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第16話 一番大切なもの
「あっ! やああっつ、イクイクも……っつ!」
「くっ……うわ、やばいなコレ」
俺に必死になってしがみ付き、果てたまま気を失ったアイちゃんこと中瀬倫明 。
そのナカの奥の奥に俺がイプシロンを留置するという役割は、今無事に果たされた。
生まれて初めてのケアを、生まれて初めて男を抱くという難度の高い経験で終えた俺は、久しぶりに慌てたことでやや放心状態にあった。
今の俺は、仕事をする上でもはや経験がない事の方が少なくなってきている年齢で、これほど未知のことに対峙したのは、本当に久しぶりだった。
新人の頃のように「男性の抱き方」を必死になって覚えていた時間は、失敗できないという切迫した状況への恐怖で、思わず手が震えてしまうほどだった。
しかも、俺には実践の経験が無いわけだから、途中まで翠と蒼がついてするしか無く、長年の友人にセックス中の自分を見られるというどうにも耐え難い状況下にあった。
ましてや教えを乞うことになろうとは……。可能なら、今からでもその記憶を消したいくらいだ。
中瀬の体内でイプシロンがきちんと作用しているのを確認できれば、ミッションは完了だ。血液検査をするためには採血をして検体を検査部に持ち込んで……と時間がかかる。
それよりも早く知る手段があるなら、そちらを採るのは得策だろう。俺は迷わず翠を呼んだ。
「翠、悪いが中瀬の体を透視してくれないか?」
俺はリカバリールームの内線を使い、社長室で仕事中の翠に連絡を入れた。翠は一言「了解」と言うと、すぐに通話を終了した。そのまますぐにドアがノックされ、「はい。どうぞ」と答えるとガーッと勢いよくスライドドアが開け放たれた。
「ケアデビューおめでとうございますー! どうだった?」
満面の笑みで幸せそうに飛び込んできた翠と蒼は、ぐっすりと眠っている中瀬を確認すると、ホッと安堵の表情を見せた。
「間に合ってよかったね、アイちゃん」
蒼と翠は、中瀬が目覚めた時に慌てないようにするため、まだコウとマイの姿のままだ。
深夜であるにも関わらず、ケアが終わるまでは心配だからと起きて待っていてくれていた。
愛おしそうに中瀬の髪を手で梳く翠を見ていると、嫉妬しやすい蒼のことがどうしても気になる。俺が蒼に目を向けると、ばっちりと目が合ってしまった。
どうやら俺の心配は的中しているようで、蒼から俺へと不満そうな視線が送られて来た。
「翠、あまりアイちゃんを愛おしそうにしてると、後ろのドレッドが拗ねるぞ」
「え? あ、ごめん。……なんだよ、妬いてくれてんのか? ありがとっ」
翠は後ろを振り返り、蒼の首にしがみついた。そして、そのまま自分の方へ引き寄せると、タトゥーとドレッドのせいで人相の変わってしまっている男に啄むような口付けをして、満足そうに懐に飛び込んだ。
蒼は翠のその無邪気な想いを受け止めて、ふわりと頬を緩める。片方の腕で頭を包み込み、もう片方の手では肩をギュッと抱いた。
「でもさ、これはあれだから……なんつーの? なんか、近所の子供みたいでほっとけ無いんだよ、この子。お前もそう思うだろ? 異様なまでに純粋無垢な感じで。鈴本もそうだったよな」
「うん。確かにそうだった。多分そこを利用されてたんだろうね」
蒼は私利私欲で人を操る人間が特に嫌いで、そういう人間に出会うと途端に凶暴性が増す。今もここにその男が居ないのが幸いだと思えるほどに、凶悪な表情をしていた。
そうなったら普段の優男の姿でも恐ろしいほどであるのに、今はタトゥーとドレッドとスレた目つきのメイクがしてある。何も知らない人間が見たら、一目散に逃げ出してしまいそうな恐ろしさだった。
「ん……あれ、ここどこ?」
そうこうしているうちに、中瀬が目を覚ました。眠ったのは小一時間ほどであるにも関わらず、血色も良く表情も明るかった。十分にイプシロンが効いて、解毒出来たのがわかる。俺は晴翔さんに連絡を入れる事にして、席を外した。
「翠、俺は晴翔さんに連絡を入れて来るから。それと、大学の潜入の件をどうするか……」
「ねえ、環さん死んじゃったの?」
目が覚めたばかりにも関わらず、中瀬はあまり慌てたそぶりを見せなかった。
ブンジャガでアウトを止めるために抜いてやった時は本当に暴れて大変で、一度イって眠り込んだタイミングでVDSへ連れてきた。あの時もこれくらい落ち着いてくれていたら良かったんだがな……と思いながら、中瀬に蹴られて出来た二の腕のアザを摩った。
「アイちゃん……今の状況わかってる? アイちゃんはイベント前にラムネを食べていたつもりで、sEを間違って食べてしまった。それでオーバードーズして倒れていたら、いつの間にかベッドの下に移動していた。気がついたら、鈴本は血を吐いて死んでいた。……合ってるかな?」
翠が中瀬に尋ねると、「うん、合ってるよ」とポツリと呟いた。俺はそうなのか、それは災難だったなと納得しかけていたのだが、翠は「違うよね?」と返す。中瀬は俯いたまま「合ってるよ? なんで違うと思うの?」と返しているが、わずかに声が震えていた。
「アイちゃん、俺はブンジャガに潜入捜査に入っていたセンチネルなんだ。君がここにいると言うことは、事件の重要参考人として警察に保護されているのと同義なんだよ。ここは警察からの依頼を受けて動く捜査機関でもあるから。だから、正直に言ってくれる? 俺に嘘をついても、全てバレてしまうよ。嘘をつくと起きる体の反応が、俺には全て目に見えるんだ」
「えっ……? センチネルなの? だって、店に入る時にはいつもイプシロン飲まされてたよね? イプシロンを飲んだセンチネルは、能力のバランスが崩れて苦しむはずでしょう? なんで平気なの? いや、それより、なんで騙したの? マイちゃんと仲良くなれると思ったのに!」
中瀬はどうやら、一度怒りを覚えると、無意識にだんだんとその怒りをヒートアップさせてしまう、厄介な性質の持ち主らしい。翠が自分を騙していたことが許せず、拳を握りしめて震えていた。翠はそれをじっと見つめながら、「大丈夫だよ」と声をかけた。
その言葉がよほど以外だったのか、中瀬は顔を上げて翠を見つめた。じっと見つめたまま何も言わず、目を丸くして硬直してしまっていた。
俺はその隙を見て中瀬の隣に座ると、抱きしめながら手を握った。
「んっ」
優しく唇を触れ合わせながら、「落ち着け」「大丈夫」「翠はお前を馬鹿にしたりしない」と声をかける。啄むたびにそれを繰り返した。中瀬の体内には、まだイプシロンが効いている。それを挿れたのは俺だ。だから、今は俺の言葉が一番届きやすい。
——興奮して話にならなくなったら、なんでもいいので愛撫してあげてください。落ち着きますから。
晴翔さんからそう言われていた。その言葉の通りに、中瀬はだんだん呼吸を落ち着かせていき、体の力も徐々に抜けていった。
「落ち着いたか?」
俺がそう尋ねると、コクリと小さく頷いた。そしてポロリと涙の粒を落とした。
「ごめんね。マイちゃん……センチネルがイプシロンを飲んでまで潜入捜査しないといけないほどのことがあったんだよね。あの店の中で、あってたんだよね。なんとなく気がついてたのに……あんな言い方してごめんね」
ヒクヒクと痙攣しながら謝る中瀬に、翠は「大丈夫だよ。俺強いんだから」と言いながら頭を撫でてあげていた。中瀬は翠のその優しさに耐えきれなくなったのか、わあっと大声で泣き始めると、切れ切れに想いを吐露し始めた。
「イベント前にっ……環さんが、出かけてて、戻って来たら、ボロボロになってて……紫さんに助けてあげてって電話でお願いしたの。そし、そしたらっ、まだ行けないからイプシロン飲ませておけって言われて……でも全然効かなくてっ……」
中瀬はガタガタと震え始めた。現場の血液量は、かなりのものだった。アレを見ていたのなら、思い出すのもかなりの恐怖だろう。
申し訳なく思うのだが、その証言はどうしても必要になる。背中を摩ってあげながらも、「続けて」と先を促す他にない。
「環さんが、たまきさっ……がっ、わ、わーって言いながらいっぱい飲んじゃった……そしたら、しばらくしてバーって血を吐いて……そのあと今度は噴水みたいに血を噴き出して……」
頭を抱えて震える中瀬を、ぎゅっと抱きしめた。中瀬はそれでも震え続けている。逃げられない罪悪感が押し寄せているようだった。
「ごめんなさいっ! だって、わ、私っ……生まれてくる性別間違えてるし、頭悪いし、笑顔と明るさしか取り柄がないって言われて……し、仕事無くしたくなかったんだ……ブンジャガをクビになったら生活できない! ダメなんじゃないかなって思ったけど、ミュートが少しでも能力を持てるようになる薬なら広めてもいいんじゃないかなって……」
「楽になれる……? いいんじゃないかな……?本気でそう思ったのか?」
俺は中瀬の言葉を信じたくなかった。薬をばら撒くのがいい事だと思ったと言っているのだ。これはミュートだからどうだと言う問題なのだろうか。もう少しきちんと考えていれば、道は違ったんじゃないか。そう思うと、軽い怒りが湧いて来ていた。
俺はきっとひどい顔をしているのだろう。翠が俺の方へと視線を送ってきた。そして、被りを振っている。
——落ち着け。翠に従え。
どれほど努力してもミュートであったがために救えなかった命を思うと、簡単に問題を解決しようとしてたくさんの命を粗末にした事に怒りで胸が張り裂けそうになっていた。
それでも、同じ志で生きてきた仲間が黙って聞けと言っている。だから、必死に抑えている。
中瀬の話を、聞かねばならない。
「みんな悩んでたから。自分には何も無いって。生きてる価値がないって! いつかあの勝手なミュートの人みたいに、能力者を妬んで殺しちゃうんじゃないかって……」
その言葉を聞いて口を開いたのは蒼だった。その声は、怒りに震えていた。
「真野涼輔のことを言ってるのか!? 君はあの男とは全くの他人じゃないか! どうして一括りに考えるんだ!」
中瀬は半年前に、ガイドの奥さんの元カレのセンチネルに嫉妬して殺害してしまった男の名前を出していた。蒼はその家庭に家庭教師として出入りしてたため、その問題にとても敏感に反応する。
真相を知らないままに、上っ面だけ書き連ねられたネットのニュースに踊らされている中瀬が許せなかったようだ。
「だって、似てるから! センチに恋しても気後れして疲れちゃう。ガイドに恋しても同じ。ミュート同士で仲良くしても、結婚できない。仕事はどんなに努力しても能力者には劣るの。何やっても八方塞がりなんだよ! 能力者の人にはわからないよ!」
その言葉を聞いて、俺はぷつんと切れてしまった。思い切りテーブルを殴りつけると、立ち上がって中瀬を怒鳴りつけてしまう。
「ふざけんな! そんなの能力者も一緒だ! センチネルはセンチネルの間で劣等感を抱いている者だっている! ガイドもそうだ!」
俺の剣幕に驚いた中瀬は、ポカンとして固まっていた。三十年近く生きてきて、これほど腹が立ったのは母と玲香が亡くなった理由がsEの影響らしいと知った時以来だ。簡単に結果を求めようとするその考えが酷く気に入らず、腹の底から煮えたぎるような怒りが沸々と湧き上がって来た。
「ミュートの中でも一定数は、いつもそうやって被害者振りたがる。能力者の誰かがミュートを批判したとしても、そんな括りでバカにして来るやつの方をバカにしろ! どうせそんなやつは現場で早々に失敗するんだ。俺はミュートだ。だからなんだ。自分にやれることを探してそれを必死にやり遂げることで生きている。できない事を数えるのは簡単なんだよ! 薬で手に入れた能力なんてまやかしだ。すぐに無くなるんだぞ。その度に飲むのか? その影響で鈴本は血管がボロボロになって死んだんだ! それでも広めたいのか!?」
「じゃあどうすれば良かったの!? この店に残りたければばら撒くのを手伝えって言われた。クビになったら生活できない。次の仕事が決まる保証だってない! そうなったら死ぬしかないじゃない。だから、死んだと思って生きてきたの。どうせ幸せになんかなれないんだから!」
確かにそうだろう。クビになってまで正義を通すことが、結果的に自分を苦しめると言うことはよくあることだ。しかも、その時は誰も自分を助けてくれない。見えない誰かの人生を守ったことで、自分は淘汰される。それなら、汚れても生きていくという選択をするのは、わからなくもない。
——お前、ラッキーだったな。
そう思いつつ、翠と蒼を見た。二人は笑っていた。俺が今から言う事を、許してくれるのだろう。うんうんと頷く蒼を見ていると、なぜだか涙が溢れてきた。
「中瀬、お前うちで働け。そして、悩んでいるミュートの子達を導いてやれ。ここにいればそれが出来る。薬に頼るんじゃなくて、自分にしっかり力をつけていくんだ」
「私が、ここで働くの? 何も出来ないよ?」
俺は中瀬の隣に座り直した。抱き寄せて、その手にギュッと力を込める。
「それは指導次第だ。お前は接客はちゃんとしていたんだろう? それなら、出来ることはちゃんとある。任せておけ」
中瀬は黙って俺の胸に顔を埋めた。そして、消え入りそうなほど小さな声で「うん」と答えた。俺の背中に手を回してジャケットを握りしめると、グスグスと鼻を鳴らして泣きながら「よろじぐおねがいじまずうううう」と言ってまた泣き始めた。
◇◇◇
「ふいーただいまあ」
潜入捜査予定だったブンジャガのイベントは中止。現場は警察が捜査するため、俺たちの仕事は一旦中止となった。久しぶりに戻って来た俺たちは、急いで変装を解く必要がある。俺はメイクを落として着替えればすぐに終わるが、蒼は髪を元に戻さねばならない。外に出てそれをすると、コウがここに出入りしていたのがバレてしまうため、自宅の「秘密の部屋」にメイクさんを呼んだ。
「じゃあ、元の姿に戻って来るから、翠はゆっくりしててね」
そう言われたのが三時間前だった。ボディペイントも落とすため、どうしても時間がかかる。俺は湯船に浸かってリラックスした後にベッドに横になって蒼を待っていた。
いつもなら、絶対に待っていられる時間だった。ただ、潜入捜査はやはり疲れる。体が温まった後だと言うこともあり、俺は眠り込んでしまった。
「……ぃ、すい、翠。寝ちゃった?」
「ん……おかえり。ごめん、寝てた。顔みせて」
「ん」
俺は完全に寝落ちしていたので、感覚遮断が完全解除された状態にある。はっきり目を開けることは出来ないが、照明を全部落とした真っ暗な夜中なので、薄目を開けてその顔を見た。
カーテンの向こう側の月明かりのみが照らす蒼は、いつもの優男に戻っていた。こんなに本格的に準備をして潜入したのは久しぶりだったからか、戻ってきた愛しい顔を見ると、どうにも欲が抑えられなくなっていった。
「蒼、キスして」
「もちろん」と言いながら優しいキスが降ってきた。俺が好きな、質感の感じられるキス。何度も何度も繰り返して、心がとろりと溶けるほどに愛してもらう。
「んっ、うン、はぁ」
口から喜びの息を吐くと、自分に戻れた喜びを噛み締めた。自分のままでそうに触れられることを、ありがたく噛み締めた。
「大変だったな」
「うん」
流石に今日は軽度なケアだけで眠ろうということになり、手を繋いで並んで横になった。俺は蒼の体に顔を埋めて、その匂いをすうっと吸い込んだ。胸いっぱいに幸せが広がる。
「はあー、幸せ」
蒼は俺の頭を抱き抱えると、大切そうに撫でてくれた。
「翠。ブンジャガで田崎がアイちゃんを抱きしめてた時にさ……犯人わかったでしょ?」
「……うん。よく気がついたな」
隠していたのにバレてしまった。俺は驚いて顔を離しつつ蒼を見上げた。「パートナーだからね」と蒼は笑った。そして、やや寂しそうに「言えないんでしょ?」と呟くと唇をギュッと噛み締めた。
その仕草が、「悲しい」と言っていた。
「言えないな。言わなくてもお前には伝わるだろうけど、まだ知らないでくれ。相手は大物だ。捕まえると、クラヴィーアの研究ができなくなる可能性があるんだよ。それは避けたい。だから……」
その先は言わせてもらえなかった。言葉は蒼の口に吸い取られ、いつの間にか俺は蒼に組み敷かれていた。
「前言撤回。聞かないでいる代わりに、いっぱい抱かせて。ケアじゃなくて、セックスね」
拗ねたように俺を見つめる蒼がとても愛おしかった。蒼は俺に触れてしまえば、思考が読み取れる。読まない方が大変なはずだ。それでも「知らないで」と頼めば、そうしてくれる。
「もちろん、何度でもどうぞ」
能力に甘えず、努力してペアで居続けている。それは誰でもそうなのだ。そのことが、アイちゃんにも伝わればいいなと思っていた。
「俺の気持ちを大事にしてくれてありがとう」
気持ち、それが一番だと、あの子にも伝えたい。心からそう思った。
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