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◇
あの日、ライニールは言った。
--この城の外に出ることも、人に会うことも許さん
それは何故? 狼は兎を食べる。外に出さず、誰にも合わせなければ、兎の獣人がただ一人、密かにこの城で狼の腹の中に収まったとて誰も気が付かないからだ。
--食べるわけないじゃないですか
レネの声だ。レネは相変わらずあの軽薄な笑みを浮かべ、首を振って見せた。本当に? 本当に食べないのか? ミハルは思う。
ライニールの口元に覗く鋭い犬歯、それが肉に噛み付く姿や、飲み込んだ喉が上下する様を見るたびに背筋が震える。ただ兎の性 が狼に怯えるだけなのか、それともどこかでライニールの企みを感じ取っているのだろうか。
企み? 企みとは何か、それはミハルを食卓に並べて食うことだ。
「あぁ、やっぱり……俺を食べる気だったんですね」
「あ?」
ミハルは自らが発した声で覚醒した。目を開くと、薄暗い中に僅かに灯った光に照らされた天井が見える。背中に触れるのは、身に覚えがある柔らかな感触だ。ミハルは上半身を起こした。
暖炉の部屋だ。ミハルはカウチに体を横たえ眠っていたらしい。足下の方に並べられている1人掛けのソファにライニールが腰を下ろし足を組んで肘掛けに肩肘をついていた。そのサイドにある小さなテーブルには、青い玉が置かれている。
「寝てたみたいです」
「知ってる」
ライニールは手に持っていたワイングラスを口元に運び少しだけ傾けた。
「ライニール様、また俺に何かしました?」
ミハルは言いながら、青い玉を指差した。
「……なんも、してねえ」
「嘘下手ですね」
ミハルが間髪入れずそう言うと、ライニールはぐっと喉奥に何かを押し込めた。
「まあ、いいんです。大丈夫ですよ、忘れちゃったんで。それにしても、なんで今日は部屋まで連れてってくれなかったんです?」
「あと数分して起きなかったら、部屋にぶち込んでやるつもりだったんだ」
「あー、はいはい。そうですか……おや?」
ミハルは掛けられていたブランケットを退けて、カウチに座ったまま床に足をついた。そこでカウチの足元の方に置かれていたそれに気がついたのだ。手を伸ばし、それを手に取るミハルにライニールはどこか罰が悪そうに顔を背けた。
「シャツですか?」
「見りゃわかんだろ」
シャツは数枚畳んで置かれていた。ミハルはそのうちの一枚を広げる。綺麗な薄ピンク色だ。
「ライニール様のにしては小さいですね。パツパツになりそうでちょっと面白いですが」
「てめえ、ころっ……ぐっ……クソが……」
一瞬いつものように威勢よく目を見開いたライニールだったが、途中で躊躇い、また喉奥に何かを押し込んだように口を結んだ。ミハルはそれを見て少しだけ笑みをこぼしたが、ライニールの位置からは広げたシャツで見えていないだろう。
「偶然かもしれませんが、俺にはちょうど良さそうです。着てみても?」
「好きにしろ」
ライニールの許可を得たミハルは、自分のシャツに手をかけた。もともと寄れて黄ばんでしまっていたが、ライニールにつけられた血のシミは致命傷だ。ボタンを外して袖を抜く。しばしの間、ミハルの上肢が燭台の灯りが照らす室内で露わになる。ライニールは腰のあたりの烙印を一瞬その目で捉え、そして気まず気に目を背けた。
「良いですね。肌触りが良くて、何より色味が俺の好みです」
貰ったシャツに袖を通してボタンを留めると、ミハルは腕を広げてその姿をライニールに向ける。ライニールは何も言わずにフンと鼻を鳴らした。
「ライニール様は陰気な色味がお好みだと思いましたが、こう言った色もお召しになるんですね?」
「俺のじゃねえよ、どう考えても小せえだろ」
ミハルは目を瞬いた。シャツは綺麗だが新品ではない。ライニールの子供時代のものかと思っていたのだが、そうではないらしい。そこでミハルは思い出した。あの部屋のずたずたに切り裂かれた写真に写っていたライニールの恋人。顔はわからなかったが、確か彼は明るい色味の服を着ていたような気がする。
「ライニール様……これは」
ミハルは慌てて留めたボタンに手をかけた。しかし、それを解こうとするミハルの動きをライニールの言葉が止める。
「脱ぐな。お前にやる」
「しかし、これは大切なものでは?」
「あ?」
「あ、いや、そのお……他に持ち主がいらっしゃるのでは?」
その問いに、少し俯いたライニールの表情は一瞬部屋の暗がりに沈んだ。
「いい。それを着る奴は、もういねえ」
ミハルはシャツの胸元を撫でた。上等な素材の心地いい肌触りだ。
「あの、ライニール様」
「あ?」
「もしかして、なんですけど」
「なんだよ」
「謝罪ですかこれ?」
ミハルの言葉にライニールはまた気まず気に顔を背け、口元を結んで口角を下げ弧を描いた。
「部屋に連れてかなかったのって、起きたらすぐに謝りたかったからですか?」
「……ちげえ」
「そうです? だって、急にシャツをくれるなんて、なんかお詫びの品みたいで」
「うるせえな、お前が小汚いかっこしてるのが目についただけだ」
そう吐き捨てると、ライニールは立ち上がる。歩きながらグラスに残ったワインを飲み干し、丸テーブルの食卓の上に音を鳴らして乱暴に置いた。
「俺は寝る。ここ片付けておけよ」
「はいはい」
ミハルはもう一度だけ貰ったシャツを撫でて立ち上がる。ライニールの指示通り、食卓に歩み寄った。
「おや?」
ミハルの疑問符に、部屋の戸に手を掛けていたライニールが振り返った。
「誰か来ました?」
「あ?」
「お皿が、二枚あるので」
丸テーブルの上に並んだ2枚の皿をミハルは交互に指差しながら、ライニールの顔を見上げて首を傾げた。
ライニールはまた少し俯き表情を曇らせた後で、ぐっと口元を結んで目を細める。
「ああ、そいつは……もう帰った」
ライニールはそう言い残して部屋を出ると、後ろ手にゆっくりとその戸を閉ざしていった。
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