セフェリノは彼をアルヴァと呼び、兄のように慕っていた。  美しく着飾った王侯貴族の装いを妨げぬようにと、親衛隊の者たちは衣服と甲冑は黒に揃えている。隊長のみが鮮やかな外套をまとう。  彼は親衛隊長という華やかな名の通りの端麗な美丈夫であった。  大陸では西方に位置する王国には珍しい、黒い瞳と、ひと束ねにした烏の濡羽色の濃いブルネットは真っ直ぐに腰まで伸びている。  親衛隊の厳かな黒一色の軍装は、彼のためにあつらえられたのだと囁かれる程の優れた容貌。武芸全般を修めたその堂々とした長躯で宮殿を闊歩すれば、振り返らない者はいないさえといわれた。  シンボルとして一際映えるその|戦袍(マント)に恥じない働きを常に心がけており、立ち居振る舞いや礼儀作法、公私問わず日々過ごす中でのあらゆる細やかな行動に至るまで他者の手本となるように努めている。  その上、こと武技においては無敗であるとも称される誇り高き騎士だった。  肩書と経歴だけでは堅苦しくも思えるが、幼い頃から彼と親しんできたセフェリノには、心易く接する。  王子として敬意を払いながらも情に満ちた、どこか弟に対するようなアルヴァの温かい眼差しが好きだった。  体の前にセフェリノを座らせると、後ろから腕を回して手綱を持つ。 「出来る限りの速さで駆けます。頭を低くなされ、舌を噛まれませんよう」  背中から掛けられる、子供にさとすような言葉にセフェリノは少し憮然とする。 「僕にだって乗馬の心得くらいはある」 「高貴な方の乗馬術と、騎兵のそれとは全く違いますので」  頭の少し上で笑う気配がして、さらに拗ねた顔になる。  絶望的な状況でも、命さえ預けられる者がいてくれれば、気持ちがほぐれた。  しかし、宮殿が壊滅状態にある以上、決して楽観視はできない。  父王だけでも助かっていてほしい。叶うならば、王后や兄弟達も無事であってほしかった。  祈るような思いで、わずかに瞑目した。  闇に浮かぶのは、真っ赤に燃え盛る王宮。  自身が生まれるずっと前から、王都の中心にそびえ揺るぎない象徴としての威光を保っていた。  己に栄誉ある将来と重圧を思い出させるところであり、帰る場所でもあり、生まれ育った絶対的唯一の安らげる場所であった。  あの荘厳さが失われようとしている。  二度と戻れない瓦礫へと、崩壊させる巨大な炎。  セフェリノは握り潰されそうな心を奮い立たせた。

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