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第2話 蛇蝎の如く

「あれ、明菫(アキズミ)さんじゃないですか。お久しぶりですね。お元気でした?」  背後に立つ禍々しい感情を垂れ流した男を、永心は硬い表情で迎えた。俺はこの男が何者なのかは、噂では知っている。永心グループの製薬会社、白崎製薬の専務だ。名前は白崎明菫(シロサキアキズミ)。この男はとにかく評判が悪い。  理屈っぽいくせに短気で狭量、人付き合いの評判が悪すぎる。ミュートであっても、気を使うタイプの人間であれば、明菫との打ち合わせでは疲弊し切って帰ってくるような男だ。  俺はセンチネルだから、そういう疲れとは距離を置きたい。幸いにも、これまではこの男と衝突するほどの関係を持たないように、都度情報を仕入れて避け続ける事が出来ていた。こういう会合や打ち合わせ等でも、チラリとでも見かければ、なるべく鉢合わせをしないように気をつけてきた。視線や筋肉の動きを読み取ってでも、避けたい。この男がいる場に出かけると、そう言う意味で必ず疲弊して帰ることになる。そうやって俺を疲れさせているため、無条件で蒼にも嫌われていた。  ただし、俺と永心グループに身を置く人間とは、どうしても顔を合わせる機会が多く巡ってくる。いつかは言葉を交わす必要が出てくるだろうとは思っていた。俺が永心と幼馴染である以上、それは避けられない問題だ。ただ、それが酒を飲んだ席であると言うことが、多少面倒だと思わざるを得なかった。この状態で一番面倒なのは、おそらく永心だ。可愛い顔して、酒癖が非常に悪い。野本の方を見ると、永心が何か言ってしまって騒動を起こすのではないかと気を揉んでいるのがわかった。 「私に気を使う暇があったら、いい加減に連れ合いを見つけて、家のためにセンチネルの一人でも囲ったらどうだい?」  じっとりねっとりと絡みつくような話し方で、明菫(アキズミ)は永心に絡んできた。  白崎製薬は永心グループ傘下なので、本来ならば、白崎の家の者が、永心家の人間にこんな態度を取ることはあり得ない。ただ、白崎家は照史おじさんの妹の純香さんが嫁いだ家でもあって、永心家の者はあまり白崎家に高圧的な態度を取らないようにしているらしい。人手なしだと謳われていたおじさんも、昔から妹想いの優しさだけは隠さずに表していたので、それは周囲も知るところだった。  ただ、この男はそういった気遣いも読み取れないらしく、照史おじさんが白崎家に強く出られないのは、そもそも役に立たないからだと決めつけている節があるらしい。毎度永心家に来ては誰彼構わず威張り散らし、世間話をするのも苦痛に感じる男として煙たがられていると、何度も永心から聞かされていた。    さっさとどこかへ追いやろうかと思い周囲に目を光らせていると、この男から僅かに抹茶の匂いがして来た。俺は思わず、すんと鼻を鳴らしてしまい、どうやらそれを聞かれてしまったようだった。ギロリと俺を睨みつけたかと思うと、スロー再生かのように無駄にゆったりとした動きで、腕を組んで品定めをするような目つきをしてきた。 ——やることがいちいち嫌味ったらしいんだよな、こいつ……。  そう思いながらも、にこりと必死の営業スマイルを返した。すると何を思ったのか、俺に対してひまわりが咲いたような無邪気な笑顔を見せて来た。俺は、その見事なまでの変貌ぶりに、目のセンサーがイカれてしまったのかと思ってしまった。身体中に虫唾が走った。それと同時に、その笑顔の中にほんの少しだけ侮蔑の気持ちが見え隠れしているのを感じた。 「もしかして、君はセンチネルなのかな?」  同じ趣味を持つ友人を発見したとばかりに、急に俺に対して馴れ馴れしい態度を示し始めた。その時、明菫氏は俺の喪服の袖を掴んだ。そして、やや乱暴にぐいっと引っ張り、俺の顔を自分の顔の正面に向くように回転させた。それはとても強引で、力任せな行動だった。掴んだ手の力が異様に強く、僅かに肉が潰れる感覚がした。鋭い痛みを感じるほどに捻られ、俺はそれに顔を顰めた。そして、抗議のために口を開こうとした瞬間、黒い影が目の前に飛び込んできた。 「失礼致します。明菫様、確かに鍵崎はセンチネルです。それもこの辺りには他に類を見ない高ランクの者です。ですから、接触される際は、細心の注意をお願い致します。触覚のセンサーが上がっている状態で触れられますと、危険です」  お偉いさんたちのテーブルについてお酌をしていたはずの蒼が、俺の目の前に飛んできていた。明菫氏の手を払いながら、二人の隙間にするりと入り込み、立ちはだかって睨みつけていた。同時に後ろに手を回して、俺をガードしている。あまりの速さに、隣にいた永心も口を開けてポカーンとしていた。 「すっすごい速さだな、果貫。さすがガイド」  永心が、半ば呆れたようにも聞こえる褒め言葉を漏らした。すると、何が気に障ったのか、途端に明菫氏は激昂し始めた。先ほども感じたが、感情の振れ幅が大きく、そのスピードが異様に早い。これまで関わらないようにしていて正解だったなと強く思わされた。 「早ければいいというものではない。もし私が刃物を持っていたらどうしていたんだ? 刺されてしまってからカッコつけても意味がないだろう? あんなに遠くに離れていては、何もできないだろうに。ガイドの守という言葉ほど信用ならないものは無いな」  噂通りの短気な男だったようで、突然そう大声を上げたかと思うと、卓上の徳利を手で薙ぎ払うようにして倒してしまった。  ガシャーン! という大きな音が耳に飛び込んできた。徳利に入っていた日本酒が溢れ、ふわりと香りが立ち上る。少量であれば問題はないが、このままここにいては俺には危険だ。音と匂いの刺激、対面している人間の感情の波が伝わる。周波数、音圧、濃度、熱量その全てが数値となって神経の中を走り始める前に、一旦ここを立ち去らなくてはならない。  一瞬でそう判断した俺の体は、自己防衛のために感覚の遮断を始めた。ただ、多少は刺激をまともに受けてしまっているので、やや痙攣してはいた。ガタガタっと体が揺れたのを見て、蒼がブチギレる匂いがした。俺は震えたまま蒼の手を掴み、目を見開いた状態のまま被りを振った。俺が手を握ったことで、蒼には俺の気持ちが伝わる。 ——照史おじさんのために、今は堪えろ。  蒼は明菫を睨みつけたまま、「センチネルが体調を崩しましたので、失礼致します」と言うと、俺の手を引いてその場を辞した。明菫はそれでも蒼の背中に向かって暴言を吐き続けていて、しばらくしてからは周囲が必死になって宥める声がそれを覆い隠していった。 「翠、感覚遮断していいよ。俺が運ぶから」  蒼はそう言って俺をヒョイっと横抱きにすると、廊下をそのままスタスタと歩き始めた。蒼はこの屋敷自体には馴染みがないのだが、センチネルと行動を共にする時は、必ずその場の情報を全て頭に入れてから向かうため、ここの敷地内の情報も把握しているようだった。仏間から遠くへと俺を運びながら、ついてきた永心に向かって口を動かし続けている。 「永心、悪いけどどこか部屋を貸してくれないか? 翠のケアをする場所が欲しい」 「わかった。それなら、俺の部屋へ……」 「いや、お前だってケア必要だろ? 俺の隣にいたんだから。野本、永心頼むぞ。俺たちは……」  すると、目の前の廊下の曲がり角から、スッと照史おじさんが現れた。四十九日で会った時よりも、やや痩せたように感じていたのだが、やはりそれに間違いは無いようだった。穏やかな顔をしているけれども、体の中に何かエネルギーが不足している箇所があって、そこが暗く見えている。目を閉じた状態で感じているだけなので、何とは言い難いが、体の中心付近に何かしら抜け落ちたように捉えられるところがあった。  照史おじさんは、感覚遮断を始めていた俺の腕にそっと触れると、「親戚のものが、すまないね」と声をかけた。俺は思わず、感覚遮断をするのを途中で止めてしまった。そして、目を開いて照史おじさんの顔がはっきり見えるように体を捻ると、その顔をじっと見つめた。  触れると、はっきりとわかった。センチネルとガイドが触れた時にだけ感じる、あの感覚がなくなっている。ランクの差がありすぎる場合や、ボンディング外のものが触れた時に現れる、あの障壁が無くなっていた。 「ストレンジャーになったんですか?」  俺がそう問いかけると、照史おじさんは悲しそうに微笑んだ。  ストレンジャーとは、ガイドが力を使い果たしてしまい、ミュート同様になった状態を言う。照史おじさんは、野明未散が亡くなった際に、その体の損傷がほぼわからなくなるくらいになるまで修復し、能力が枯渇していた。 「未散の体を修復した後すぐに、未散の鳳凰が私の鳳凰に、晶さんを殺した犯人を教えると言ってくれたんだ。だから、未散の鳳凰を追いかけて犯人を探した。そのうちに、能力は完全に消費されてしまったんだ」  それ以来、全ての能力が消えてしまったのだと言った。    センチネルが能力を失っても、過敏だった箇所が鈍感になるだけで、目に見えるような物理的な変化は特に起こらない。ただ、ガイドがストレンジャーになる場合は、これまでにあった特殊能力が一気になくなってしまうため、エネルギーの欠損が起きたような箇所が発生する。先ほど照史おじさんに感じた感覚は、エンパスやテレパスが失われて発生した欠損箇所の低エネルギー部分なのだろうと言うことがわかった。 「私はもう引退するからね。いいんだよ、これで。それより、君が心配だ。私の部屋を使いなさい。奥に防音してある部屋がある。そこで休むといい。誰かに譲ろうと思って、家具は全て買い替えておいたんだよ。安心して使いなさい」  そう言って、にこりと微笑んだ。  そして、永心とそれについて来ていた野本の方へと向き直ると、「お前もケアが必要なんだろう? 晴翔が使っていた離れの、一番奥にある寝室を使いなさい。そこも防音仕様になっているから、心配は要らない」と言って、二人を離れへと連れていってしまった。  俺が横抱きにされたままの蒼の腕にそっと触れると、蒼は俺の方をじっと見ていた。それと言うよりは、照史おじさんたちの方を向いていられなくなり、俯いていたと言った方が良いのかも知れない。蒼の顔は、恥ずかしさを隠そうとして失敗している状態で、真っ赤になって唇が震えていた。おそらく、俺もそうだろう。さっき言われた言葉は、友人の父から言われるにしては少々刺激が強かった。 「つまり、ベッドは新しくしてあるから、気にせず励みなさいと……ありがたいんだけどさ! めちゃくちゃ恥ずかしいな!」  ただ、その恥ずかしさに加えて、俺にとっては名誉なことでもあった。憧れていたインフィニティとそのガイドのケアスペースだったベッドルームを、俺たちが使う。俺にとっては、とても胸が高鳴ることだった。 「俺、インフィニティが使ってた部屋で蒼に抱かれるのか……明菫に感謝したいくらいだな」  俺が少々はしゃぎながらそういうと、蒼は面白くなさそうに口を結んでいた。 「他の男のことで喜ばれるのは、ちょっと……」  むう、と拗ねたかと思うと、俺を抱く腕にガシッと力を入れた。 「走るからな! 感覚遮断しろよ!」  そう言うと、永心家のピカピカに磨き上げられた廊下を、猛スピードでダッシュし始めた。

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