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35【最終話】
ミハルが見つけたレストランは、この宿泊施設に併設されたもののようだ。外部からの客も受け入れているようだったが、ロビーからも入り口が繋がっており、宿泊客はそこから出入りしている。
ミハルとライニールが現れると、先ほど出迎えてくれたオーナーがまるで待ち構えていたようだった。嬉々として二人を海が見えるテラス席へと案内する。ミハルの見立てでは、この席はおそらくこのレストランで一番良い席だ。
向かい合って座り、メニューを広げながらミハルはライニールに尋ねた。
「ライニール様、以前こちらにきたことがあるのです?」
「あ?」
「さっきのオーナーとお知り合いのようでしたので」
ライニールはメニューから顔を上げた。
「ああ、前にな」
そう言ってまた視線を下げる。ミハルもメニューに視線を戻した。
ライニールはあの人とここに来たのだろうかと、そんな風に想像し、ミハルは黙った。
「前は、観光できたわけじゃねえ」
「え?」
「用があって立ち寄っただけだ、だから、一人だった」
ミハルは顔を上げた。ライニールはメニューに視線を落としたままだった。
ワインと魚介を中心にいくつかの料理を注文する。波音を聞きながらライニールが傾けたのは珍しく白のワインだった。
「ヒリス様も来ていただければよかったんですけどね」
ミハルはチビチビとワインを舐めながら呟いた。
旅行に行くと決まってすぐに、ミハルはヒリスに手紙を書いた。ミハルが池に飛び込んだあの時以降、ヒリスは城に来なくなっていた。
「ヒリスは、お前のことが好きだったんだ」
ライニールが言った。今彼の言った「お前」は、記憶を失う前のミハルのことだ。
ミハルは頷いた。ヒリスと家族のように心を通わせたその瞬間を、ミハルはあの人の追蹤玉の中で見ている。
「俺がもっと早く気持ちの整理をつけて、あいつにも話してやるべきだった。だから、あいつにはもう少し、時間をやってくれ」
海風がライニールの前髪を撫でた。
「ライニール様が反省を口にするなんて」
「あ?」
「雨が降らないと良いですが」
「チッ、クソが」
ミハルは笑いながら晴天の空を見上げた。
「お待たせ致しました。ムール貝のワイン蒸しと、シーフードピッツァでございます」
声をかけられ、ミハルとライニールは視線を向けた。オーナー自ら両手に料理を抱えて笑んでいる。その足元には小さな子供がまとわりついていて、彼は少々不自由そうに、料理をミハルたちの前のテーブルに並べた。
子供は二人。一人はオーナーの腰ほどの身長の男の子、もう1人は髪を2つに結んだ女の子だ。女の子の方はまだ歩き方さえも辿々しかった。二人とも兎の獣人だ。
「お子さんですか?」
ミハルは腰を曲げて、目線を下げて二人の子供を覗き込む。子供達は少し恥ずかしがるようにオーナーにしがみついていた。
「はい、そうです。すみません、普段は両親に預けてるんですけど、今はオフシーズンなのでこっちで一緒に過ごしていて」
子供達の頭を撫でながら、オーナーは少々気まずげに笑った。
「いえいえ、大人しくて良い子ですねえ。さすが兎の獣人です」
ミハルが言うと、ライニールはフンと鼻を鳴らした。笑ったようだ。
子供達はびくりと肩を震わせて、そんなライニールを見上げている。
「あ?」
じっと見上げる二人の視線にライニールも気がついたようだ。
「狼……なの?」
「チッ、なんだ、ちび兎ども、食っちまうぞ」
「「ひゃっ!」」
子供達は慌ててオーナーの影に隠れた。
「ちょっと、ライニール様! こんな子供にやめてくださいよ」
「チッ、クソが」
「二人とも大丈夫ですよ? この狼おじさんはほんとに食べたりしないですから」
「……おじさんじゃ、ねえ」
ミハルの言葉が効いたのかどうかは定かではないが、運ばれてきた食事を食べ終える頃には、何故か子供達はライニールに怯えなくなっていた。それどころか、膝の上に乗り、突いてもつねっても無抵抗のまま舌打ちをするライニールを面白がっている様子だ。
「どれもこれも美味しかったです。お魚もちゃんと骨を抜いてくれていて良かったですね、ライニール様」
「チッ」
ライニールは舌打ちしつも、ミハルが美味いと言ったことに満足げな表情を見せた。オーナーの子供達がライニールの膝に乗ったまま、テーブルの上のプリンをそれぞれ食べている。
「お料理は、僕のお母さんが作ったんだよ!」
口にスプーンを突っ込みながら、兄の方が言った。妹の方もまだ言葉を話せないようだが、意味は理解しているのか得意げに笑っている。
「ほほぉ、シェフは女性なのですか! 確かに、どこか家庭的な雰囲気があって落ち着く味でした」
ミハルは2人の子供ににこりと笑って見せた。すると兄の方が視線を上げる。見つめるのはちょうどミハルの背後の方だ。満面の笑顔を浮かべ、少年は「お母さん!」と呼びかけた。妹の方も顔を上げる。ライニールの膝の上からうんしょと降りると、辿々しい足取りでミハルの背後に向かってだっこをせがむよう両手を広げた。
ミハルは振り返る。潮風が皆の髪を撫でた。波音が穏やかに鳴っている。そこに立っていたのは、兎の獣人の女性だった。
白いコックシャツを着て、少し癖のあるミルクティー色の柔らかい髪は首の後ろで束ねられている。栗色の瞳が子供達を見つめ、その表情に母親の笑顔を浮かべた。
「……サラ……さん?」
ミハルは目を見開いた。彼女を知っている。追蹤玉でみたあの人の記憶の中にいた。彼女はあの人の妹だ。あの人が必死に救おうとしていた人だ。
サラは子供達から顔を上げた。そして自分の名を呼んだミハルをみると、少しだけ首を傾げる。しかし、その顔にはすぐに笑顔を浮かべた。
「お二人とも、お口に合いましたでしょうか?」
ミハルはハッと我に帰り、ライニールを振り返った。ライニールは読めない表情を浮かべたまま「ああ」とサラに対して頷いている。
「良かった! 主人のお知り合いだそうで、こちらはサービスてすのでどうぞ召し上がってください。パイナップルとマンゴーのジェラートです」
サラはガラスの器を乗せたトレイを持っている。こちらに歩み寄る足取りは少しだけ不自由そうだった。ミハルは彼女の足元に目を落とす。左足を引きずっていた。
ミハルが顔を上げると、テーブルに器を置いていたサラと目があった。不躾だったかと、ミハルは少し後悔するが、サラは気にしないと言うように笑っている。
「東西戦争の時に怪我してから、少しだけ不自由なんですよ」
サラが言った。
ミハルは追蹤玉の記憶を思い出す。手を繋いで逃げる兄妹。サラは足に怪我を負っていた。あの時のものだろうか。
「と言っても、ぜんぜん覚えてないんですけどね」
そう言いながら、サラはトレイの上に空いた器を乗せていく。ミハルはサラの出してくれたデザートに目を落とした。綺麗なオレンジ色だった。
「それは……お辛いですね」
ミハルは言った。その後で恐る恐る顔を上げると、サラはきょとんとした顔で眉を上げている。
「いえ、ぜんぜん」
「え?」
「だって、何も覚えてないんです」
サラは笑った。
「治療を受けたんですけどね、その影響で、たくさん記憶が抜け落ちちゃったみたいで」
「そう……ですか」
「最初は寂しかったです。たぶん、私は家族がいたはずで、戦争が終わったのに誰も迎えに来ないってことは、皆んな死んでしまったんだろうなって」
彼女が治療を受けたのは終戦後のようだ。東の魔女に囚われていた彼女は奇跡的に救い出され、しかしその精神面での治療のために記憶を抜くしかなかったのかもしれない。
そしてその頃には、あの人はサラを迎えにいくことはできなくなっていたのだ。
「暫くは、寂しくて辛かった。でも、今は……」
言いながら、サラは足元にまとわりつく子供達に目を落とす。愛しいとその表情が言っている。
ミハルはそれを見て、急に胸元が熱くなり、目に涙が込み上げた。誤魔化す様に俯き、ツンと傷んだ鼻を抑える。
「お母さん! 僕もジェラート食べたい!」
「あた、ち、も!」
「えー? プリン食べたでしょお?」
「食べたいー!」
「もお、仕方ないなあ」
サラは少しわざとらしく頬を膨らませた後、穏やかな笑顔を浮かべた。そしてミハルとライニールに「では、ゆっくりしていってくださいね」と言い残すと、子供達を引き連れて店の奥へと下がっていった。
ミハルは隠し通した目元を拭い、鼻を啜りながらジェラートにスプーンを差した。
「ライニール様」
「あ?」
「もしかして、東の反乱から戻るのが遅かったのって、こちらに寄っていたからですか」
ライニールはサラが生きていると言う情報を手に入れた。だからミハルのためにサラを探してくれていたのだ。
「あの、お前がぴーぴー泣いてた時な」
「泣いてないですし」
「泣いてただろ」
「じゃあ、それ忘れました。吐いちゃったみたいです」
「チッ、クソが」
ライニールはフンと鼻を鳴らした。そしてミハルと同じようにジェラートにスプーンをさす。口に運ぶと甘酸っぱくて冷たくて、幸せな味がした。
「子供たち、可愛かったですねえ」
「あ?……ああ」
「俺に似てませんでした?」
「それは、知らねえ」
一口、もう一口と運んでいく。
「ライニール様」
「あ?」
「俺、あの池で結構吐いちゃって」
「……ああ」
「色々忘れちゃって」
「ああ」
「でも、これだけは忘れないって思って、胸の中でずっと握りしめたものがあるんです」
「あ?」
ミハルは顔を上げた。
ライニールはスプーンを咥えたままだ。どこか間の抜けた表情で眉を上げている。ミハルは口元に穏やかな笑みを作った。
「愛してます、ライニール様。空っぽになっちゃったけど……空っぽの俺だけど、傍にいさせてください」
波音が心地よく押して、また引いていった。向こうの砂浜で、サラの子供達がキャッキャと笑う声がしている。
「ああ、まあ、なんだ……そういうのは……」
ライニールは咥えていたスプーンをテーブルに置き、気まずそうに頭をかきながら視線をあちこち泳がせている。明るい場所は慣れないようだ。珍しく頬と耳が赤らんでいる。
「空っぽとか、なんか、そう言うのは、これから埋めてけばいいんじゃねえの」
言い終えると、ライニールは口元に手を当ててテーブルに肘をつく。その黒い瞳は照れくさそうに波打ち際に向けられている。
不器用で優しい狼の横顔を見つめながら、ミハルはオレンジ色のジェラートの最後の一口を飲み込んだ。
おわり
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