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第19話 イプシロンの始祖

「翠くん、君何か意味のわからない反省をしているだろう?」  菊神さんが俺の顔を覗き込みながら「それ、違うからな」と言ってきた。 「どういうことですか? 俺何か顔に出てました?」と聞くと、「出てるよ。なんか俺ももっと親身にならないと……みたいに思ってるだろ? 私は当事者だからな。多英のパートナーなんだ。関係無い君がリスクを背負ってまで協力する覚悟を持つ必要は無いんだよ。ちょっとそういうところがあるだろう? 君には。その辺は間違えてはいけないよ」と言われた。 「お、思ってました。気をつけます。しかし、菊神さん本当にミュートなんですか?……たまにめちゃくちゃ怖いですよね。ガイドだったかなって思ってしいますよ」 「まあ、私は普通のミュートでは無いな。ある意味、ガイドとは真逆の能力者と言えるよ。なんせ、イプシロンは私の遺伝子から生まれてる。私は能力を無効にする恐ろしい女なんだよ」  その場にいた全員がざわついた。イプシロンが一人の人間から生まれたものだったとは……そんなことは誰も考えた事が無かった。  晴翔さんも驚いているところを見ると、元が誰かの遺伝子であることはわかっていたけれど、それが誰のものであるのかは知らされていなかったのかもしれない。 「私がその事に気がついたのは、割と小さな頃だったんだ。未散とは小学校から同じ学校で、あの子にケアが必要になる前に私が手を繋いであげたりハグをしたりして抑えていた。中学生の頃、どうにもならない日があって、一度だけキスをしたことがある。私のキスは恐ろしいぞ。未散もしばらく何も感じなくなってしまったらしくて、それはそれで焦っていたな」  あははと乾いた笑いをこぼした菊神さんを、多英さんはやや痛みを堪えるような目で見ていた。 「それ以降は私を怖がってハグまでしかさせてくれなくなってね。先ほども言ったが、クラヴィーアと私のケアで乗り越えていたんだよ」  話しながら多英さんの手をとり、大切そうに両手で包んだ。昔の話とはいえ、愛する人の前で他の人との触れ合いの話をするのは気が引けたのだろう。テレパスなど無いはずなのに、その目が多英さんを癒していくのがわかった。二人の間にあるつながりは、夕日のような茜色に輝いている。 「どうしてもコントロールが効かないタイプのセンチネルたちを助ける術は、その当時全く無かった。コントロールがうまければ高レベルのセンチネルになれるけれど、その素質を持っていながら制御出来ずに狂っていく人は後を絶たない。それなら、いっそ薬で能力を無効にすればいいという判断はずっと昔からあるのに、いつまで経っても薬は出来上がらなかった。そこへ、私の特殊能力が目をつけられたんだ。タワーからイプシロンの創薬を依頼されてもう四十年近い。完成の日の目を見ようとする度に新手のsEにそれを阻まれてきた。そろそろこの辺りで決着をつけようと思っている。そこへ、この半年の問題がまた行く手を阻んでいるんだよ」  菊神さんはそう言うと、チラリと多英さんに視線を送った。多英さんはそれを見てコクリと頷くと、バッグの中から一枚の写真を取り出した。それを見て、最初に反応したのはミチだった。 「紫さんだ! おばさん、この人知ってるの?」  菊神さんはミチをじっと見つめると、ふっと笑みをこぼした。 「おばさんなんて呼ばれるのも久しぶりだな、多英。若い子と話すのは面白い」 「ミチ……お前ここで働きたいなら、所長と呼べ。そして、わかる範囲でいいから敬語を使え。いいな?」  呆れたように言う田崎に向かって、ミチは「はーい」と言いながら、思いっきり舌を出していた。もちろん、田崎はしっかり気がついている。それを見逃してあげている姿が、俺にはとても微笑ましかった。 「その……紫さんだが、そもそもこの男がsEに拘っている理由は、多英が照史さんに酷い仕打ちを受けていると勘違いしているからなんだ」 「それは……母さんをほったらかして池内と不倫してたと思っていたということですよね? そして、ミッションでゾーンアウトしたのにそのまま死なせてしまったと……父さんは卑劣な男だと。俺もずっとそう思っていましたから」  ジャケットの胸の辺りをギュッと握りしめながら、永心が訊く。  事実とは異なるこの認識を持ち続けたため、照史おじさんのことを強く恨んでしまっていた、その過去が今でも永心を苦しめている。  知らなかったのだから仕方がないとはいえ、もっと家族といい時間を家族と持てたかもしれないという思いが、どうしても拭えないらしい。 「そうね。そして、明菫はその照史さんの振る舞いを許せない思いが人一倍強かった。だから、私が照史さんに苦しめられたのではないということを伝えないと、この事件は無くならないと思うのよ」 「人一倍強かった? 姉弟だからですか? 姉を不幸にした義兄が許せない……それにしては少し執念深すぎませんか?」  永心がそう問うと、多英さんは黙り込んでしまった。口をギュッと結んで、俯いている。どうしてもそこから先は話すことが出来ないようで、菊神さんが多英さんの肩にポンと手を置いて一歩前へ進み出た。そして、その口から耳を疑うような言葉を吐いていった。 「明菫は、多英に恋慕の情を抱いているんだよ。家族愛ではない、性愛だな」 「なっ……実の姉にですか!? 信じられない……」  永心の叫びがミーティングルームに響き渡った。叔父が母を性愛の目で見ているなど、叫びたくもなるのだろう。俺にはそれはわからないが、野本が衝撃を受けているのを見てわかった。いや、俺以外の人にはその言葉の重みがわかるのだろう。一様に信じられないと言いたげな顔で動きを止めている。 「つまり、愛している人がぞんざいに扱われていることが気に入らないということですね。それで、薬物をばら撒く事になるのは何故でしょうか」  俺がそれを訊くと、蒼が横から話に割って入ってきた。 「もしかして……照史さんへの恨みがガイド全般に向いてしまっているという事でしょうか。何度かガイドを貶める言い方をしているのが気になったんです。そして、異様にセンチネルを見ると嬉しがる。多英さんがセンチネルだからですよね?」 「あ、そう言われると辻褄は合うな。ガイドの力を無くすためにイプシロンを使う、センチネルを増やせば一人にかかる負担が減るから、センチネルの味方をしている事になる。だからsEを使ってセンチネルを増やしている……そういう事ですか?」 「そうだな。あの男はそう考えたらしい。全く……」  菊神さんがそこまで言った時に、後ろから怒号が飛んできた。 「なんて短絡的なんだ! そんな……sEを飲むだけでセンチネルになれる!? そんなわけが無いだろう……」  テーブルに拳を叩きつけていたのは、田崎だった。田崎は自分がミュートであることで、大切な人を二人失っている。誰よりもミュートであることを呪い、そしてそれを越えようと努力してきた人間だ。だから、どうしても気が昂ったのだろう。 「そもそも、センチネルは五感が優れている人のことを指すんだ。五感は一般的には生まれながらに備わっている。その能力が発揮されるレベルを薬でブーストするなんて、体に負担がかかるに決まっている。だから偽センチネルは皆異常なミネラル不足になって気が狂うんだ。簡単に手に入れるから、簡単に代償を払わないといけなくなる。その代償の方が、高くつくのにな」  晴翔さんは、手に持ったタブレットに表示してあるリストの名前を、指でつうとなぞりながら呟いた。そこには、この半年で事故死したセンチネルの名前が載っている。その誰もがタワー所属のレベル1〜6までのセンチネルだ。偽センチネルはレベル7以上にはいけない。そこに辿り着く前に、亡くなっている。 「ナオはレベル8だった。あいつが亡くなったのは、高濃度のsEを通りすがりに注射されているのが原因だ。あの事件は、もう明菫の思惑を外れている。ばら撒いた先で愚かな若者たちがセンチネルを攻撃するようになっているんだ。高レベルのセンチネルに高濃度のsEを急激に注射すると、あっという間にゾーンアウトする。イプシロンがあったら助かったかもしれないが、それを今言ってももう仕方がないからな……」  蒼がブンジャガで聞いた噂話の一つに、その話があった。  明菫はセンチネルを増やして個人にかかる負担を減らそうとしていた。  しかし、さらに短絡的だったミュートの若者たちは、センチネルを排除する方が格差は無くなると考えるようになっていった。同じ薬品を使ってセンチネルの排除が始まっていることに、おそらく明菫は気がついていない。そのことがまた田崎を激しく刺激していた。 「とにかく、私は明菫に照史さんと未散と彩女との関係を話します。そして、明菫がやっていることは無意味だと伝えます。その上で自首を勧めます。それに応じなかったら、警察へ届けましょう」  すると、和人くんが菊神さんの前に歩み出てきた。 「あの……でも、そうなるとクラヴィーアとイプシロンの研究は打ち切りになるんじゃないですか? その二つは、皆さんが優しい心で作り上げようとしていたものなのに、それが出来なくなっていいんですか?」  そう言いながら、ポロポロと涙をこぼしていた。クラヴィーアの創薬は、今は晴翔さんが先導している。ガイドの和人くんにとって、クラヴィーアは毒にも薬にもならない。それでも、創薬をしている晴翔さんのことを思えばこそ、打ち切りになることは避けたいのだろう。  父になるはずだった兄へ、親想いの心があるのは明らかだった。 「和人……俺のために泣いてくれてるんだな? ありがとう……」 「だって、父さんが……は、晴翔兄さんが……」 「父さんでいいじゃない。人前だけ兄さんって呼べばいいじゃない。晴翔さんの親としての愛を受ければいいのよ。誰も止めないでしょう? 変なこだわり捨てなさいよ」  呆れたような顔をして、ミチが言う。「そう言うところでしょう? 永心周りの人たちのいけないところ。変な思いやり持つから拗れるのよ。もっと素直に生きなさいよ。誰かと繋がれる人生って、あんたたちが思ってるよりもずっと価値が高いのよ?」 「素直に……?」 「そうよ。晴翔さんと翼さんを親として見ているなら、父さん母さんって呼びなさい。多英さんは彩女さんを妻ですって紹介すればいい。照史さんと未散さんは夫婦だったって言えばいい。それを知ったら紫さんは死にたくなるかもしれないけれど、そこはみんなで支えていけばいいんじゃないの? ちゃんと失恋させて、前に進ませないから、せっかく環さんのことを好きになったのに言い訳しちゃって、挙句に死なせたのよ? あの人だって、かわいそうだよ」  ミチはそう言って泣き始めた。    おそらく、俺たちだけじゃその視点になることは無かった。確かにそうだ。知らされなかったことで、拗らせていった明菫の恋心を、止められたのは多英さんたちだっただろう。そう言われるとあの男もまた、被害者と言えなくもない。 「だからと言って、あいつがしたことは許されない。罪は償わないといけない。……多英さん、説得していただけますね?」  田崎はミチの背中をポンと叩いた。ミチはそれを受けると、コクンと頷いた。  多英おばさんはキュッと唇を結ぶと、「わかりました」と言って立ち上がった。 「私がきちんと話します。あなた方は、今すでに広がっているsEを回収してください。数量だけは、きっちりわかっているの。あの子はその辺りだけは細かいから」 「よろしくお願いします」と言って、深々と頭を下げた。

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