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その夜、城の辺りには突然の雷雨が訪れていた。堅牢な屋内にも雨粒が窓を叩く音が響き、稲光が暗い室内を不規則に照らしたかと思えば、直後に雷鳴が轟いた。
「近いな」
と、ミハルはひとり呟いた。
ライニールは食事を終えた後、また城のどこかに姿を消した。
ミハルは食器を片付けた後で自分は残り物で食事を済ませ、今は「さて」と室内を見渡しているところだった。
この部屋にはベッドがない。ライニールはこの部屋をリビングのように使い、おそらく寝室は別にあるのだろう。
これだけ広い城なのだからミハルが寝室として使える部屋もあるのだろうが、ライニールは特に何も教えてくれない上に、ミハルが質問のタイミングを間違えると「うるせえ、黙れ」か、舌打ちしか返ってこなくなる。
ミハルは部屋の入り口の二枚扉に手をかけて、ひょこりと廊下に頭を出した。夜を迎えた屋敷はより一層暗く、激しい雷雨の演出も合間って不気味以外の形容がミハルには思いつかなかった。
散策するのは朝が来てからにしようと決め込み、ミハルは頭を引っ込めた。幸い、暖炉の前に大きめのカウチがある。今夜はそこで休ませてもらうことにする。
安皮のブーツを脱いで、今日何度もライニールに胸ぐらを掴まれより一層くたびれてしまったシャツのボタンを上から二つだけ開けた。
その姿でカウチに体を横たえると、驚くほどふかふかとした寝心地に、ミハルは「はあ」と吐息を漏らした。少し埃っぽいが、道中泊まったどの宿のベッドよりも柔らかい。
掛けてあったブランケットを拝借すると、その手触りもまた心地よく、ビロードの兎を撫でているかのようだ。ミハルはそれに体を包み、クッションの上に頭を乗せた。
ゆったりとした自らの呼吸と、窓を叩く雨音が混ざりあっている。また少しだけ視線を上げて、窓の外に目をやった。
今のミハルにとっては、この嵐は初めてだ。と言うのも、ミハルには記憶がない。ミハルは魔女に「自分を奪われた」のだ。それは罪人であるミハルへ与えられた懲罰の一つだ。
シチューにパンを浸すと美味しい、狼は兎を食べる、雨に打たれれば寒い。そういった常識的なことに関してはミハルの中にきちんと残っている。しかし、自分を奪われたミハルは「自分が何者なのか」「自分が何の罪を犯したのか」を知らない。犯した罪を知らないまま、その罪を償わせることは更生ではなく、まさに「罰」だ。
ミハルはほんのひと月ほど前、何もないただ白いだけの部屋で目覚め、その瞬間から空っぽだった。
最初に話したのはレネで、彼から「奉公先が決まった」と伝えられこの城を訪れたのだ。
魔女の姿を見てはいない。しかし、ミハルがたった一月の短い人生の中で出会ったどの人物の背景にもその存在が伺えた。魔女とはこの国に暮らす人々にとって、救いであり、ある種脅威であり、象徴のようなものなのだ。
いつの間にか瞼の奥が重くなり、ミハルは瞳を閉じていた。ミハルが見る夢のほとんどはこのひと月の間の僅かな記憶で構成される。願わくば狼に食われる夢など見たくないなと考えつつ、遠のく意識の中で耳慣れてきた雨音と雷鳴を聞いていた。
耳ざといミハルが、歩み寄る足音に気が付かなかったのは窓の外の音のせいだ。だから、呪い を忘れた。手首を掴まれ、目を開けた瞬間眼前に現れたその姿に、ミハルは震え上がって言葉を失った。
「クソ兎、なんでこんなところで寝てんだ」
低く不機嫌な声。ライニールだ。彼はさっきもこんな声で喋っていたはずだった。しかし、呪い をかけ忘れたミハルにとって、それは激しい恐怖を助長した。
カウチの背からこちらを覗く体は、寝転んだミハルの上に覆い被さるほど大きく、掴み上げられた手首は、「もう逃げられない」とミハルに追い打ちをかけている。
「おい、何アホみたいな顔してんだ、なんか言え」
「ぁ……うっ……」
「あ?」
「はっ……」
「クソが、寝ぼけてんのか」
そう言いながら、ライニールは掴んだ手首を揺り動かし、その不機嫌に細めた目元をミハルの眼前に寄せた。
「うっ……」
「あ?」
「うぇぇぇぇ……」
「はっ⁈」
ミハルの喉は息苦しく締まる。しかし、それをこじ開けるかのように腹部が大きく痙攣し、それが胸元を通り、臓器を収縮させる感覚が込み上げた。ミハルは不自然に体を揺らし、その身を捻って首をカウチから床の方へともたげた。
「てめぇ、人の顔見て吐いてんじゃねぇよ」
「おぇっ、おぇぇ……」
「クソが!」
喉奥から込み上げる胃液が不快だ。しかし、収縮を止めない臓器の動きに、ミハルは苦しみ、開いた口元から粘性のある唾液が絨毯の上に糸を引いて流れ落ちた。
そしてライニールが乱暴にミハルの後ろ襟を掴んで引いた瞬間、コトリと音を鳴らし、それが絨毯の上に転がった。
「あ?」
ガラスのような質感は、窓に打ち付ける雨粒と時折り瞬く稲光を小さく映し、慎ましく青々と光っていた。つまめるほどのその球体は、今ミハルが吐き出したものだ。
ミハルは絨毯の上に転がったそれを視界にとらえ、そこでやっと、臓器が動きを落ち着け息が吸えるようになったと気がついた。しかし、思考は徐々に遠のき、視界が白んだのを最後にミハルは意識を手放した。
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