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クーデターの日 2

 逃げ惑う人々の悲鳴。響き渡る怒号。  できるならば追われる人々に、手をのべて助けたい。それが立場ある者の務めではないのか。  セフェリノは己の無力さに、虚しさがつのる。  気を抜くと、思考が悪い方向にいってしまう。今は背中に触れる頼もしい温もりだけが、精神の支えであった。  アルヴァが忠告した通り、軍馬は経験したことのない速さで地面を蹴っていく。その足元から突き上げられるような揺れは想像の外だ。石を蹴り飛ばしながら、起伏のある土を駆けると、構えていない衝撃におそわれる。座骨に岩がぶつけられるようだった。  貴族が嗜む、上品に飾った美しい馬が走る程度のそれとは、たしかに比べものにならない。  しばらく駆け続けていたが、その速さは徐々に緩められていった。 「お怪我はございませんか」  その恭しい言葉に、セフェリノは首を振った。  危険な状況から、とりあえずは無事に抜け出せたということは理解できたが、安堵よりも暗澹とした思いは変わらなかった。何も話す気にはなれず、セフェリノは黙ったままでいた。  馬が砂を踏む音が、他方から聞こえてくる。 「──親衛隊長!」  アルヴァと同じ黒い装束に身を包んだ騎士が、そう声をかけた。親衛隊の一員ということは、精鋭であることに間違いはない。 「時間通りだな」  落ち着いた声で、アルヴァは部下である騎士に言う。 「ローレン、殿下を頼む」  背後からそう言ってかすかに笑う気配がした。セフェリノは振り返る。 「……どういうことだ」  自身よりも高い目線にある顔を見すえて問う。 「暫しの別れでございます」  状況にそぐわない静かな表情で、アルヴァはそう言った。 「どういう意味だと訊いているんだ!」  語尾を荒げた主に対し、視線を下げているアルヴァは、何もこたえなかった。代わりに、ローレンと呼ばれた騎士が隣に馬を寄せてくる。 「親衛隊長が殿(しんがり)を引き受けられます。確実にお逃げ頂くため、王太子殿下をお守りする私の部隊と、敵を引き離す時間を稼ぐのです」 「……それは、おとりということか」 「殿軍は、最も優れた士官が務めるべきでありますので」  ローレンはセフェリノに、王族に対する馬上での最敬礼を示す。騎士らしい洗練された所作だった。  彼が見せた、恭順の態度は(へりくだ)っているようだが、これ以上の問答は不要であると言外にあらわす姿勢だった。  成人した男とはいえ、騎士と比べれば幾分も細身であるセフェリノを抱え上げることなど、アルヴァにとっては苦のない動作である。  ローレンも高貴な身分の人物に対し、細心の注意を払いながら、自身の馬にまたがらせる。  己は、彼らに守護されるべきなのだ。セフェリノは生まれながらにしてその地位にあった。ずっと昔からわかっていたことなのに、事実を思い起こせば、なぜか胸が締め付けられる。  事は一刻を争う。この場で言い募るなど不毛だとわかっていたが、セフェリノは、今まで長く慕ってきた気高き騎士の姿を縋るように見つめる他にできなかった。  そんな表情を一瞥し、アルヴァは柔らかく双眸を細める。  命の保証のない戦地へ向かうとは思えない優しい笑みだった。 「生きて帰ってくるのだろう?」  やっとの思いで絞り出した声は掠れていた。 「ええ。……殿下のためであれば」  泣きたくはないのに、喉がひどく痛んで、視界が滲む。 「必ずだ。必ず帰ってきてくれ」  アルヴァは鞍から降り、地に手をついてセフェリノの前に跪いた。 「御武運をお祈りしております。敬愛する王太子殿下」  丁重な礼を、どこか遠くに聞いていた。  セフェリノが知る誰よりも強いこの凛然たる騎士が、討たれるはずなど絶対に有り得ないと信じたい希望。それに反し、もう二度と会えないのではないかという不安。  唇を噛んで、情けない嗚咽が洩れるのを堪えた。  『おまえと離れたくない』と叫びたい心情を抑えつけながら、ローレンが馬首を巡らせる瞬間まで、セフェリノは頭を垂れるアルヴァの姿を見つめ続けていた。

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