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◇  瞼にうっすら滲む柔らかな光で、ミハルはゆっくりと覚醒した。  目を開くと冷たい石造りの天井が視界に入る。横たえた体は柔らかなベッドの上に沈んでいるようだったが、埃とカビの臭いが鼻腔に届き、ミハルはここがどこであるかを思い出した。  体を起こす。ここはあの城の中ではあるようだが知らない部屋だ。シングルサイズのベッドと、部屋の脇には木造の単組なチェスト、壁には絵すら飾られておらず、扉とその向かい側に光が差し込む窓しかない。  ミハルは上肢を起こし、窓の外に目をやった。雨は上がり、向こうに見える森の木々を朝日がキラキラと照らしていた。乾ききらない雨粒が葉を濡らし、それが反射しているのだろう。驚くほどに美しい光景に、ミハルは立ち上がり窓を開けた。  こもった室の空気の中に、少し冷たい外気が混ざり込む。ミハルは頭だけ外に出して、やっとそこで胸いっぱいに息を吸った。  眼下には城の前の草原と石畳の道、そして左に視線を滑らすと石階段と城の入り口の二枚扉が見える。どうやら自分は城の東の端の方の、上階の部屋にいるようだ。しかし、ここに来る前の記憶が全くない。たしか、最初に入ったあの暖炉のある部屋のソファで眠ろうとしていたような気がするが、自分はいつの間にここにきたのだろうと、ミハルは首を傾げた。  部屋の中を振り返ると、ドアの脇にミハルの僅かな荷物が置かれていた。ミハルはそれを漁り、新しいシャツと下着を取り出し着替えた。とは言え、新しく取り出したシャツも何度も洗って繰り返し着ているせいですっかりくたびれているので、外見上はミハルは昨日とほとんど同じ姿だった。  扉を開けて顔を出す。長い廊下が続いており、施された窓から差し込む陽の光のおかげで、城からは昨夜のような不気味さは失われていた。昨日過ごした暖炉の部屋は昼間でも薄暗かったが、城内の位置によってはこのように明るい場所もあるようだ。  ミハルは部屋から出ると、あたりの様子を伺いながら暖炉の部屋を目指した。広い城内ではライニールの気配は感じ取れない。ここから遠い部屋にいるのだろうか。  ミハルが暖炉の部屋にたどり着くと、ライニールの姿がそこにあった。件の丸テーブルの前の椅子に座り、ナイフに刺したハムに齧り付いている。 「海賊かと思った」 「あ?」 「おはようございます、ライニール様。コーヒーお飲みになりますか?」  ミハルは扉の隙間から、体を部屋に滑りこませると急ぎ足でキッチンへと歩みを進めた。 「いらねえ」  その答えに、ミハルはぴたりと足を止めてライニールを振り返る。 「では、紅茶? それとも甘いココアがいいですか?」  その問いにライニールは答えなかった。ハムの刺さったナイフを皿の上に放り投げ、テーブルに手を置き指でカツカツと音を鳴らした。  ミハルが首を傾げると、ライニールは徐にもう一方の手をテーブルの上に打ちつけた。皮膚だけではない、何か硬いものが打ち当たる音がして、ミハルはライニールの手元を見つめる。ライニールが手をどかすと、そこにはつまめるほどの大きさの青いガラスの玉が置かれていた。 「ああ」  ミハルはそれに覚えがあった。 「それ、俺のです?」 「チッ」 ライニールの舌打ちはどうやらミハルの問いに対する答えのようだ。 「人の顔見て吐きやがった」 「そうですか、吐いちゃいましたか。ライニール様、俺に何したんです?」 「あ?」 「たぶん、怖かったから吐いたんです。それか、嫌だったのかも」 「クソが、なんもしてねぇ」  ミハルは無意識に自分の袖を捲った。実は着替えた時に気がついていたのだが、強い力で掴まれたような跡がある。大きさから言ってライニールの手形だ。 「魔女からの慈悲か」  ライニールはそう言って不機嫌そうに目を細め、テーブルの上の青いガラス玉を指先で転がした。部屋に入るほんの僅かな光を集め、ガラス玉は青い光をテーブルに落とした。 「ですです。俺みたいな小型草食系の獣人は、貰えることが多いみたいですよ」  ミハルは罪人だ。罪人は自分であることの記憶を奪われ、Ωの烙印を押され、αの勲章を得た英雄にあてがわれる。烙印を押されるとはΩの(さが)を与えられるということだが、それはαの(さが)も持つ者に逆らえないということだ。  英雄には先の戦で心を病んでいる者も多く、罪人の中には彼らに悲惨な扱いをされる者も少なくない。ミハルのように抵抗する力の弱い存在は、魔女からの慈悲で恐怖や苦痛などの記憶を吐き出すことができるようになっているのだ。 「ところでサラダはいかがですか? 生野菜には酵素が含まれていますので、美容に」 「おい」  喋りながら調理室に入ろうとしていたミハルの背中に、ライニールが声をかける。 「野菜は嫌です?」 「コレどうすんだ、持ってけよ」  ライニールが青いガラス玉を指で小突いた。それは、テーブルの上を転がり真ん中あたりで停止する。 「え? いりませんよ。自分が吐き出した物、欲しい人なんています?」 「あ?」 「よろしければお持ちください、ライニール様。ペンダントにでもすれば、あなたの今日お召しになってる白いシャツに映えそうですよ」 「喰われてえのか、クソ兎が。自分の吐いたもの人に押し付けんな」  ライニールは表情を歪め脅すかのように椅子からガタリと立ち上がった。しかし、頸を撫でて 呪い(まじない)をすれば、ミハルの恐怖はほとんどなくなる。飄々とした様子で、ライニールに対峙した。 「そんなことよりライニール様、卵はどうします? 目玉焼き? オムレツ? ボイルする場合は少し時間がかかります」  ミハルの様子を見てライニールは唇を結んだ。その後でフンと鼻を鳴らし、再び椅子に腰を下ろす。 「オムレツにしろ」 「チーズは? いれます?」 「ああ」 「サラダは?」 「野菜はいらねえっつってんだろ」 「はいはい」 「チッ」  ミハルは調理室で用意した卵を5つも使ったチーズ入りのオムレツと、軽く焼いたトーストをライニールの前に置いた。コーヒーもたっぷりの砂糖とミルクを入れたら手をつけたので、ライニールは苦いものが苦手なようだ。 「10歳児」 「あ?」 「ライニール様、ところで俺をあの部屋に運んでくれたのはあなたですか?」 「ああ、てめえが人のソファでゲロゲロ吐いて、呑気に寝てやがったからな」 「なんであんな端っこの部屋なんですか。この部屋まで遠くて迷子になりそうでした」  ミハルが言うと、ライニールがフォークを握る手を止めた。傍に立っていたミハルを見ると、ため息を吐いている。 「匂うだろうが」 「はい?」  ミハルは首を傾げ、その後で自分の衣服の襟元を引っ張り鼻を寄せてみた。 「臭いですか、俺」  自分では自分の体臭がよくわからない。ミハルはライニールに尋ねた。 「確かにちょっと臭うが、そう言うことじゃねえ。お前、烙印を押されてんだろうが」 「烙印? ああ、はい。押されてますね、罪人なんで。それが、どう関係あるんです?」  言いながら、ミハルはその印のある脇腹をさする。「確かに臭う」と言われたことが少なからずショックだった。 「あ?」 「え?」 「お前、聞いてないのか」 「はあ」 「チッ」  ライニールはまたオムレツをフォークの先に突き刺し、口に運ぶと豪快に咀嚼し始めた。 「え? なんですか、教えてくれない感じですか? そう言うの嫌いです、気になります」 「知るか」 「ライニール様」 「うるせえ」  結局ライニールは空になった皿とコーヒーカップを残し、何も言わずに出て行った。  答えをもらえなかったミハルはもやもやとしたまま、また烙印をさする。αに逆らえない性質を植え付けられたのかと思っていたが、それ以外に何かあるのだろうかと考える。しかし、特段思い浮かばない。  それに、αに逆らえないというのもなんだか疑わしい。実際ミハルは呪い(まじない)さえすれば、ライニールの言動をある程度いなせるような気がしている。もちろん、物理で来られたら敵う気はしないが、今の所ライニールは脅したり掴んだりはしてくるものの、実際に暴力を振るってくることはない。  ミハルは自分が本気になれば、ここから逃げ出すことも可能なのではないかと思っていた。ライニールは最初ミハルを追い返そうとしていたほどだ、自分が逃げ出したとて、追ってくることはおそらくないだろう。  ミハルは窓の外を見た。昨夜の雷雨が嘘のような晴天である。部屋が暗いせいで余計にそう思えた。 「逃げ出すって、どこに?」  ミハルは空っぽだ。罪を犯す前の自分がどうやって生きていたのかなどわからない。もしかしたら愛してくれていた家族がいて、頼れば魔女から匿ってくれるのかもしれないが、いかんせん覚えていないのでそれもできない。つまり、ミハルに行くところなどないのだ。魔女はこれも見越して罪人から記憶を奪うのかもしれない。  とにかく、自分のことすらよくわからない状況で外に出て自力で暮らすより、今のところはこの陰気な城に留まる方が良さそうだ。  ミハルはそう決め込んで、閉ざされていた埃まみれの窓を開いた。  

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