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レネが帰ってからしばらく経つが、ライニールはカウチに腰掛けたまま膝の上に肘を置いき、黙って火の灯らない暖炉を見つめて背中を丸めていた。
「ライニール様、アップルパイ焼いたら食べます?」
ミハルの問いかけにわずかにその背中が動いたが、頷いたのか首を振ったのかまではわからなかった。
ミハルはカウチの背もたれに手をついて、ライニールの顔を覗き込むように身を乗り出した。英雄の口元は結ばれたまま、目元は色をともさずミハルの方を向くことはしなかった。
「パイが重かったら、コンポートにしますか? お砂糖たっぷり入れましょうねえ? ライニール様甘党ですからね」
ライニールはまだ動かない。ミハルがひらひらと眼前に手を伸ばして振ると、やっと一度だけ瞬きをした。
「ライニール様?」
「あ?」
「きっと、美味しいですよ、俺の作ったコンポート」
「……ああ」
「食べます?」
「……今は、いらねえ」
ミハルには辛い記憶がない。魔女に全てを奪われた上に、その後その身に起こった恐怖はすべて吐き出してしまったからだ。だからライニールの苦しみがわからない。しかしミハルはそれを解りたい、否、寄り添いたかった。
ライニールの心を閉ざしてしまうほどの苦痛。それを抱えたまま、この城で1人閉じこもっていたライニール。こんなに大きな体で背中を丸め、孤独に視線を落とす、英雄ライニール・クライグ。
「ライニール様……そんなにお辛いなら、レネさんが言った通り吐き出されてはいかがですか?」
ミハルは背もたれを跨ぎ、ライニールの隣に腰を下ろした。いつも食卓に向かい合っているが、隣に並んで身を寄せて座るのは初めてかもしれない。
「確かに戦士にとっては戦いの記憶は大切な物なのかもしれません。でも、それでお気持ちを病んでいては」
「ちげえ」
ほとんど呟くような声が、ミハルの言葉を遮った。
「そうじゃねえ」
「はて」
ミハルはまたライニールの顔を覗き込んだ。ライニールの黒い瞳は記憶の中の数年前の情景に想いを馳せて揺れ動いているかのようだ。
「あいつらの最期をみたのは俺だけだ」
ライニールは膝に置いた肘の先で両手の指を絡めた。その手には力が入り、皺をよせてほんの少し赤くなった。
「俺が、忘れるわけにはいかねえ」
「……それは……弱いから、お好きじゃないと仰っていた方たちのことです?」
ミハルが問うと、ライニールは小さな舌打ちを返した。
ライニールは素直ではない。言葉とは違う真意をいつも腹に溜めている。しかし、それを読み取ることはミハルにとっては難しくなかった。それはミハルがライニールは純粋で傷つきやすく、本当は優しいのだと知っているからだ。
ミハルはその体をさらにライニールの半身に寄せた。大きな体から伝わる体温が僅かに揺れて、その顔がミハルを振り返った。ミハルは手をうんと伸ばしてライニールの首に回し、その頭を自らの胸元に抱えた。ライニールは大きい。だからミハルは少し腰を浮かせていた。
ライニールの腕がそのミハルの体を支えるように背後に周り、体温の高い手のひらがミハルの腰に触れた。
「こんなに体が大きくたって、怖いものは怖いですよ」
ミハルはライニールの黒髪を撫でた。大きくて純粋な生き物を撫でるのは、とても心地が良くてなんとも言えない愛しさが込み上げる。
「ライニール様はもう戦争には行かなくていいんです。逃げちゃダメだなんて馬鹿なこと言うのは人間くらいなものですよ? 生き物は大概、恐怖や苦痛から逃げます。それは本能です。至極当然のことです」
ライニールは何も答えない。
「ライニール様、コンポート、食べますか?」
ミハルの胸元で、その黒髪が僅かに揺れた。
「今は、まだ、いらねえ」
ライニールのもう一方の腕がミハルの背中を包み込んだ。大きくて温かいライニールの体を、ミハルは暫く抱きしめていた。
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