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 少しして、ミハルが皿を下げようと席を立った時、ライニールの視線が中空を向きその鼻が僅かに何かを嗅ぎ取るようにすんすん動いた。  その仕草に見覚えのあったミハルは気がついた。客が来たのだ。  ミハルは手に持っていた皿をテーブルに戻すとライニールの脇をすり抜け、部屋の扉に手をかけた。 「おい」 と背後で呼び止める声がしたが、それより先に戸を開いてすり抜ける。玄関に走り出したところで、ノッカーの音が聞こえた。  会わせないと言われたが先に会ってしまえばこちらのものだとミハルは思った。急いで玄関扉に飛びつこうと身構えたが、それより先にライニールに後ろ襟を掴まれ引き戻される。 「ぐぇっ」 「クソ兎、大人しくしてろ」 「ですが、まだ必要なものをメモに取っていないので、ここは直接お伝えするしか」 「うるせえ、黙れ」 「ギャッ」  ライニールはミハルの腰を抱え上げると、キョロキョロと周囲を見回した後、また結局あの物入れの中にミハルの体を押し込んだ。そして横にあった調度品の壺が戸を塞ぎ、ミハルはまた閉じ込められる形となった。 「大人しくしとけ、クソ兎」  戸の向こうからライニールの低い声がする。ミハルは下唇を噛み眉根を寄せたが、その不満気な表情は外の狼には伝わらないだろう。  軋む音と空気が抜ける感覚がある。どうやらライニールが玄関の扉を開いたようだった。 「どうしたんだい、ライニール? 誰かいるの? なにか騒がしくしていたけど」 「いや、ネズミが出ただけだ」 「ネズミ! それは大変」 「大丈夫だ、もう捕まえた」  ミハルは戸に耳を押し付け、ライニールとヒリスの会話を盗み聞いた。ネズミとは自分のことかと気がつき、小さく舌を鳴らした。ライニールの癖が移ったようだ。 「はい、これ。いつものね」  そう言ってヒリスはまた重たいものを持ち上げる時の息んだ声で言いながら、荷物を扉の前に重ねておいたようだった。 「ああ、コレで足りるか」 「うん、大丈夫」  このやりとりは前と同じだ。ライニールがヒリスに対価を支払ったようだ。 「はい、あとコレ。今回はちょっと数が少ないかも」 「ああ、構わない」  このやりとりもおそらく前回と同じだ。ライニールはヒリスからあの玉の入った袋を受け取ったのだろう。  そこでミハルは小さく戸を叩いた。音はライニールやヒリスの耳に届いたのだろう、二人の空気がぴたりと止まったのがわかる。おそらくその視線は、音の鳴った物置の戸を見ている。 「ネズミ……かな?」 「かもな」  ライニールは誤魔化した。ミハルはもう一度戸を鳴らそうと拳を握ったが、その前にライニールが口を開く。 「ヒリス、次回これに追加で持ってきてもらいたいものがあるんだが、頼めるか」 「え? う、うん! もちろん! どんなもの?」 「えっと、なんだったか、そのぉ、小麦……と」  ミハルは戸に耳を押し付けた。小麦だけではパンは作れない。声は出さず、口元だけをぱくぱくさせるが、扉を隔てたライニールに伝わるはずもない。 「小麦? パスタかパンでも作るの?」 「ああ、そうだ! パンだ、パンを作る」 「……ライニールが? パン、作るの?」 「……ああ」  しばらく二人は沈黙していたが、先に言葉を発したのはヒリスだった。 「いつもと違うことをするのは気分転換になっていいかもね」 「……そうだな」 「わかった、用意するよ! パンを作るなら小麦だけじゃダメだろうから、他に必要そうな物も用意するね」 「ああ、頼む」  その会話の後ヒリスは挨拶を告げ、玄関の外に出て行った。ミハルはまた物置きの小窓から外を覗く。  ライニールはヒリスを友達ではないと言っていたが、彼の方はかなりライニールを気にかけているようだった。  友達でなければなんなのだろう、まさか兄弟ではあるまいと、窓の外のライニールとは似つかない一般的な体型のヒリスの姿を見つめながらミハルは考え巡らせた。  すると何か気配に気がついたのか、こちらに背を向けていたはずのヒリスが振り返った。小窓からの距離はあるが、明らかにこちらを向いた視線に驚き、ミハルは咄嗟に身をかがめた。  それと同時に、戸の外で調度品の壺がどかされた音が鳴る。ミハルは戸に手をかけ埃っぽい物置きから抜け出した。 「運んでおけよ」 と言って、ライニールはヒリスが持ってきた食材の入った木箱を指差した。反対の手にはまたあの日と同じベルベットの黒い小さな袋を持っていた。 「ライニール様」 「なんだ、パンの材料は頼んでやったぞ」 「魚……は……?」 「あ?」 「魚は頼んでなかったですよね?」  ヒリスはおそらく、ライニールがまともな料理をしないことを把握している。だからもってくる食材の中に肉はあるが魚はない。魚はすぐに調理しないと傷みやすいからだろう。 「まあ、忘れた。しかし俺は魚より肉派だ。問題ない」 「……問題、ない?」 「あ?」 「ライニール様がそんなにいつもイライラツンツンしているのは、魚を食べないからです」 「関係ねえだろ」 「あります」  ミハルは俯き口を尖らせ小さく唸った。兎が唸ったところで狼にとっては痛くも痒くもないはずだが、ミハルが唸るとなぜかライニールは少したじろぎ表情をぴくりと動かした。 「調子に乗るなクソ兎、お前は自分の立場を弁えろ」  ミハルは唇を結んだ。犯した罪の記憶はないが、自分は罪人だ。脇腹には烙印もある。たしかにライニールの言う通り弁えるべきだ。 「そうですね」 と、ミハルは渋々頷いた。  またツンと口を尖らせ、木箱を抱える。いじけたって仕方のないことはわかっているが、どうにも口の中が魚のムニエルの気分だったので、この気持ちの落とし所を見つけるまでにはもう暫く時間がかかりそうだ。  最後の木箱を調理室に運び込み、ミハルは中身を漁った。概ね前回と同じような内容だ。ヒリスはおそらく十日に一度のペースで食材を持ってきてくれるようなので、今回は逆算して今朝のようなひもじい食卓にならない様にしなければと、ミハルは食材を手に取り調理台の上に並べていく。 「おい」  不意に背後から声をかけられ振り返った。この城にいるのはミハルと後もう一人だけなので、その声の主は振り返る前からわかっている。  しかし、その姿を捉える前にミハルの眼前に黒いものが広がった。バサリと覆い被さる感触で、それが布だとわかった。ミハルはそれを掴み顔から引き離すと、両手で持って広げた。  それは黒いフード付きのローブだ。丈はシャツ同様にミハルが着るのにちょうど良さそうで、おそらくこれも《《あの人》》の使っていたものなのだろう。  ミハルは顔を上げた。ちょうどライニールも同じような黒いローブを羽織ったところだった。 「着ろ」 「はい?」 「行くぞ、着ろ」 「……はい!」  ミハルは慌てて黒いローブに袖を通した。襟元を整えてライニールを見上げると、彼は手のひらを上向け人差し指を手前に引いた。それがフードを被れと言う意味だと気がつき、ミハルは首の後ろを辿って大きなフードで頭を覆った。ライニールも同じようにフードを被る。昼間では逆に目立ってしまうような気もしたが、それよりも姿を見られることを避けたいようだった。 「コウモリみてぇだな」 ライニールはミハルを見下ろしそう言った。 「ライニール様は森のクマさんみたいですね」 「あ?」 「なんでもありません」

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