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ヒリスに会うことは許されていないが、レネなら問題ないだろう。そう思ってミハルはもう少しだけ部屋の戸を押し開き、頭をひょこりと覗かせた。それに気がついたレネは、眉を持ち上げ「おや」とその口元を動かした。
「よかったよかった、うさちゃん。食べられてなかったみたいですね」
「あ?」
「レネさん、お久しぶりです」
ライニールの様子を伺いながら、ミハルは部屋の中から玄関へと姿を現した。咎められなかったので、そのまま二人に歩み寄る。
「ほうほう、顔色もいいし、うむ、傷も無いですね」
レネは両手でミハルの頬を掴んで覗き込み、その後で左右の手首を交互に持ち上げ袖をめくって観察しながらそう言った。
「いや、よかったよかった。ほら、虐待を受けるΩもいるっていうでしょ? 心配してたんですよ?」
心配してたと言いながらも、レネは相変わらず軽薄な笑顔を浮かべたままだ。ミハルを気遣うと言うよりは、興味本位で面白がっているようにすら見える。
「お顔は怖いですけど、ライニール様はそんなことしませんよ。口は悪いですけど」
「チッ」
「ほっほぅ、それは何より」
言いながらレネは自らの顎をさすった。
「ところで、レネさん、魔女の司令とは?」
ミハルが問うと、レネは思い出したと言うようにわざとらしくパチンと手を叩いてから、上着の内ポケットを漁りクルクルと巻かれた書簡を手に取り紐を解いた。思いの外長い紙で、その先端は床を滑りミハルの足元まで転がった。
「ええっとですねぇ……英雄ライニール・クライグ、東西大戦の折の貴殿の戦いぶりには……くそっ、長いな……ちょっと、待って下さいねえ、えーっと」
レネは視線を左右に動かし文章を追いながら、手紙を手繰り寄せていく。結局、紙面の残り三分の一ほどの場所にその一文はあったようだ。
「要約するとですね。東の国境付近にて、東の魔女の末裔の残党勢力が挙兵しまして、ライニール様にも出動願いたいと、そう言うことです」
言い終えるとレネはまた手紙をクルクルと巻いて元通りに収め、懐に仕舞い込んだ。
「警備部隊がいるだろ、それに国境付近には多くの戦士や騎士、魔導士が控えているはずだが」
「はいはい、もちろんそうなんです。彼らも頑張ってますよ」
「では、何故だ」
何故わざわざ西の外れに居を構える自分が呼び出されるのかと、ライニールはそう言う意図でレネに聞いた。
「いや、ほら。このところの国境付近でのいざこざは、全て東寄りの英雄たちが対処してるでしょう? ライニール様は西にいることでなかなか出番が減ってしまっていますので、ここらで武功を上げてはいかがかと言う魔女からの」
「行きませんよ」
レネの言葉を遮ったのはミハルだ。ライニールとレネ、二人の視線が自分に向いて、急に気恥ずかしくなったミハルは、ヒリスの持ってきてくれていた木箱の中の食材に目を落として触れながら言葉を続けた。
「ライニール様は戦争には行きません。その……引き篭もり、なので」
ヒリスは真っ赤なリンゴを持ってきてくれたようだ。またアップルパイを作ってライニールと紅茶を飲むかとミハルはその赤い実を指先で撫でた。
「ああ、すみません、うさちゃん。ちょっと遠回しな言い方をしましたが……」
レネは言葉を濁し、ライニールとミハルを交互に見ながら咳払いをした。
「要は、働けってことです」
ライニールはそこまで言われる前に、魔女の意を理解していた様だった。レネの言葉に黙ったままで、首を振ることも頷くこともしないでいる。
「でも、ライニール様は引き篭もりです。おまけに顔もこんなに怖いし、口も悪い。あとちょっと食べ方も汚いです。なので、戦争には行けないかと」
ミハルの言葉にレネはまた胸元で指を擦り合わせる仕草をした。どうやら少し戸惑っている時にこの仕草をする様だ。表情が嘘くさい笑顔を浮かべたままなので、レネの感情は少々読み取りづらい。
「あー、でもね。うさちゃん。ライニール様は魔女からの勲章をもらっていますよね?」
魔女からの勲章とはαの性のことだ。
「勲章には魔女の力を分け与えて、その力をさらに高める効果があるんです。なぜ、魔女がそれを英雄に与えるのかと言うと」
「魔女の為にあれ、と言うことだ」
今まで黙っていたライニールが、レネの言葉に続けた。
「しかし、ライニール様は、なんというか、まだ心を痛めていらっしゃいます。もう少し休養が必要かと!」
ミハルは食い下がった。
その様子がレネには理解できないようで、口元にこそ笑みを浮かべているものの、その眉は不思議そうに持ち上がっている。
「確かに戦争はおっかないですがね、もし、精神的にお辛いなら魔女からの追蹤玉を吐き出させて貰えばどうです? そうすれば気持ちはかなり楽になるかと」
レネが言うのは、ライニールが心を閉ざし引き籠る原因である辛い記憶を魔女に取り除いて貰えばどうだということだ。
「それは……しねえ」
ライニールは低く足元にそう溢した。
「まあ、戦いの記憶は戦士にとっては財産ですからね。経験の積み上げこそが英雄を更なる高みへと誘いま」
「レネさん」
ミハルはレネの言葉を遮り首を振った。そして「ライニール様は行きません」と、これまでよりも語気を強めて言った。
英雄論を嬉々として語り始めていたレネは、上向けた拳を納め、空気を押し出す様にゆっくりと肩を落とした。
「そうなると、ライニール様は勲章剥奪ですよ?」
レネの言葉にライニールの肩がかすかに揺れる。
ミハルはそれでいいのではないかと思った。戦わずに城に引きこもっていることを望むのであれば、勲章などいらない。むしろ魔女に呼び出されることもなくなるのだから都合がいいはずだ。
「勲章剥奪ってことは、魔女からの施しもなくなります」
そう言ってレネはミハルの方に体を向け、不躾にもその眼前でミハルに人差し指の先端を向けた。
「当てがったΩも回収です」
ライニールにあてがわれたΩとはミハルのことだ。ミハルは目を瞬いた。確かにレネの言う通りだ。ライニールが魔女の為にあるはずのαでなくなるのであれば、ミハルがここにいる理由がなくなる。
ミハルはライニールの表情を見上げた。その視線は床を向いたまま、感情が読み取れない。手元に視線を落とす。ベルベットの黒い袋の中にはおそらくオレンジ色の追蹤玉が入っているのだろう。
「まあ、そういうパターンもあるかとは思ってました」
少しの沈黙を割いたのはレネだ。今度は魔女の書簡が入っていたのとは反対の上着のポケットを漁り、黒皮の使い古された手帳を取り出してパラパラとめくっている。「あったあった」とあるページを見つけると、そこに指を置いて辿りながら読み上げる。
「ええっと、南西の街のリムドラ侯爵ですね」
「……はい?」
突然なんの前触れもなく出された見知らぬ名前にミハルは眉を寄せた。
「次のうさちゃんの貰い手です。良かったですね、あなたうさちゃんなんで、貰い手はいっぱいいますよ。リムドラ様も勲章持ちの英雄で、しかも侯爵家でお金持ちです」
ミハルはまたライニールを見上げた。やはりその表情は変わらない。
「まあ、1日だけお返事お待ちしますよ。明日またお迎えに来ますので、それまでに考えておいて下さい。どちらが私と一緒に来るのか」
レネは手帳を胸元にしまい、ライニールとミハルを交互に見ながらそう言った。そして「では、これで」と胸元に手を当て頭を下げると、扉の方に向き直る。そのまま出ていくのかと思ったら、一歩城の外に足を出したところで、レネは動きを止めて振り返った。その視線はミハルの方を向いている。
「言い忘れましたが、リムドラ様は蛇の獣人です」
ミハルは頭の中に蛇の姿を思い描いた。この城の周りでも二度ほど小さな蛇を見かけたことがある。蛇も兎を食べる。兎はあらゆる動物の捕食対象であり、食物連鎖の下位にいる。
「もし、うさちゃんが彼の元にいくとなれば、頑張らなくてはですね」
「はい?」
いつも愛想のいい胡散臭い笑顔を貼り付けているレネは、この時少しばかり意地悪く、片方の口角だけを上げて見せた。
「蛇は、一回が長いので」
「……はて? それは、どういう……」
ミハルが首を傾げ、問いをレネに投げかけようとしている途中だった。隣にいた大きなライニールの影がぐらりと動き、次の瞬間「ひっ」とレネの息を飲むような悲鳴が聞こえた。
ライニールがレネの襟首を掴み上げ、そしてそのまま扉の外へとその体を放り出したのだ。ミハルの位置からはライニールの表情が見えない。扉の隙間に投げ出されるレネの恐怖と驚きに満ちた表情が消え、「ギャッ」と言う呻き声と、地面にどさりと落ちた音が聞こえる。ミハルは慌てて駆け寄ろうとするが、その姿を確かめる前に、ライニールはレネの姿を城の外に追い出したまま、ばたりと城の戸を閉ざしてしまった。
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