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28.想定外の気持ち
観測塔にお邪魔してから数日後、グラキエ王子は予告どおり有人観測という調査に出立して行った。
代わりにスルトフェンを連れて歩くようにと国王陛下から直々に釘をさされ、いつもどおり教本を読みに研究所に行ったりもしたけれど。どうにも気が乗らずに訓練所で軽い運動をするようになっていた。
……外に出るとグラキエ王子を探してしまう。本を読んでいても微かな物音にすら反応してしまって集中できない。
有人観測は期間中に何度か順番が回ってくるらしく、戻ってきては出立してを繰り返していた。出立や帰還の前後は準備や観測結果の集計で忙しそうにしている。
何度目かの出立を見送った後にヒートの期間が始まり、部屋に引きこもるようになって。ある意味良かったかもしれないと安堵した。
もしもグラキエ王子が居たら、会えない期間がまた増えてしまう所だったから。
昨日から続いていた症状が少しだけ落ち着いた頃、まるで見計らったかのように扉のノック音が部屋に響いた。
「ラズリウ殿下。少々宜しいでしょうか」
「……？ はい」
天蓋の蚊帳を開けて出迎えると、何故かシーナがワゴンを押してやって来るところだった。明らかに食事の時間ではないタイミングだというのに。不思議に思いながら見つめているラズリウの前に運ばれてきたのは、豪華な装飾の施された一切れのケーキ。
何故急にケーキが来るのだろうかとシーナに視線を向ける。するとふわりと鼻をくすぐる紅茶の香りと共に穏やかな微笑みが返ってきた。
「あの……これは」
スポンジの上に沢山のフルーツとクリームが飾られている美味しそうなそれ。冬の間の新鮮なフルーツは貴重だと聞いたはずなのに、こぼれ落ちそうなほど惜しげもなく飾られている。
「本日は祝宴でございましたので、会場からお持ちいたしました」
「そうでしたか……おめでたい日なんですね」
「はい、グラキエ殿下の生誕祭にございます」
「えっ？」
知らなかった。いや、誕生日なんて知ろうともしていなかった。
本当はもう少し前だったらしいけれど、グラキエ王子の一時的な帰還を待って催されたのだという。肝心の本人は生誕祭をすっかり忘れていて、周囲に慌てて呼び戻されたといういかにもなエピソード付きで。
……恐らく王城の中は大騒ぎだっただろうに。戻っていたことすら、知らなかった。
宴が催されて、きっと皆に祝福されているのだろう。
だというのにラズリウはこんな所に引きこもっていて、顔を見て言葉を贈ることも出来ない。託す贈り物の用意すらない。
あんなに優しくされて、贈り物も貰っているのに。受け取るだけで何ひとつ返せていない。
生誕祭だと聞いた時も、いの一番に浮かんできたのは「せっかくなら一目顔を見たかった」という欲求で。自分の事ばかり考えている己に改めて気付いて、愕然とした。
シーナと分けてケーキを食べ、再び部屋にぽつんと一人になったラズリウは天蓋をぼんやりと眺めていた。
最後にグラキエ王子とゆっくり話をしたのはいつだっただろうか。
今回出立する前は深くなってきた雪の対策準備に追われていて、一緒に研究所へは行っていたけれど殆ど近くには居られなかった。
その前は数日だけ作業をする隣に居られたけれど、ひっきりなしに色々な人がグラキエ王子に話しかけていてあまり話は出来なかった。
……仕方ないのは、理解している。
行動範囲を広げるドームを作る事業は国民の期待の星なのだと、申し訳なさそうなテネスからも説明を受けた。あの雪の壁を目の当たりにすれば、それは嫌でも理解出来る。
だから。分かっているから――何も言えない。
「グラキエ王子……」
ぽつりと名前を呼んでも、応えてくれる人は近くに居ない。
じわじわと体が火照って息苦しくなってくる。ようやく落ち着いたはずの症状がぶり返してきたらしい。枕元に置いている月灯草の標本を手に取って、ぎゅうっと握りしめた。
今回も色々な人から沢山の贈り物を貰っている。
物ばかりでは部屋に溢れるだろうと、香りのいい小さなクリームだったり、貴重な花の精油だったり、美味しい焼き菓子だったり、新しい本だったり。
沢山の心遣いがラズリウの身の周りを囲んでいる。
けれど。
グラキエ王子の匂いが、足りない。
「……会いたい……」
声が聞きたい。顔が見たい。
もっともっと、一緒に居たい。
ぽとりと小さな雫が落ちた。それを皮切りに次から次へと目から雫が溢れて落ちてくる。出ていった涙の隙間を埋めるように、寂しさがラズリウの中を埋め尽くしていく。
この気持ちは知っている。
離宮に押し込められて、家族や友人から引き離されたあの日。惹かれていると気付いた交合訓練の相手が、無事に役務を終えて離宮を去ったあの日。訓練を終えてすぐ、知らない誰かに初めて身を抱かれたあの日。
一人ぼっちになる度に襲ってきた、寂しさ。
気持ちを伝える先のない、苦しさ。
心に浮かぶ相手への、恋しさ。
ぶわりと体を襲う熱が増した。息が苦しい。けれど喉をさすればビリビリとした軽い電気のような刺激が走る。前回はシーナが入手してくれたグラキエ王子の上着があった。毎日彼が持ってきてくれる預かり物が周りにあった。
けれど今は、グラキエ王子の匂いが何処にもない。苦しさを和らげてくれるものは何もない。
激しくなっていく症状に段々起き上がっているのも辛くなってきて、シーツの上にぱたりと身を横たえた。
「っ、う……ら、きぇ……おう、じ……」
突き上げるような疼きに喘ぐ脳裏が思い浮かべるのは、いつも見つめていた横顔。
あの離宮から逃げ出すために気に入られて、取り入るつもりだったのに。今の状況はグラキエ王子を落とすどころか、逆に自分が夢中になってしまっている。
側にいてほしい。
あの金色の瞳で見つめてほしい。
背中をさすってほしい。頭を撫でてほしい。手を繋いでほしい。
あの匂いが欲しい。
抱き締めてくれたら、抱きつくことができたら、一体どれだけホッとするだろう。
募る恋しさから逃げ惑い、月灯草の標本を握りしめる。すっかり自分の匂いになってしまった贈り物のコートにくるまり、きつく目を閉じて。
繰り返し襲ってくる不快な発情症状に苛まれながら、ヒートの期間を初めて泣きながら過ごしたのだった。
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