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英雄、ライニール・クライグは恋人を亡くした。  ミハルが何故それを知っているのかというと、レネにそう聞いたからだった。そのため、ミハルはそれを見て、「ああ、これがその恋人か」とすぐに理解した。  城に来て一週間ほど。ライニールから指示されたわけではないが、ミハルは食事や洗濯、掃除などの家事をマイペースにこなしていた。  王城ほどではないが城は城だ。それなりに広さがある。どこもかしこも埃だらけで、ミハル一人では一日で掃除を終えることは到底叶わず、毎日少しずつどこかの部屋の埃を払っていた。そして今日やるのは西側に位置する部屋だ。ミハルに当てがわれた東の部屋とは反対の位置で、「匂う」から遠ざけられたと考えると、おそらくこの辺りの部屋はライニールが日常的に使っている部屋なのだろう。その中の一室に、ミハルは足を踏み入れた。  書斎のようだ。扉を開けた正面に大きな窓があり、その手前に立派な机と椅子がこちらを向いて構えている。脇には本棚やキャビネット、そしてその上に一つだけ飾られた写真立て。  ミハルは掃除をするために持っていたバケツとモップをゆっくりと床に置き、手を下穿きで拭った。そしてキャビネットに歩み寄り、その上の写真たてを手に取ってみる。 「男……かな?」  魔女は同性愛を禁止してはいない。写真に映るライニールは胸から上あたりが画角に収まり、隣にいる人物と親しげに寄り添いながら、少し不器用に口角を上げている。あんな太々しい男が恋人との写真を飾るだなんて意外だったが、ミハルがもっと驚いたのはそのライニールの横に写っているはずの人物の姿が、なにか鋭利なものでズタズタに傷つけられていたからだった。体型などでかろうじて男性だということはわかるが、他は髪の色さえもわからないほどだ。 「恋人……かと思ったけど違うのか?」  愛する恋人を亡くしてその思い出の写真を飾るというならわかる。しかし、何故その姿を荒々しく切り裂いているのだろうか。  ミハルは矛盾するこの光景に首を傾げた。  写真を飾るのは愛していたから、写真を切り裂くのは憎んでいるから。つまりその両方の感情を、ライニールはこの人物に対して抱いているのだろうか。  ライニールが人を寄せ付けずこの城に一人閉じこもる理由は、この人物が原因なのは間違いなさそうだ。   「忘れられないってのも、大変だな」  しかし、気の毒だがミハルには関係のないことだ。他人事だと軽い調子で一人呟き、ミハルは写真を元の位置に戻した。  そして、尻ポケットに入れていたハタキを取り出し、窓を開けて棚の上やカーテンレールの埃を払う。  机の上もなかなか埃っぽいなと、少々乱暴にはらったところで、ハタキの先が机の上の袋に当たった。中身は小さな球体で、運悪く口がちゃんと閉まっていなかったらしい。それらはミハルがはたいた反動でバラバラと転がり、いくつかは床に落ちてさらに転がって行った。 「やべやべ」  ミハルは机の上を転がった玉を手で押さえ、袋に戻す。この袋はたしか、最初にこの城に来た日にライニールが客の男から受け取っていたものだ。そして転がったオレンジ色のガラス玉は、物置から盗み見た男が手に持っていたものと同じに見える。ミハルはその一つを摘まみ上げ窓の光にかざした。  玉は不思議な蠢きを中に閉じ込めている。煙のようであり、風に揺れる水面のようだ。ミハルはこれと似ているものを知っている。それは、自らが吐き出した青い玉だ。色が違うがこのオレンジ色の玉も、おそらく魔女の力が関係する何かなのだろう。  玉はまだ床にもいくつか転がっている。ライニールはこれを集めているのだろうか。ミハルは手にしていた一つを袋に戻し床に落ちた玉を拾った。転がった先を辿ると、キャビネットの隙間や部屋の入り口近くにまで落ちている。全部で何個あったのかわからないが、ライニールが数を把握していないことを祈るしかない。  最後に目についた一つは開けたままだったドアの隙間から廊下へと転がってしまっていたようだ。ミハルは腰を屈めたまま、ドアの隙間から手を伸ばした。しかしそれを先に拾い上げたのは、長い指を携えた大きな手だった。 「てめえ、クソ兎、そこで何してる」  ミハルは視線で手の指を辿り、手首、腕、肩、そしてゴミでも見るような冷たい視線でこちらを見下ろすライニールの表情を見上げた。 「いやいや、掃除でもしようかと思っていたら、活きがいい玉っころがコロコロと……」 「勝手に入るんじゃねえ」    ライニールはそう言って、乱暴にミハルの手から玉の入った袋を奪い返すと戸を押し広げ、ミハルの脇から室内へと入っていく。 「ですけど、ライニール様。どこもかしこも埃っぽくて、こうして埃をはたいて空気を入れ替えないと」 「ここはいい、でていけ」  ライニールは机に歩み寄り、その袖にある引き出しに袋を放り込むとピシャリと閉めた。 「そうは言っても、この部屋はよくお使いになる部屋なんでしょう?」 「あ?」 「埃っぽい空気ばっかり吸ってるから、そんな辛気臭い顔になるんですよ? せめてよくお使いになる部屋だけでも綺麗にしましょ? 俺やりま」 「クソ兎」  ライニールの低い声がミハルの早口を遮った。徐に机の脇に立てかけてあった猟銃に、ライニールの手が伸びたのを目の当たりにして、ミハルは下唇を噛んで息を飲んだ。 「うるせえ」 「ひっ!」  カチャリと部品が揺れる音が鳴り、銃口がミハルに向く。 「ライニール様、ご冗談を」  ミハルは両手を肩の高さに上げ後ずさる。  銃口を向けたライニールはそれを追いかけるかのように、じりじりと距離を詰めた。  ついにミハルの体は背中で戸を押して、部屋の外へと出たのだが、足がもつれ廊下に尻餅をついてしまった。ライニールはそのミハルに歩み寄ると、高い位置から見下ろしたまま、銃口をミハルの眼前に寄せる。 「うっ……うぇぇ……」  またミハルの腹の底から恐怖が込み上げた。城にいる間定期的に呪い(まじない)を掛けていたが、過度な恐怖はその許容範囲外らしい。  腹と口を押さえてうずくまったミハルを見下ろしたまま、ライニールは銃口を収め肩に掛けた。 「うぜえ、吐くな」 「ぅっ……あっ、はいっ……(ゴックン)」  ミハルは無理矢理嚥下して、喉奥に恐怖を押し込めた。ライニールが銃を収めたことで少しずつ込み上げていたものが終息していく。  落ち着いたミハルを確認するかのように、しばらくその場に立っていたライニールだったが、やがてフンと鼻を鳴らし、固いブーツのソールで床を踏んだ。立ち去ろうとするその背中にミハルは声をかける。 「ライニール様、銃なんて持って……どちらへ?」 「うるせえ」 「ま、まさか……! だ、誰を撃つ気ですっ⁈」 「黙れ、クソ兎」  言葉だけ投げかけたものの、ミハルにはライニールを止める力も気力さえもない。ただその銃口から放たれる弾丸が自分へと向かなかった事に安堵し、そして今からそれを向けられるであろう誰かの事を想像する。しかし、また腹から込み上げそうになり、ミハルはそれ以上この事について考える事をやめた。

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