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調理場は埃や油や、腐りかけの食材などで汚れていた。レストランの厨房ほどは大きくないが、それでも普通の家庭では考えられないような広さがある。一通りの調理器具や調味料は揃っているが、普段料理をしないのかそのどれもが使われた形跡がほとんどなく、調味料のいくつかは封が開いていなかった。  ひとつだけコンロの上に乗せられたフライパンが唯一焦げ付いている。これで肉の塊を焼いて硬いパンと共に齧り付いているライニールの姿をミハルは頭に思い浮かべた。  この立派な食材のほとんどを無駄にしていたのだろうか。外につながる扉が調理場の奥にあるが、その隣には芽の生えたじゃがいもやら、萎びたニンジンの入った木箱が置かれていた。  ミハルはひとまず鳴った腹を宥めるべく、先ほど運び込んだばかりの箱の中身を漁った。その中から、手のひらサイズのパンにチーズを一欠片挟み込んだ。それに齧りついて飲み込むと、ミハルの腹はある程度満たされた。見たところ、食材などの管理はずさんだ。ちょっとくらい摘み食いしてもバレることはないだろう。  腹が満たされると、ミハルはさらに箱を漁った。じゃがいもニンジン、玉ねぎ、と他にも少し見慣れない野菜が入っている。そして、さらにもう一つの箱の中身は肉類だ。これがライニールの手に渡ってしまえば、おそらく適当に焼いて塩を振って硬いパンと一緒に、ただあのでかい図体の腹の中に収まることになるだろう。 ◇ ライニールが再び姿を現したのはすっかり日が落ちてからだった。まだ先ほどと同じ紺のシャツにガウンを羽織った姿だが、昼寝でもしていたのか少し乱れた髪を掻きながら大きな口で欠伸をしている。しかし、調理場からひょこりと顔を覗かせたミハルに気づくとこれ見よがしに眉根を寄せて舌を鳴らした。  ミハルはライニールが入ってきたことに気がついてからすぐに、コンロの鍋に火をつけていた。それがコトコトと音を鳴らし、香りが調理場から部屋に溢れ出している。 「あ?」  ライニールはぴくりと鼻先を揺らし、ミハルを捉えた目を細めた。 「ビーフシチューを煮ました」 「何勝手なことしてんだ」 「食べませんか?」 「いらねえ」  ライニールはまた頭をかいた。大きな体をのそのそ動かし、部屋の隅の丸テーブルに歩み寄る。 「おい」 「はい?」 「ここに置いといたハムとパンはどうした」 「乾いちゃうんでしまいましたよ」 「チッ」  またのそのそとライニールが動く。寝起きだからなのか、実に気だるそうだ。その大きな体はミハルの脇をすり抜け、調理場へと向かっている。 「シチュー食べませんか? 2時間も煮込んだんですよ?」 「うるせえ、いらねえっつってんだろ」 「反抗期の子供みたいだな」 「あ?」 「なんでもありません」  ミハルは無理やり口角を持ち上げ首を振り、調理場へと消えていくライニールを見送った。しかし、数秒も経たないうちに調理場から「このクソが!」と乱暴に叫ぶ声が聞こえる。  ミハルは「ふう」とため息をついてから、「はいはい」と小さく呟き主人ライニールの元へ向かった。ライニールはシチューの入った鍋の隣でこちらに背を向けている。その視線は手元に向いているようだ。 「てめぇ、クソ兎」 「は?」 「やってくれたな」 「はて?」  ライニールの言葉にミハルは|瞬《しばた》いた。何のことかと、彼の手元を覗くと空のワインのボトルを握りしめている。心なしかその手はわなわな震えていた。 「なんで、空になってんだ」 「シチューに入れたので」 「何してくれてんだテメェ」 「え? 入れた方が美味しいので」 「俺のワインだ」 「はぁ、でも口開いてましたよ?」 「取っておいたんだ」 「え? ワインですよ? 酸化しちゃってますって。新しいの開けたらどうです?」 「この銘柄の気分だったんだよ」 「はあ、でももうないので、違うもので我慢し」  言葉の途中でミハルは息を飲んだ。ライニールにまた胸ぐらを掴まれたからだ。 「クソ兎、勝手なことするんじゃねえ。お前をシチューにぶち込んでや、あぐっ……⁈」  鼻筋にしわを寄せ、犬歯をのぞかせたライニールの顔がミハルの眼前に寄る。ミハルはその口の中に、スプーンで掬ったシチューを無理やり押し込んだ。条件反射か、ライニールはスプーンに乗ったシチューを含むと顎を引いた。ミハルがライニールの口から引き抜いたスプーンの上から綺麗にシチューがなくなっている。ライニールの口がもぐもぐと動き、こくりと喉が上下した。 「……クソが」  ライニールはまだ険しい顔のまま、手にしていた空のワインボトルを少々乱暴に調理台の上に置くと、壁際の棚の戸を開け新しいワインを取り出した。どうやらその棚は簡易的なワインセラーのようだ。そしてもう一方の手にワイングラスを引っ掴むと、調理場から部屋の方へと体を向ける。 「持ってこい」 「はい?」 「チッ、クソが、さっさとしろ」 「パンはいります?」 「いる」 「焼きます?」 「焼かんでいい、さっさとしろクソ兎」 「はいはい」 「チッ」  ミハルが皿にシチューをよそい、パンの入った袋を小脇に抱えて部屋に戻ると、ライニールは小さな丸テーブルの脇の椅子にどかりと腰を下ろし、ダボダボと豪快にワインをグラスに注いでいた。  ライニールとの対比でテーブルは小さく見えているが、近くで見れば普通サイズの人間が膝を寄せ合えば4人ほどが共に座れる大きさだとわかる。その上に、ミハルはシチューの皿とパンを置く。スプーンはすでにランチョンマットをひいたテーブルの上に置いてある。 「ちょっとだけ待ってくださいね。あとはサラダを」 「いらねえ」 「はい?」 「野菜はいらねえ」 「子供か」 「あ?」 「なんでもありません」    ライニールはなおも不機嫌そうな様子で、スプーンを握るとガブガブとシチューを口に入れていく。ときおりパンを引っ掴み、そのままガブリと食いちぎった。その表情はずっと不機嫌そうに眉を寄せているのだが、それでも手を止めないので味に不満は無いようだ。 「見てんじゃねえよ」 「え?」 「ニヤニヤしやがって、気持ち悪りぃ」 「はいはい、ごめんなさいね」 「クソが」  口いっぱいにパンとシチューを含んでいるせいで、ライニールは舌打ちができないようだ。  ミハルはそっと自然な仕草で歩み寄り、テーブルの上のパンを一口大にちぎった。 「ライニール様、こうして食べると美味しいですよ」  そう言って、ライニールの前の皿のシチューにパンを浸し、それを彼の口の中に放り込む。どうやらライニールは口の前に食べ物を出されると無意識に食べてしまうようだ。またパクリと口に含んだ後で、自分の行動に気が付いたかのように眉を上げた。 「んね? 美味しいでしょ?」 「てめえ」 「パンに味が染みますので」 「食事中に手を出すな」  ライニールが徐にミハルの手首を掴む。ミハルはぴくりと肩を震わせ、やり過ぎたかとライニールの表情を見上げた。  ライニールは目を細め、片眉をぐっと持ち上げた。 「食っちまうぞ、クソ兎」 「ははっ……ご冗談を……」  結局、ライニールは大鍋に作ったシチューを半分以上平らげた。

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