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52.番
初めてヒート中のラズリウ王子の側で過ごしたグラキエは、期間の明けを無事見届けた。
所々記憶が怪しい所もあるけれど、何かにつけて身体に触れていた事は覚えている。抱き合って、口付けて、噛みついて。
初めての夜を過ごした翌朝に噛み跡を見たシーナが盛大に驚いていたというのに、結局最後までお互いに噛んで跡を付け合った。案の定、二人とも全身が鬱血だらけになって今に至る。
まぁ、服を着るとほぼ見えないので支障は特にないが。
「内出血も殆ど引いたな」
食事に迎えに行くと、ラズリウ王子は丁度着替えている所だった。シーナに無断で入るのは無礼だと怒られたけれど、当の部屋の主が嬉しそうに抱きついて出迎えてくれるのでそれ以上の追及はなかった。
「あの、本当にごめんね……僕の力加減が下手なせいで怪我をさせてしまって……」
ヒートで強く興奮していたからだろう。そろそろヒート期間も終わろうかという時に噛みつかれたのが強すぎたらしく、出血してしまったのである。
気にしなくていいと何度も伝えているけれど、気に病んでいるのか朝必ず謝られてしまう。よほどショックだったらしい。
「平気だ。ラズリウにしか見せないから」
「…………うん」
そっと口付けると少しホッとした様子で着替えに戻っていく。ぼんやりと見つめる背中にはグラキエが調子に乗って噛んだり吸い付いたりした跡が沢山あったけれど、今はもう殆ど消えかけていた。
ただ……首の後ろに付いた跡だけは不思議なことに、未だくっきりと存在を示している。
強く噛みすぎたかと思っていたけれど、あの跡はどうにも様子が違う。僅かに色が薄くなった気はするが、他の跡がぼやけて消えつつあってもアレだけは形をはっきりと保っているのだ。
根拠もなく気のせいだと思ってきたけれども、さすがにここまで治りが遅いと気になってくる。
「なあ、首の後ろの跡は医者に見せた方がいいんじゃないか」
「え?」
ラズリウ王子はキョトンとした顔で振り向く。見えない位置だからか気付いていなかったらしい。
近付いて首の後ろにある跡をゆっくりと指でなぞると、くすぐったかったのかぴくんと飛び上がった。
「この跡だけいつまでも残っているんだ。もしかすると化膿や炎症の可能性が」
「違います」
黙って見守っていたシーナが話を一刀両断する勢いで割って入ってきた。医師でもないのに何故分かるのか。
抗議をしようとしたけれど、思わず口を噤む。その微笑みはいつになく冷たい……ような気がしたから。
「や、やけに食い気味だな。ラズリウはどう思う?」
「…………」
「ラズリウ?」
グラキエを見つめたまま、ラズリウ王子は動かない。ぽかんと口を開けたまま放心した様子で見つめてくる。
そんな間抜けな顔は滅多に見せないのに。
珍しさに思わずしげしげと見つめていると、かあっと一気にその頬の赤みが増した。声になっていない高い音を出し始めたと思えば、ぱくぱくと口が開いたり閉じたりを繰り返す。
「…………あ、跡……残ってる……?」
「ああ。ひとつだけ妙にくっきりと」
問いかけにひとつ頷いてやると、ぼわんと顔全体に朱が差した。勢いよく両手が首の後ろに回って、確かめようとしているのかもぞもぞと動いている。
しばらく見守っていたけれど、一向に落ち着く様子がない。ひたすらもぞもぞと怪しい動きを繰り返している。
「ラズリウ? どうした?」
しびれを切らして話しかけると、またびくんと全身を震えさせて飛び上がった。
明らかに様子がおかしい。ひとまず落ち着かせようと一歩踏み出した瞬間、ラズリウ王子は勢いよくシーナの方を見て。
「あ、あの! これ、って」
「恐らくラズリウ殿下の予想通りではないかと」
真っ赤な顔で、心なしか輝きが見え隠れする目をシーナに向けている。グラキエではなく、シーナに。
……全くもって面白くない。
「話してるのは俺なんだが」
「え。あ、あの……えと、うぅ……」
少しむっとして近付くと、途端に興奮気味だった顔が困惑に染まっていった。キョドキョドと揺れる瞳はグラキエを見る気配がない。
何故だ。さっきまで普通に話していたはずなのに。
いくら考えても答えの見当がつかない。失言するほど話せてもいないのに。
ラズリウ、ともう一度声をかけるが返事はない。けれどその代わりだとばかりにまたシーナが間に割って入ってきた。
今日のシーナはでしゃばりだ。テネスが乗り移っているのではないかと思うほどに。
「Ωの項に残る歯形は番の証。グラキエ殿下の噛み跡が消えないのであれば、番関係が成立したのではないかと」
しん……と沈黙が部屋に下りる。
にこにこと微笑む顔から出てきた言葉に、すぐには理解が追い付かなかった。
「つ、っ、がい!? 俺とラズリウが!?」
「他が消えている中でこの濃さであれば、恐らく。医師の確定診断は必要ですが」
予想外の展開に腰を抜かしそうになるのを何とか耐えて、ラズリウ王子を見つめる。不意に真っ赤な顔がグラキエを見て、ぱっと慌てた様子でその視線は床に逃げていく。
俯いている顔や首筋が見たこともないくらいに赤い。日の色を溶かしたような肌の色をしているはずなのに、その気配がどこにもないくらいに。
「食事の前に診て頂きましょうか。おめでたい御報告が皆様に出来るやもしれません」
「は、はい……」
こくんと頷くラズリウ王子に微笑み、シーナはパタパタと小走りで部屋を出ていった。
定刻より少し遅れて食堂に入ると、中の視線が一斉に向かってきた。
どうやら先触れが走っていたらしい。結果はどうだったのかと、さも当たり前の様に父が問うてくる。
「ラズリウ殿下がグラキエ殿下の番となられました」
連れてきた医師の言葉に、俄に食堂がざわついた。じっと周囲から見つめられて落ち着かない。そんな雰囲気のせいで、隣のラズリウ王子はずっと真っ赤な顔を伏せたままだ。
「よくやったじゃないかグラキエ! 婚約すら何年かかるかと心配していたのに、もう番が出来るとは」
「ラズリウ王子には感謝しなければならないな」
相変わらずグラキエを揶揄う様に笑う次兄。てっきり長兄はそれを嗜めてくれると思っていたのに、むしろそれに頷いている。神に見放された気分だ。
とはいえ祝ってくれているのは分かるので、まぁよしとする他ない。両親も手を取り合って喜んでいるようだし。
俯いたまま固まっていたラズリウ王子に手を差し出すと、おずおずと紅潮した顔がグラキエを見た。そっと重ねられた手を引いて席に向かい歩いていく。
「では、食事にするとしよう」
全員が席に着くと、父がゆっくりと右手を挙げた。皆同じように手を挙げて、左右に二回、上下に一回。食事の時に行う祈りの印を切る。
最初はぎこちなかったラズリウ王子も、いつの間にか慣れた様子で同じ動きをしていて。すっかり馴染んだなとしみじみ思いながら、カトラリーを手に取った。
食事を終えて部屋へ戻ると、ラズリウ王子は早々に白いコートを羽織る。手慣れた様子であっという間に襟巻きや手袋も身に着けていった。イヤーマフをするかは少し悩んだ様子だったけれど、持っていく事にしたようだ。
「な、なあ。もう少し城でゆっくりしないか?」
颯爽と部屋を出た背中を慌てて追いかけ、グラキエの前を歩く肩を掴む。先程食事を終えたばかりなのに、何もこんなに間髪いれず外出しなくても。
しかしくるりと振り返った顔は、静かに首を横に振った。
「ダメだよ。ヒートで講習が遅れてしまっているから、取り返さないと」
「少しくらい遅れたって……」
「だめ。早く認めてもらわないと有人観測に間に合わなくなってしまう」
陽光祭の後、ラズリウ王子が魔法技術の研究員になるための勉強を始めていた。そのせいで一緒に研究所に行っても、子供たちに教えを乞うている事が多い。
グラキエを頼ってくれてもいいのに、子供にばかり声をかけているのだ。モヤモヤしつつも自分以外に、それも子供に声をかけるなと狭量な事は言えず、大人しく見守っていたけれど。
ラズリウ王子の口から出た有人観測という言葉に、城下の宿屋で話していた内容が頭によみがえってきた。
「……まさか本当に参加するつもりなのか?」
周囲から孤立した環境になるが故に、魔法技術の研究所で一番リスクの高い調査が有人観測だ。参加するメンバーには大人子供関係なく、それなりの知識と技術を持つ研究員が選ばれる。
勉強を始めたばかりのラズリウ王子にはまだ厳しいだろうに。
「本気だよ。君と離れたくないから」
真っ直ぐ見つめ返してくる琥珀色を止める言葉は出てこなかった。そんな理由を言われては、とても頑張るなとは言えない。
「じゃ、じゃあ夜は俺の部屋に帰ろう。調査の道具や資料も多少はあるし、俺にも教えられる事があるかもしれない」
本当は……だだ側に居たいだけなのだけれど。
もっともらしい理由をつけないと、こうなったラズリウ王子は簡単には折れてくれない。物腰こそ柔らかいが、Ωだからと諦める事をしなくなった彼はグラキエよりもずっと頑固なのだと最近分かってきた。
「……ほんとに? 協力してくれる?」
「も、もちろん。全力で協力する」
本音を言えば安全なところに居てほしい。そんな思考が透けて見えているのか、疑いの混ざった視線が向けられている気がする。
けれど少しの間じっとグラキエを見つめていたラズリウ王子は、ふわりと花が咲く様に笑った。
「ありがとう。待ってて、絶対についていくから」
とびきりの笑顔を浮かべて機嫌よく街へ向かう婚約者を追いかけ、隣を歩く。
そっとその手を取ると驚いた様な顔がグラキエを見つめて、ほんの少しだけ並ぶ距離が詰まる。捕まえた手がするりと抜けていったと思えば、指を絡めてぎゅっと握り返してきて。
二人でゆっくりと、改めて歩き出した。
城下へ。研究所へ。
――長く続く、これからの道へ。
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