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第五章②
喉が渇いたのでなければ空腹なのか、ぬいぐるみじゃなく別のおもちゃで遊びたいのか、絵本がいいのか、それともテレビか、とあの手この手を尽くした結果。判明した事実は実に呆気ない。真純はおむつを替えてほしくて泣いているのだった。
おむつ替えなんてしたことのない薫は、パッケージの説明書きを頼りにおむつを替えた。すると、真純はすぐに泣き止んで、使用済みのおむつをゴミ箱に捨てるお手伝いまでしてくれた。斯くして、ようやく薫の任務は終了したのである。
薫が安堵の息を漏らしていると、玄関が開いた。「ぱぱ!」と真純が弾丸のように駆け出す。
「ぱぱっ、ぱぱぁ、ただいま!」
「お~、真純ィ。起きてたか」
肇は呑気に真純を撫でる。
「ほら、お土産だ」
「わぁぁ、ありやと~」
肇が真純に渡したのは、統一感のない駄菓子の詰め合わせだった。
「ボンも来てたか。ま、来るっつってたもんな」
肇は悪びれずにへらへらと笑う。
「てめぇも食っていいぞ。つまんねぇ菓子だけどな」
静かな怒りが沸々と込み上げた。薫は拳を握りしめた。
「……いらない」
自分でも驚くほど低い声が出た。地の底から這い上がるような、こんな声が自分にも出せたのか。
「真純置いてパチンコなんか行ってんじゃねぇよ! 信っじらんねぇ! それでも父親か!?」
肇は冷めた目で薫を見つめる。薫の怒鳴り声はまるで虚空に消えていくようだった。
「……だったら何だ」
「だ、だったらって何だよ」
「俺が父親失格なら、てめぇがその代わりをやりゃあいいだろ」
「はっ……?」
「真純が寝起きで愚図ったんだろ。それをてめぇは完璧に泣き止ませた。おむつ替えも完璧だ。よく見りゃ部屋も片付いてんな。家事育児ができる男。金もある。これ以上にねぇだろうが」
「な、にを……」
「だから、俺みてぇな親父は要らねぇだろって。てめぇがパパになってこいつ育てろよ」
「っ……」
あまりにも平然と、当たり前のように肇が言うものだから、薫はどうしたらいいのか分からなくなった。衝撃で意識が遠のきそうだ。
「……本気……?」
「んなこと確認する意味あるか? どっからどう見ても、俺ァまともな父親じゃねぇだろ」
「そっ……」
そんなことない、とは言い切れないのが歯痒い。自宅に不特定多数の男を招き入れて体を売って稼ぐなんて、一般的に考えれば決して褒められた生き方ではないのだ。
けれど、それでも、肇は真純に愛情を注いで育てていた。これだけは確かだ。薫はずっとそばで見ていたのだから。肇が真純を何よりも大切にしていることなんて、誰の目にも明らかであるはずなのに。
「元々、父親なんかになっていい人間じゃなかったんだ、俺は。俺みてぇのが父親じゃ、こいつも将来苦労すんだろ。つーか、俺みてぇのに育てられてまともに育つとも思えねぇし」
「……なんで……」
「そりゃそうだろ。こいつだって、母ちゃん殺した俺を恨んでるわけだしな」
「は……?」
肇の元奥さん、つまり真純を産んだ母親は、突然の交通事故でこの世を去ったはずだ。肇が殺したなんて、状況的にもまずありえない。
「それにな、お前が来るようになって、こいつはよく笑うようになったんだ。体重も増えて背が伸びて、急にたくさん話せるようになった。俺じゃ駄目だったんだ。お前の方が親に向いてんだよ」
「そ、そういう問題じゃないでしょ。だってほら、現に真純はパパ大好きなわけだし……」
不穏な気配を感じ取ったのか、真純は肇の足下に纏わり付く。
「こんなもん、ただの生存本能だろ。衣食住を俺に握られてっから、生き延びるために媚び売ってんだよ」
「そんなわけ」
「真純ィ、俺じゃなくて薫お兄ちゃんに抱っこしてもらえ。案外力持ちだぞ」
肇は真純を抱き上げて、薫に押し付けた。薫は真純を受け止めるが、やはり見た目以上にずっしりと重い。これを肇は軽々と、時には片手で抱っこするのだから、力持ちは肇の方だ。
「ぱぱ……」
真純は指をしゃぶり、不安げに肇を見る。
「ほら、やっぱりパパがいいって。僕の腕じゃ安定しないんだよ」
「ぱぱぁ……」
「……んな目で俺を見んなよ」
肇は忌々しげに舌打ちをし、背を向けた。
「とにかく、俺はもう降りる。ガキなんざもうまっぴらだ。うるせぇしきたねぇしすぐ泣くし言葉通じねぇし、抱っこしなきゃ泣くし抱っこしても泣くし、寝たと思ったら泣くし夜中もずうっと泣いてっし……」
おそらく、真純が今よりもっと小さかった頃の話だ。真純を残して嫁さんが死に、肇はずっと一人きりで必死に真純を育ててきたのだ。粉ミルクで授乳して、夜泣きに悩まされ、母親がいないことで困ることも多かっただろう。その苦労を、薫はただ推し量ることしかできない。
「今はだいぶ落ち着いてるけどな、あいつが死んだ直後はマジでやばかったんだ。俺ァこいつに殺されると思ったね。けどまぁ、それも仕方のねぇことだよな。俺がこいつから母ちゃんを奪っちまったんだ。一生かかっても、こいつは絶対に俺を許しゃしねぇだろうさ」
「……そんなこと、あるわけないじゃん」
「てめぇに何が分かんだよ。こいつが俺を好きだなんて、万に一つもあるはずがねぇだろ」
「……」
薫は唇を噛みしめた。涙が零れそうになった。真純はつぶらな瞳をくりくりさせて、心配そうに薫を覗き込む。肇とそっくりな黒い瞳。
誰がどう見たって、真純はパパが大好きなのに。打算や生存本能ではなく、肇を父親として認めているからこそ、この世の何よりも信頼しているというのに。肇に抱っこされてすぐに機嫌を直すのは、そこが世界一安全だと経験上知っているからだ。どうしてそんな大事なことが、肝心の肇に伝わらないのだろう。
薫は深呼吸し涙を堪えた。ここで泣いたら、それこそただのガキだ。話も聞いてもらえなくなる。
「……肇がどう思ってたって、真純にとってはたった一人の大切なお父さんなんだよ。捨てるなんて絶対ダメだ」
「捨てるとは言ってねぇ。てめぇにやるっつってんだ」
「真純にとっては同じことだ。肇は随分と自分を低く見積もってるみたいだけど、僕に言わせれば十分よくやってるよ。それは真純もよく分かってる」
「……どうだかな」
「それに、大事な人との間にできた子供でしょ。投げ出したら奥さんも悲しむ」
突然、壁に穴が空いた。肇の逞しい握り拳が深々とめり込んでいる。粉々になった壁紙がパラパラと舞い散った。
「知った風な口利くんじゃねぇ」
成長途上の薫とは違う、完成された男の低く重たい声。真純は怯えて薫にしがみつく。薫も足が竦みそうになったが、肇が感情を爆発させてくれたことを嬉しくも思っていた。いつもどこか気怠げで、全てを他人事のように受け流して、何もかもを諦めたような目をしているから。
薫は真純を抱きしめて、一歩前へと踏み出した。
「そりゃあ知らないよ。だって、何にも話してくれないじゃん。だけど、奥さんはきっと、真純の幸せを願って――」
「だからだよ」
肇は遮るように声を荒げた。
「だから、もう無理なんだ。こいつは俺と一緒にいない方がいい」
「なんで――」
「分かるんだよ。こいつは俺といても幸せにならない。いつかあいつそっくりに成長して、いつかあいつと同じように……」
肇は唇を噛みしめ、乱暴に押し入れを開けた。薫は目を見張る。仕舞われていたのは白い箱。銀の刺繍が施され、華鬘結びの飾り房が付いている。
「遺骨……」
「きめェだろ。こんなモンをいつまでも大事に取っておくような男なんだ、俺は。こんなモン残しておいたって、あいつが戻るわけじゃねぇのに」
「……」
「いっそ捨てちまうか」
「っ……!?」
薫が止めに入る暇もない。肇は骨箱を勢いよく持ち上げて、頭上高く振りかぶった。
けれど、そのまま。投げ捨てることなんてできやしない。肇は震える膝を折り、無様に項垂れた。壷の中で、骨の崩れる音がした。
「……」
「……真純連れて、とっとと消えてくれ」
「……嫌だ」
「……じゃあ俺が出ていく」
肇はおもむろに立ち上がった。薫に抱っこされた真純がおずおずと手を伸ばすが、肇は目もくれずに通り過ぎた。扉の閉まる音だけが冷たく響いた。
「……ぱぱぁ……」
真純の声が潤む。薫は自分を奮い立たせた。
「パパはちょっとだけお出かけだって! すぐに帰ってくるよ。それまで二人でお留守番してようね」
「うん……」
「何して遊ぼっか。まずはお片付けかな」
「ねんね」
「お昼寝したいの? さっきまで寝てたのに」
「ううん。あれ、ねんねする」
真純は、畳の上へ置きっぱなしにされた骨箱を指していた。薫が抱っこから下ろすと、真純はとてとてと近寄って、骨箱を撫でた。
「これねー、まま」
「……うん……」
母の死を分かっているのかいないのか、純真な笑顔を見せる真純に、薫は胸が苦しくなった。
「ぱぱと、ままと、ますみ。ねんねするの」
「……三人で一緒に寝るの?」
「うん。ぱぱねー、ままがすきなの」
「っ……そうだね」
胸が締め付けられる。真純の健気さに。肇の一途さに。
本当は最初から分かっていた。肇の心には、亡き妻への愛が今なお強く残っている。薫の入れる余地など、もうどこにも残っていない。肇の愛に、薫は到底敵わない。
「てめー、いたいいたい?」
「えっ……?」
「いたいいたい? だいじょーぶ?」
「あ……」
いつの間にか涙が零れていた。滲む視界に、真純の不安そうな顔が揺れる。真純が優しい子に育ったのも肇のおかげだろうに、どうして本人はそれを認められないのだろう。
「大丈夫だよ。元気元気! パパがくれたお菓子食べよっか」
難しいことは考えまい。肇が帰るまで、真純をしっかり見ておかなくては。それが今の薫の使命だ。
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