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02.異国の地
グラキエが婚約者候補を選んですぐ、アルブレアから使者が発った。
大陸の反対側にある国へは急いでも一週間以上かかる。ずれ込んだ予定を巻き返し、長い冬期が訪れる前に国へ戻るべく、最短でのルートを昼夜問わずに進んでいく。
そうしてたどり着いた使者にネヴァルスト王はその場で承諾の返事をした。すると支度もそこそこに、第五王子は祖国から北の端へ旅立つことになったのであった。
――婚約の話が届いてから七日ほど。
祖国を出て船に揺られている第五王子ラズリウの隣には、イライラとした様子を隠そうともしない従者が座っていた。
「っとに、どうなってんだよあの国は」
「スルトフェン。顔はまだ良いけれど、態度と口に出してはダメだよ」
そっと嗜めると、チッと舌打ちをして姿勢を元に戻す。こうしていれば普通の騎士なのにと思いながら、ラズリウは窓の外を見た。
青い空と海がどこまでも広がっている。少し前は遠目に見えていた陸地が影すらも見えない。
「王子が国を出るってのに従者が俺だけっておかしいだろ。荷物だって殆ど離宮に置いてくる羽目になったじゃねぇか」
「仕方ない。急だったから」
婚約の話が来て急ぎ従者を募ったらしいけれど、手を挙げたのは昔馴染みのスルトフェンだけだった。
こんな短期間で北の端にある国へ出立する王子についていくなんて、誰も希望しない。むしろ彼が名乗りを挙げてくれた事に驚いたくらいである。
住んでいた離宮も、身の回りの調度品も、別段思い入れのある物ではない。薄暗い部屋に置かれたベッドの上でしか過ごすことの出来なかったラズリウには、ただの入れ物だったから。
「しかもわざわざ男のお前を指名してくるような奴だぞ。どんな変態なのか分かりゃしねぇ」
「そうかもね」
「そうかもね、じゃねぇよ」
自分のことでもないのに、何故かスルトフェンが怒っているのが少し滑稽だった。
それでも離宮に居るよりはいいんだとラズリウは心の奥で呟く。あの日々にはもう、戻りたくないのだと。
その後船から馬車へ乗り換えて数日、ついにアルブレアに足を踏み入れた。共にやって来た使者は王宮へ伝令を飛ばすべく鳥になって空を駆り、ラズリウとスルトフェンはぽかんとその姿を見送る。
――魔法だ。
ネヴァルストでは王族の様な限られた血脈しか使えない術を、使者が息を吸うように使いこなしている。昔読んだ本にアルブレアは魔法使いの国だと書いていたけれど、それは本当なのかもしれない。
「ようこそお越し下さいました、ラズリウ王子殿下」
出迎えにやってきたという白髭の豊かな老紳士はゆっくりと、深く一礼した。
お手本の様な美しい所作に見入っていたラズリウがはっとして礼を返すと、優しく微笑みを返してくれる。その後ろには十人くらいの騎士と立派な白い馬車が控えていた。
王族に連なるとはいえ、継承順位も高くはない。そんなΩに対してもこんなに丁寧に出迎えてくれるのかと、ラズリウは心の中で驚く。
Ωという性別はネヴァルストにおいて、発情期による行動の制限やフェロモンが周りを惹きつける体質で厄介に見られがちだ。子を宿す可能性があるといっても、結局はΩ以外の女性の方が制限もなく重用されるから。
貴重ではあるけれど、重要ではない。そんな雰囲気を肌で感じ取ってきたラズリウとって、初めての異国の待遇は不思議な世界だった。
雪の結晶を模ったという紋章がついた馬車に乗り込むと、すぐさま滑るように走り出す。木目の美しい内装に設えられた柔らかな紅の座席は豪華なソファにすら見える。横に座ったスルトフェンがそわそわと視線を泳がせていて、ラズリウは少し笑ってしまった。
「ラズリウ王子殿下。スルトフェン殿。恐れながら、先に御承知置き願いたい儀がございます」
向かいに座って微笑んでいた老紳士が、何やら急に神妙な顔をする。
「はい……何でしょうか」
「誠に恥ずかしながら、殿下に御会い頂く王子はなにぶん自由奔放な性分でございまして。市井でも変わり者で有名にございます。その……」
先の言葉や表情から何となく言いたそうな事は伝わってくる。伝える言葉を選んでいるのか、老紳士は押し黙った。
そのまま、しばらく無言が続いて。
「十中八九、無礼を働くでしょう。何卒、御容赦を頂きたく」
やけに「十中八九」を強調しながら頭を下げる姿を見ながら、ラズリウとスルトフェンは顔を見合わせた。
そこまで言われる王子は一体どんな人間なのだろう。
一抹の不安を覚えはするものの、自分にはこの道しかないのだと思い直す。お役目をやりとげねばと決意を心に据え直して、ラズリウは微笑みながら頷いた。
期待と不安を混ぜ合わせながら窓の外を覗く。馬車が行けば行くほど、黄色い森と千切れた雲が浮かぶ空に変わっていくのだった。
黄色い森が赤くなり、更には少しばかり白さを帯びて来た頃。
静かに馬車が止まった先に白亜の城がそびえ立っていた。陽光をきらきらと反射し纏う様子は、地面から伸びる巨大な水晶のようにも見える。その光景に少し呆けながら、しゃりしゃりと音の鳴る地面に立つ。
すると口から出る息は白くなって宙に溶けていった。
「北の端は真冬なのか……ッブェッックシ!」
派手にくしゃみをするスルトフェンに毛布のようなものをかけながら、老紳士はほほっと笑う。
「今は夏期でございますよ」
「雪が積もっていますが、夏なのですか?」
「これは溶け残りの雪にございますゆえ。冬場は新雪がもっと積もります」
うえ、とガタガタ震えながらスルトフェンは呻いた。寒いのがよほど苦手らしい。
ネヴァルストで雪が降るような日は、真冬でも滅多に無い。夏にいたっては雪が残る日など存在しないだろう。
国の有る位置でこんなに違うのかとしみじみ思いながら、ラズリウも毛布を巻き付けて大きな石の門に向かって歩き始めた。
城の中に足を踏み入れると、屋内であることもあって寒さからくる震えが落ち着いた。そして奥のもうひとつの扉を開くと、また一段と室温が上がる。
外でまとわりついていた冷気の代わりに、柔らかい暖気が冷えかけた体を包んでくれているようだった。
「暖かい……」
ぽつりと言葉をこぼしながら、ラズリウはきょろきょろと周囲を見回した。
ホールと外の間に一つ部屋を挟んでいるとはいえ、火を焚いてる訳でもないのにやけに暖かい。まだ玄関口だというのに、だ。
同じことを考えているのか、スルトフェンも狐に摘まれたような顔で床から天井から、忙しなく視線を動かしている。
「室内の建材は周囲の空気の温度を一定に保つよう作られております。外が寒くなるほど、中は温かく感じられる仕組みです」
そんな都合のいい物があるのかと一瞬驚いたが、そういえば従者が鳥に変身して飛んでいく国だった。そう考えると、多少のものはあり得るのだろうと納得できてしまう。
奥へどうぞと示されて、運んでもらっている荷物と一緒に恐る恐る後をついていったのだった。
落ち着いた内装の応接間のような所へ通され、示された豪華な椅子に座る。どうしても気持ちが落ち着かず、無礼だと分かっていてもきょろきょろと部屋を眺め回してしまう。
そんなに広さはないが、周囲の調度品も椅子も机も美しく磨き上げられた木材だ。おまけに細やかな細工彫りが施されている。天井には小型のシャンデリアが、窓際には硝子のような飾りが下がっている。
その飾りが光をきらきらと反射してとても明るい。珍しさと美しさに心引かれてつい見入ってしまった。
「陽飾 りがお気に召しましたか?」
かけられた声にハッと我に返る。声のした方を向くと一組の男女が立っていた。
銀色の細い髪を後ろでひとつに纏めて、青みがかった灰色の衣装に藍色の外套を纏った男性と、蜂蜜色の髪を繊細に結い上げて浅葱色のドレスを纏った女性だ。二人の白い肌を包む衣装に施された細やかな装飾からして、王族だと判断して間違い無さそうだ。
慌てて礼をするラズリウに、楽にしておくれと男性は微笑みながら向かいの椅子に腰かける。
「ようこそ、アルブレアへ。私は第一王子のリスタルと申します。彼女は妻のフローリア」
「はじめまして、ラズリウ王子殿下。お会いできて光栄ですわ」
……王族どころか次期国王夫妻だった。
本来なら拝謁すら出来ない雲の上の二人を目の前にして、表舞台に立つことの無かったラズリウの頭の中は一気に真っ白になっていく。
「おっ、王太子殿下と、王太子妃殿下におかれましては、その、えっと……あ、の……」
付け焼き刃の挨拶文はあっという間に霧散してしまって、それ以上の言葉を紡ぐことは出来なかった。
失態を演じていると認識した体は焦りでカタカタと震え始めて、取り繕う笑みすら保つことが出来なくなっていく。どうしようという言葉だけが頭がぐるぐる回り始めた頃、王太子妃が立ち上がった。
「大丈夫ですわ、落ち着いて」
ゆっくりと背中をさすられて、いつの間にか速くなっていた呼吸が少しずつ落ち着いていく。恐る恐る見た王太子妃は優しく微笑んでいた。
「も、しわけ……ありま、せん……っ」
「お気になさらず。公な顔合わせではないのですから」
そう言って王太子もにこりと微笑んでくれる。けれど挨拶ひとつまともに出来ない自分の不甲斐なさに、ラズリウはしょんぼりと肩を落とすのだった。
しばらく背中をさすって貰い、ようやく体の震えも落ち着いた頃。
扉が再びカチャリと音を立てて開いた。顔を覗かせていたのは、ふわふわと柔らかそうな短い髪に闇夜のような黒い衣装と藍色の外套を纏った男性。
「遅れて申し訳ありません」
会釈をしながら入ってくる男性の後について、若草色の髪をゆったりと編んで菜の花のように鮮やかなドレスを着た女性も入ってきた。
「初めまして、ラズリウ王子殿下。私は第二王子のニクスと申します。こちらは婚約者のベルマリーです」
「お初にお目にかかります」
王太子夫妻は穏やかな笑顔だったが、第二王子と婚約者の女性はにこにこと人懐っこい雰囲気の笑顔を浮かべている。
「は、初めまして……その、えっと……よ、よろしくお願いいたします」
せっかく落ち着いた心臓も、また緊張で動きを早めていく。国王夫妻の姿を見た辺りで緊張がピークに達してしまい、ラズリウの記憶には挨拶をきちんとしたのかすらも残ってはいなかった。
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