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第1話 望むと望まざるとに関わらず
ふわりと風が肌を擽っていった。まるで誰かが腕を組んで甘えているような、暖かな感覚が思わず笑みを誘う。酷く懐かしい感じがするその温もりのそばには、いつもケラケラと笑う楽しいお前の音が共にあった。
「帰ってくるにはまだ早いぞ、未散」
私は、いつもお前がしがみついていた左腕に、もう片方の手でそっと触れた。その指を握りしめる人は、もういない。
お前がいなくなってから、そろそろ三ヶ月が経とうとしている。お前は、池内大気として亡くなった。だから、これからも永心家で面倒を見ることができる。俺が亡くなってからも、永心家の親族として供養し続けることが出来る。生きている間ずっと日の目を見れなかったお前のために、それくらいはしてあげたかった。
お前のことは、これからもずっと忘れることは出来ないだろうな。私が、これまでの人生で愛したただ一人の人なのだから。辛い境遇に生まれ、何度打ちのめされても常に立ち上がり続けていたお前。その人生は、あれほど賢かったお前の予想をも遥かに超えて、思いもよらない最後を迎えたことだろう。
「私にとって一番大切なことは、あなたの幸せを守ることです」
口先だけでなく、本当に私の幸せを守るために身を挺していてくれていた。そのお前が、あんな風に人を傷つけてしまうなんて、未だに信じられない気持ちだ。しかし、それは現実に起きてしまったことなのだと、晴翔を見て痛感する。結果的に殺人は別の人間の仕業だったが、お前の凶行で大垣晶さんは瀕死の状態だった。晶さんを弔う晴翔を見ていると、お前のしたことの重大さに胸が締め付けられるような思いをするよ。
「父さん、晴翔兄さんは今日はこちらには来ません。それでいいですよね?」
今朝、咲人が私にそう訊いてきた。晶さんの法要も、今日行われるそうだ。晴翔はそちらに出るようだよ。研究にしか興味がなかった晴翔が、心から愛した人が晶さんだった。その晶さんをお前が傷つけたなんてなあ。
「神様とはひどい方なのだな」
私はお前を守り切れなかったことで、力を失った。同時に、生きる気力も失いつつあった。それでも、梧桐の約束を知ってからは、子供達の人生を支えることを目的として、もうしばらくは生きて行くことにしたよ。
今日は、お前の百箇日法要だ。これを機会に、子供達に全てを打ち明けようと思っている。
「これまで嫌われるようにしておいてよかったな。打ち明けることで嫌われても、ダメージが少なくて済みそうだ」
澪斗、晴翔、咲人、和人。四人の子供達。多英が産み、育てて来た。そして、その四人の出生の秘密を三人で守り通した。
「この秘密を話すときは、三人のうちの誰かが亡くなってからにしましょう。その頃には、みんな自分というものが確立しているでしょうから。傷が浅くて済むんじゃないかしら」
多英がそういうから、お前と私は必死になって隠して来たな。嘘をつくのは難しい。私はなるべく子供とは話さないようにしてきた。その事が原因で、咲人からは大層嫌われた。澪斗はある程度知っていたようだし、晴翔はそもそもそういうことに興味を持っていなかった。咲人は、ちょうど多感な年頃に多英がいなくなったからか、早くに家を出てしまった。
「それでも咲人にも和人にも、これ以上嫌われたくは無いよ。見守っていてくれ」
私は梧桐の木にそっと手を当てて、木肌の温もりを感じた。その薬指に、プラチナと「白い有機体」の指輪をしている。これは、晴翔が作ってくれたものだ。
「これで、お前のそばにいられる。そう長いことこちらにはいないだろう。少しだけ、待っていてくれ」
私はそう独言ると、お前が見守っていると約束してくれた梧桐に腕を回し、そっと抱きしめた。
◇◇◇
「ええ、わかりました。私はそちらに向かいます。ですが、永心は今日は……」
法要が終わり、偲ぶ会を開くことになったのだが、池内の人間は忙しいためほぼ出席できず、晩年は精神状態に難があったため、出席者はかなり少なかった。その少ない出席者の中で、席を外した野本が電話をしていた。おそらく呼び出されたのだろう。通話を終了したタイミングを見計らって、野本の肘を突いた。
「事件か? 行くなら永心連れて行けよ。お前がいなくなったら、絶対うるさくなるだろう?」
「鍵崎さん……いや、でも身内の法要ですし、それに」
「おじさんが話があるからって言ってたやつか?」
「はい。池内のことだと聞いてますから、大事な話だと思いますので」
俺は、心配そうに見つめる野本の視線の先を見た。そこには、ここの三男である永心咲人が、池内大気の遺影を眺めている姿があった。永心の兄の晴翔さんのパートナーだった晶さんを、重体になるまで殴りつけた暴行犯として書類送検された池内。その直前に飛び降り自殺をしていて、実刑になることは無かった。
ただ、気が狂ったセンチネルを放置していた問題は、永心家の名を地に落とした。その事で、永心家本家は今、親戚筋から総スカンを食らっている状態だ。永心は、父である照史氏と秘書をしていた澪斗さんを心配し、これまでに無いほど足繁く実家に通っている。そうするうちに、池内に対する気持ちが段々変化していると言っていた。
「ああ、あれか。……そうだな。じゃあ、俺が上に電話しておいてやるから、別の人間に行ってもらえ」
「えっ!? そ、そんなこと出来るんですか……」
野本があたふたと慌てる姿は、いつもコミカルで楽しい。俺はそれを横目に見てニヤニヤしながらも、スマホで上層部に電話をかけた。いつも俺のことを必要以上に尊敬してくれている野本の目は、まるで美味しいおやつをもらう前の子供のようにキラキラしていた。本当は永心の事が心配で、片時も離れたく無いはずだ。だから、俺からの申し出に恐れ多いと思うふりをして、メチャクチャに期待した状態で見守っているようだ。俺は思わずグフっと吹き出してしまった。ちょうどその時、相手が電話に出てくれた。
「あ、ベクトルデザインサポーターズの鍵崎です。あーいえ、こちらこそお世話になっております。センチネル交渉課の課長さんに繋いでいただきたいんですが……あ、どうも、お世話になっております鍵崎です。はい、あ、あの折いってご相談がありまして……」
隣で野本がソワソワしながら、俺の電話が終わるのを待っている。ガタイが良くて武道に長けている強い男なのだが、純粋で可愛らしいところが多い34歳。まっすぐで眩しいくらいに強い愛で永心を包み込む姿に、隠れたファンが多いことを本人は知らない。実は俺もそうだ。この男は、無条件に力になってあげたくなるような、不思議な人たらしの才能がある。おかげで、課長さんとの交渉はあっさりと終わった。
「……はい、ではそういうことで。二人とも勤務変更ということで構いません。ありがとうございました。では、本日はVDSへの出向という事で取り扱いよろしくお願いいたします。失礼致します」
「……俺たちは今日はVDS勤務って事ですか?」
目を丸くした野本が、俺に聞いて来たので、特大の笑顔を返しながら揶揄ってやることにした。
「そう。今日はリカバリールームで一日重体センチネルのケアの仕方を教えますからって伝えたから。お前と永心は今日一日中ケアセックスの指導を受けてることになってるぞ!」
「はあっ!? 何っ……いや、ありがとうございま……す」
嬉しいような悲しいような顔をして、野本は忙しそうだった。俺は見たかったものが見れて、とても満足している。ぶつぶつ言っている野本の背中をポンポンと叩きながら、二人で先ほど案内されていた仏間へと戻って行った。
「鍵崎、さっき果貫来たぞ。翼さんと翔平と鉄平もいたぞ。あと、あの、サラスヴァティーのママさんも」
「え? ケイさんも? ああ、そっか翼さんが知らせてくれたのかな」
「そうみたいだな」
永心と向かい合って座り、一緒に寿司を食べながら蒼を待っていた。永心の隣には、もちろん、ここに留まる権利を得たばかりの野本が座っている。野本は甲斐甲斐しく周囲にもお茶を配ったり、皿や箸が足りているのかを確認していた。まるでもうこの家の人間のような振る舞いだったが、そのどこにも違和感が無かった。
「野本の甲斐甲斐しさはすごいな。もうここに馴染んでないか?」
俺がそう言うと、永心は仏壇の近くの照史おじさんたちが座っているあたりを顎で指しながら、ふんと鼻を鳴らした。
「お前の嫁さんはさらに上だと思うけどな。俺はあんな上の人間ばっかりいるところには、怖くて行けないわ。身内とは言え、近寄りがたいわ、あれ」
まさかと思い照史おじさんの方を見てみると、蒼が各界のお偉方にお茶やお酒を注いで回っていた。その仕草はまるで高級クラブのホステスさんのように美しく、その周囲は法事の席にも関わらず朗らかで和んだ空気に囲まれていた。
「うわあ、あいつ多分エンパス駆使しまくっておじさんたちを手玉に取ってるな。蒼の計算高さに気づけないんだろうな。あいつの腹黒さは政財界の腹黒さんの上をいってるわけか……恐ろしいな」
そう言っている俺の顔は、面白くなさそうだったのだろう。目の前で甘めの冷酒を飲みながらむすっとしていた永心が、顔を背けて笑いを堪えていた。吹き出したくて堪らないようなのだが、一応法事なので堪えているようだった。
「何だよ、お前……果貫取られて拗ねてんのか? すげー顔してんだけど」
楽しそうに肩を揺らす永心を見ていると、俺はちょっと面白くない気分になってきた。俺の今の表情は、わかりやすい嫉妬が表れた状態だったのだろうとわかってはいる。それをわざわざ口に出して言うあたりが、永心のデリカシーの無さを表している。そう来られてしまっては、子供のように言い合いをするしか無くなるのが、幼馴染の常だ。その楽しさを分かち合って、もう20年経つのだから、仕方がない。
「うるっせえな。お前だって、さっき俺が野本と一緒に戻って来た時、ちょっと嫉妬して見てただろ? 気づいてたっつーんだわ」
「はあー? 誰がするか。 先輩はお前みたいな太々しいやつ相手にしません!」
「お前……俺が太々しいなら、お前は何なんだよ。最強だろ、その界隈なら」
「何だとー!?」
ニコニコと笑いながら戯れあっているが、言葉が結構辛辣になりがちなのが、俺たちには居心地がいい。俺は小さい頃は言葉が乱暴で、永心とはそのくらいの頃からの知り合いだ。だから、俺が一番俺らしく話せる相手は、蒼以外だと永心しかいない。いいところのお坊ちゃんで、お上品に育てられているはずなので、おそらく俺と遊んでいる間に口が悪くなったのだろう。それでも、照史おじさんは遊びに来るなとは言わなかった。態度は冷たかったけれど、悪意を感じたことは無かった。俺にはそれがずっと不思議だった。
そんな楽しい会話の最中だったからか、酒を飲んでやや判断が鈍っていたからなのか、どちらなのか定かではないが、俺たちはその時すぐ近くまで人が迫っていることに、全く気がついていなかった。ガイドが近くにいるから、安心し切っていたのもあった。気がつくと、すぐそこにとてつもない悪意が迫っていた。
「おやおや、えらく騒がしいと思ったら。育てた人間は何を教えたんですかね、みっともない」
振り返ると、そこには一人の男性が立っていた。
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