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プロローグ
「あっ……」
春先の浮かれた気分の街中で、無差別通り魔事件が起きた。幸い、その場に優秀なガイドが居合わせたおかげで、軽いケガをした男性が一人いただけで済んだ。その男性はタワー所属のセンチネルで、彼が犯人の異変を感じ取ったために犯行による被害は最小限にとどまった。しかし、彼のメンタルケアが必要だと判断されたため、ボンディング済みのガイドは彼をケアするためにそこから自宅へと連れ帰った。
それが、タワーからの正式な発表だった。分かっていることはそれだけだったので、何も不思議はなかった。
「ナオ? 気持ちいいの?」
「んっ……あ、んんっ」
「じゃあ、もっとしてあげるから」
青柳朋紘 は、黒瀬直哉 とボンディングして5年になる。大学在学中に鍵崎翠と果貫蒼に勧められてペアになった。二人はタワー所属のレベル8として、潜入捜査も行う優秀なペアとして名を馳せている。
今日は珍しくオフだった。たまには二人で出掛けようと、ランチに向かうためにのんびりと歩いている途中、ナオは酔っ払いにぶつかられた。それからナオの様子がおかしく、その男が通り魔として凶行に及ぼうとしていたのを阻止したということがわかった頃には、ナオはゾーンアウトし始めていた。
「トモ……うっいたっ! あ、なんだ?」
「ナオ? ……なんだこれ?」
すぐに連れ帰ってナオを抱いた。いつもならすぐに良くなっていくのに、今日は何故か全く快方に向かわない。それどころか、抱けば抱くほど、体が冷たくなっていって、ナオは苦痛に顔を歪ませていった。俺は心配になってナオの頬に手を寄せた。すると、ナオはその刺激すら痛がって顔を背けた。
「トモ……俺、なんかおかしいかも。どんどん感覚が尖っていく。抑えられない……」
「ナオ? どうしてだ? 今までこんなことなかったのに……ちょっと待ってろ。俺、タワーに連絡して来るから」
俺は、上層部にナオを見てもらえるように連絡するために、スマホに目を移した。その一瞬の隙を突かれた。ナオは、裸のままでベッドから飛び出して行った。裸足で猛ダッシュしていく。急な動きについていけなかった俺は、ナオの向かう先に目をやってから慌てて追いかけた。
「ナオ! 待て、だめだ! 待って! いやだ……」
俺の手がナオの背中に届くまで、いや1ミリなら触れていたんだろうな。ナオの背中に俺の爪が引っ掻いた赤い筋を残して、ナオは階下へと消えていった。落ちる瞬間、ナオの向こうには大きな満月が見えた。そのぼんやりとした月が、白い光を放ちながらナオを奪っていくように見えた。
「ナオ!」
ここは13階だ。見える未来は分かっている。それでも、それを信じたくはなかった。落ちていくナオは、俺の方を向いていた。その目は、これまで見たこともないくらいに見開かれていた。そして、その胸には小さくて深い青色の花が咲いているようなあざが見えた。
「トモ……」
小さく俺を呼ぶ声が聞こえたと同時に、ドスンという音が響いた。そして、通りを歩いていたであろう女性が悲鳴をあげた。その声は、まるで闇を引き裂くように鋭く長く響き渡り、動かなくなったナオの周りにまとわりついていた。
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