そしてそれから七日経った今日まで、例のお兄様とやらには出会っていない。どうやら噂だと彼は今、兵を引き連れ隣国に赴いているらしい。武闘大会のような催し物が開催されていて、招待を受けたようだった。 「お兄様に会ったら…って言われたけど、後三日その兄さんが帰って来なければ良いってことか」 　暫く場内で生活していると、クロエが互いが入れ替わった後の話をほぼしなかったのは、入れ替わりがバレる心配がないからだということが分かった。複数いるメイド達とは毎日接触するが、ほぼ日替わりで人が変わるし、あまり深々とこちらを詮索して来ない。王子に対して不躾な質問は出来ないからなのか、クロエという王子が元々詮索を嫌うタイプなのか。 　先程の家庭教師くらいに、普段と異なることを指摘してくることはあるが、その程度だ。 　しかし、クロエが女好きなら、メイドとは親しくしているのと思いきやそうでもない…という点には些か引っ掛かりを覚える。もしかすると、過去に何か問題を起こして対策されているのではないだろうかと、どうでも良い詮索をしてしまった。 　いつまでも伏せっていても仕方がない。ゆっくりと席を立って窓から外の景色を眺めると、雲ひとつない青空の下、城下の街並みが見える。自分の暮らしていた日本とは明らかに違うレンガ造りの家々は、大体が暖色系で纏められていて暖かな印象だ。そこかしこに草木も多く、行き交う人々にも活気が溢れている。見るからに豊かな国といった感じだが、まさか自分がその街の方ではなく城に住む日が来ようとは。 「まぁ、一生出来ない体験が出来たと思えば良いか…っていうか、後三日でアイツ俺の体返してくれるんだろうな？…今頃何やってんだか」 　外の穏やかな様子に釣られるように窓を開ける。 　肩で揃えた金髪が風にさらりと靡いて、視界に入ってくる光景すらキラキラと輝いて見えて綺麗だ。顔に掛かった髪を指先で横に流していると、不意に街で大きな歓声が上がった。 「…なんだ？城門に人が集まってるな」 　街から城へと繋がる城門前に次から次へと人が集まり、その人だかりが自然と左右に分かれると同時に喝采が沸き起こる。 　何となく、嫌な予感がした。 　この国の国民達が大勢集まり、歓喜する瞬間なんてそうあるだろうか。国王、王妃とは一度対面したが、あの二人はそう易々と国民の前に姿を見せる存在ではないように感じたし、そうすると残るのはただ一人。 「第一王子のご帰還だー！」 　歓声の中はっきりと聞こえた男の声と、その一番耳にしたくなかった言葉にゾッとする。 「…マジかよ。さっき帰って来なければって思ったところで…」 　反射的に窓から後退り、辺りをキョロキョロと見回す。どう考えても逃げる場所など存在しないわけだが、どうにかして対面することは避けたい。無駄に広い部屋を腕を組んで暫く歩き周り、ふと一つの考えに至って足を止めた。 「いや、待てよ…そもそもその兄さんって…わざわざ弟に会いにくるような奴なのか？実の親の国王達ですら、ここに来て一度しか会ってないよな」 　焦り過ぎて一時的に思考が追いつかくなっていたが、冷静に考えればこの広い城内、わざわざ会おうと思わなければ出会わないのではないだろうか。あのクロエが口にするほどの存在なのだから気を付けるに越したことはないが、心配し過ぎるのも良くない。 　…とは思ったが。 　何かあってからでは遅い。秋斗は足早に机に歩み寄ると、一番上の引き出しを開けて例の凝った装飾の手鏡を取り出した。 　ここに来て一度もこの手鏡を手にしたことはなかったのだが、さすがに一度クロエと連絡を取った方が良さそうだ。 「…おい、クロエ。聞こえるか？」 　手鏡に話し掛けながらベッドに腰掛けると、暫く自分を(正確にはクロエの顔だが)映していた鏡が白く濁り始めた。そして、真っ白に染まり切った後に映った顔は、もうクロエの顔ではなく正真正銘、秋斗の顔だった。 『秋斗！お久しぶりですね！』 「…お久しぶりじゃねぇよ。お前…俺の体で余計なことしてないだろうな？」 　初めて中身がクロエの自分の姿を見たが、同じ人間でも中身が違うと、こうも違うのかというほど別人に見える。顔は秋斗そのものだが、雰囲気と表情が全然違う…自分が自分の時よりイケメンだと思ってしまうことが何だか悲しい。 『余計なことなんてしませんよ。毎日大学で女性達に囲まれてキャンパスライフを楽しんでいます！』 「……絶対俺のイメージ変わってんだろうな…」 　周りに花でも撒き散らしそうな程満面の笑みで答えるクロエの眩しさに目を細め、こうなることは予想していたので今更どうこう言うつもりはないが、戻った時のことを考えると気が重い。 『で、どうしたんですか？わざわざ連絡して来たということは、何かあったのでしょう？』 「あぁ、お前の兄さんがたった今帰ってきて…」 『お兄様が帰ってきた！？…二週間は帰って来ないと言っていたのにどうして…』 　間髪入れず反応し取り乱したクロエに驚き、秋斗は思わず手鏡を落としかける。先程までの笑顔はどこへやら、急に険しい表情になったクロエは、口許に片手を添えて暫く考えるように目を伏せた。 「おい、お前の兄さんってそんなヤバいの？この城に来てから結構お前の兄さんの…エルアデルって奴の噂聞いたけど、正直そんな悪い噂なかったけど」 　『エルアデル』、クロエの兄であり第一王子だ。まだ入れ替わってすぐの頃、城内でよく聞く名前だったので差し支えない程度に調べておこうと思い、エルアデルの名をメイド達に訪ねたことがあった。 『いやだわクロエ様、お兄様のお名前をお忘れですか？』 　多分秋斗とそう変わらない歳であろうメイド達は、いい感じにこちらの言葉を冗談として受け取ってくれたようだ。穏やかに笑うメイド達を横目に、ほっと胸を撫で下ろした。 　城内で囁かれる彼の名前が出て来る話は、どれもこれも彼を褒め称えるものばかりだった。容姿はクロエ共々に美形で、頭脳明晰、剣のみならず魔法の腕も立つ上に、人柄も良く温厚な性格の男らしい。 『お兄様は…その、しっかり人を見極めて判断し、対応される方なので…城内の方々には表向きのお顔しか見せられていないのですよ…僕にはちょっと…いや、かなり…素をお見せになると言いますか…』 「…つまり、お前は兄さんから見たら相当ヤバい弟で、その弟の前では兄さんは噂とは違うってことか」 『相当ヤバいって…そんなことはないですよ？ただ、まぁ…ちょっとお兄様の言いつけを守れないだけで』 　それは本当にちょっとなのか。目の前で目を泳がせているクロエはおそらく城内で相当な問題児で、それを監視するのが兄の役目なのだろう。今の状況もまた、クロエの問題行動の一つなのだろうから、秋斗もまだ見ぬエルアデルに気苦労を掛けているのではないかと思うと、若干申し訳なさが募った。 「どうすんの？俺としては今すぐ戻っても全然大丈夫なんだけど。どうせ後三日だったんだから、今戻っても問題なくないか？もう結構満喫しただろ？」 　正直、秋斗としてはこの入れ替わりが解消されようと全く問題ないので、最早クロエの出方を伺うしかない。というより、入れ替わりを解消出来るのはクロエの魔法だけなので、そういう意味でも全ての決定権はクロエにある。 『…いえ、駄目です。今戻ってしまったら、僕が一番楽しみにしていたイベントに…行けないままま終わってしまう…』 　まるでとてつもなく辛い事があったのかと思う程悲壮感が漂う表情を見せるクロエだが、秋斗はもうそのイベントの正体に気付いていたので、ただただ無表情でクロエを見つめていた。いや、見つめているようで遠い目をしていたかもしれない。 「…そういえばあったな…飲み会という名の合コン」 『………はい……それにだけは…なんとしても参加したいのです』 　今にも泣き出しそうな顔でコクと頷くクロエに、秋斗は先程も申し訳なさを感じたエルアデルに、今度は酷く同情して頭を抱えた。