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第17話 バイオレット

 中瀬がここへ連れてこられた日に、和人には鈴本環が亡くなったことは伝えてあった。翠がそれを和人に伝えた時、和人はあまり狼狽えなかったのだという。あれほど夢中になっていた恋人が亡くなったにも関わらず、「そうなんですね」と小さく呟いただけだったらしい。ただ、その体の中に悲しみの色が広がっているということは、翠の目にはしっかりと映っていた。 「悲しいんだけど、ある程度予測してたっていうか、少し心づもりがあったんだろうなっていう感じだったな」 「心づもり……でも自殺とかじゃ無いのに予測できるような事があったって事だよな。亡くなりそうな前兆とかそういう……」 「背中のあざ、かな? あれはsE中毒者の特徴的な症状だからね。しかも末期のものだ。和人はそれを知っていたのかもしれない」  晴翔さんが鈴本の背中を写したものをタブレットに表示させ、ミーティング中のメンバー全員が見れるようにプロジェクターで壁に投影した。  白かったベッドシーツの上に真紅のバラを敷き詰めたような血の海があり、その中に青紫色の花が狂い咲いたような背中が浮かんでいるように見える。  その背中のあざがなんであるのかを和人が知っていたとしたら、それはそれで大問題だ。 「でもそれが本当だとしたら、和人は鈴本がsEを乱用しているのを知っていた事になりますよ。それなのに晴翔さんに報告してなかったって事になるじゃ無いですか。そんな事、あり得ますか?」  背中のあざがsE乱用の末期症状であると知っているのならば、恋人にそれがあると知った瞬間に晴翔さんに報告するだろう。それが俺たちがこれまで見てきた和人の姿だった。  それなのに黙っていたとなると、惚れた弱みを握られたのか、ただ単に色ボケしていたのか……いずれにしろ、あまり和人には似つかわしくない理由だと思った。  ただ、晴翔さんはどうやらそうは思わないらしい。やや自嘲気味に顔を歪めると、大きなため息をついた。 「少し前だったらそうだっただろうなあ。今はもう……ほとんど口も利いてくれないんだよ」 「和人がですか? どうして……反抗期?」  鉄平が目を丸くしながら晴翔さんに尋ねる。晴翔さんは可愛らしい問いかけに思わずぷっと吹き出してしまった。 「いや……反抗期は無いだろうね。ずっと一緒にいるわけじゃないし、実の親じゃ無いから。まあでも、そこが理由だね。親じゃ無いから話してくれない。そうなると反抗期とは言えないよね。むしろ反抗期であってくれたらどれだけ良かったか……。親になってくれると思ってた人が、実兄だったからそれが叶わなくなったと知って落胆してるんだ。頭ではわかっていても心がついていかなくて苦しんでいるというか……だから、今は永心の人間の顔を見たく無いようなんだよ」 「え、でも一緒にいてくれるんでしょう? ひとりぼっちじゃなくなるのに、親じゃ無いとダメなの? お兄ちゃんじゃ何かまずいのかな?」  急に話に混ざってきた中瀬……もとい、ミチが口を挟んできた。このミーティングは本来取締役と高レベルの能力者、今で言うところの翠、蒼、俺、永心、野本、晴翔さん、翔平、鉄平、和人だけで行うものだ。ただし、今日は和人は念の為家で休ませている。  そして、俺はミチを今回のミーティングに参加させる事にしていた。ミチは鈴本のしていたことを俺たちよりも知っている可能性が高いからだ。  そのついでに、お茶係として永心が用意してくれているコーヒーを、各自の席に置いて行ってくれないか? と頼んでいた。今はその配膳の真っ最中だった。  晴翔さんは、ミチが配ったコーヒーを啜りながら目を伏せた。その喉がゴクリとなる時、僅かに漏れ出そうになっていた苦しみも一緒に飲み込んだように見えた。  ずっと父になって和人と暮らすことを望んでいたのに、今になってそれが叶わないとわかったことに苦しめられているのは、晴翔さんも同じだ。 「和人は、自分が望まれて生まれてきたわけじゃないと思ってるんだ。ただ生まれてくる準備が整っていたから生まれた。別にいないならいないでもいいと思われていると。そんなわけはないと思うんだが、父さんと一緒に暮らしていたわけじゃないからそれをわかりようがない。だから、自分を必要としてくれる人が欲しいんだよ。兄ではダメなんだ。親か、恋人だろうな。でも、その恋人も……」  もともと持っていなかったものを、手に入れようとした瞬間に全てを失ってしまったわけだ。それは、ずっと持っていないままよりも残酷だろう。時折、痛みに耐えるような表情で佇んでいるのを見かけていた。  俺には、最初から持たない気持ちはわからないが、大切なものが手からこぼれ落ちていく時に感じる痛みならわかる。それを見越してだろう、翠からよく和人の世話役を頼まれる。  ガイドの和人にミュートの俺が出来ることなど限りがある。それでも、少しでも和人の孤独を埋めてあげられるならばと、俺はその依頼を受け続けてきた。 「……和人くんの孤独を強めたのは私です。環さんが亡くなったのは私のせいでしょう? だから、きちんと謝りたいの。でもね、それはもう少ししてからでもいいですか? 紫さん、捕まえるよね? それがはっきりしてからじゃないと……」 「決して君のせいでは無いと思うのだけれど……」と言い淀んだ晴翔さんを、ミチは制した。「いえ、私のせいです。私はそこから逃げない事にしたから」そう言って、俺の方を見た。 「田崎さん、私たち、逃げない約束したよね?」 ——思う人がいるんでしょう? 私を抱くのは、あれが最初で最後。わかってるから、大丈夫。  ミチはそう言って、それでも俺のそばに置いておいてくれと言ってきた。生きていく覚悟を固めて、今はVDSでスタッフとして働いている。そのミチが俺に言う「逃げない」の意味は……。  俺はミーティングルームの白い壁に投影されているデータの前に立った。全員の視線が集まる場所に立ち、フーッと長い息を吐いた。 「ブンジャガのスタッフを雇っていた男、紫についてなんですが、ミチから報告してもらいました。ただし、ミチはあいつの本名を知りません。お察しだとは思いますが、あの店のスタッフはあまり人を疑うことを知らない。sEのことも、紫からいいことしか起こらない薬だと言われて、それを信じきっていました。薬学部の人間にも関わらず、それを信じ込んでいました。その原因は、彼らがミュートだと言うことでした」 「ミュートだとその話を信じきってしまうのか? 大学で何を学んでるんだ……」  永心が呆れたように吐き捨てた。俺も最初はそう思った。信じられない話だった。ただ、ミチから話を聞くにつれ、俺たちに足りない視点はそこだろうと思い至った。  そして、おそらく翠にはそれが見えていたのだ。初めから。だからマイはアイちゃんに優しかった。そう考えると色々と合点がいく。 『生活に不自由せずに育った人間に、その苦しみはわからない。逆に言うと、裕福そうに見える生活の苦労を、俺たちはわからない』  時折翠が言うことだ。相手の立場によって常識も感覚も違う。当たり前だと思っていることのそもそもの違いを考えれば、答えに近づきやすいといつも教えてくれている。 「紫に踊らされていたミュートは、金銭的に問題を抱えている人ばかりだった。私大の薬学部に通っていると、かなりの学費が必要だろう? それで親に負い目を感じていたらしい。しかも、紫が選んだ人物たちは、就職の内定が貰えていないものばかりだった。白崎製薬に研修に来させてsEの実験に関わらせ、その段階でいいことを囁いて洗脳していくんだ。俺も同じミュートだ。苦労はわかるよ。協力してくれればここで働かせてやる、援助してやる、ウチは政治家とも繋がりがある、ってな」  それを聞いて永心がイスを倒しながら立ち上がり、俺のところまで走ってきた。そして、俺の胸ぐらを掴んで映像が投影されたままの壁に俺を押し付けた。 「永心!」  翠が永心を止めようと立ち上がった。だが俺は目で翠を制した。センチネルに怪我をさせるわけにはいかない。  俺を睨みつけ、ギリギリと歯軋りをしている永心には悪いが、全てを話してしまわないと先へ進めない。俺は敢えて永心の目を見ながら続けた。 「その政治家とは間違いなく永心照史だろう。だが、話は最後まで聞け、永心。その人物は、永心照史の力を見誤っている愚か者だ。クラヴィーアの模造品が作れるのは白崎製薬だけだ。そして、白崎製薬には紫という漢字で「ゆかり」さんがいる。ただし、ゆかりさんはガイドだ。紫は英語でバイオレット。バイオレットはもう一つ意味がある。菫だ。あの家の菫と言えば、もうわかるだろう?」  永心は俺から手を離した。そして、侮蔑するような笑いを漏らしながら「あの人か……全く、どこまで腐ってるんだ!」と吐き捨てた。そして、ふらりとバランスを崩すと、そのまま床へ頽れた。 「咲人」  晴翔さんが永心へ歩み寄ろうとしたが、それより先に野本が永心を抱き抱えた。俺へ怒りをぶつけたことで消耗したのだろう。野本に支えられながら、なんとか席へと戻っていった。 「白崎の菫は一人しかいない。sEをばら撒いている犯人は、白崎明菫だ。翠、お前は気づいているよな? 相手が相手だけに俺たちには言わなかったんだろう? でも、もうこうなったら急いで尻尾を掴まないといけない。これまでに何人巻き込まれたかわからないんだ。それに、このままだと永心家にも影響が出るぞ。それは誰も望んで無いだろう?」  俺は翠の方を見て、全体を見渡した。ここで働くためには、たくさんの選別を乗り越えなければならない。その段階で必然的に、思想が短絡的な人物は振り落とされていく。そうすると、冷静で思慮深い人物ばかりになる。  振り落とされた人物も、ここで働きたければバース研究センターに付属する育成機関へ回されるだけだから安心だ。そこでは個別指導をするため、余計な負担をかけることはない。ゆっくり確実に育てる、だからVDS所属の能力者たちは問題を起こすことが少ない。  それは誰もが求める理想だ。明菫はそれを就職難で追い詰められたミュートたちにでっち上げていた。未来への希望を嘯いて利用している。  おそらく、翠はそれが一番許せないだろう。そして、それは蒼が最も嫌うものでもある。蒼の暴走を止めるためにも、そのことを明らかにしたくなかったはずだ。 「お前が俺たちを思って黙ってくれている事にも気がついている。蒼にはその理由も話してるだろう? それくらいなら、俺にもわかるぞ。だから蒼からは言えないはずだ。だが、俺は言える。翠、この件を全て一人で背負うな。得意分野はそれぞれ違う。協力して追い込むぞ。そのためには……」 「ねえ、ごめん。この件さ、急がないと、紫さん死んじゃうかもしれないよ」 「え?」  おそらく俺は、ちょっといいところを見せられるタイミングだったはずだ。そこへミチの突然のツッコミは、それより先の話を全て変えていく爆弾となっていった。 「なんで明菫が死んでしまうんだ?」  それの問いかけに、ミチは「好きになってしまったからよ」と答えた。 「誰が誰をだよ」 「紫さんが、環さんを。一度、偶然見たことがあるの。ケアしてるところ。その顔を見たら、誰にでもわかるよ」  ミチはそう言って、悲しそうに目を伏せた。そして、ポツリとつぶやいたのだ。 「やっと見つけた頃には遅かったなんて。紫さんだって可哀想」  そして、そこへもう一つの爆弾が落ちてきた。  晴翔さんのスマホに着信があった。晴翔さんのスマホは、基本的に緊急時しか鳴らないようになっている。  そのため、着信音が鳴り響いたらその場を辞するのは、晴翔さんの癖になっている。立ち上がった晴翔さんは、ディスプレイを見て相手を確認した。  そして、通話ボタンを押しながら「はい、永心です」と外へ出ようとして、立ち止まった。そして、そのまま動かなくなってしまった。 「晴翔さん?」  入り口を見渡せる場所に立っていた俺が、晴翔さんの異変に気がついて声をかけた。晴翔さんはスマホを耳に当てたままブルブルと震え始めた。明らかに様子がおかしい。 「晴翔兄さん?」  永心が晴翔さんのそばへと駆け寄り、顔を覗き込んだ。そして、そのディスプレイをタッチしてスピーカーにする。 『もしもし』  晴翔さんへ電話をかけてきた人物。  それは、この春に生きていると知ったばかりの人。  誰もがはっきりとは言い出せずにいる状態で、はっきりと言い切れる人がいた。それは、世界最高レベルのセンチネルだった。翠の耳に残っている声と照合したのだろう。 「……多英さん!」  それは、野明未散として生きていた、永心多英さんだった。

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