11 / 38

第五章②

 喉が渇いたのでなければ空腹なのか、ぬいぐるみじゃなく別のおもちゃで遊びたいのか、絵本がいいのか、それともテレビか、とあの手この手を尽くした結果。判明した事実は実に呆気ない。真純はおむつを替えてほしくて泣いているのだった。  おむつ替えなんてしたことのない薫は、パッケージの説明書きを頼りにおむつを替えた。すると、真純はすぐに泣き止んで、使用済みのおむつをゴミ箱に捨てるお手伝いまでしてくれた。斯くして、ようやく薫の任務は終了したのである。    薫が安堵の息を漏らしていると、玄関が開いた。「ぱぱ!」と真純が弾丸のように駆け出す。   「ぱぱっ、ぱぱぁ、ただいま!」 「お~、真純ィ。起きてたか」    肇は呑気に真純を撫でる。   「ほら、お土産だ」 「わぁぁ、ありやと~」    肇が真純に渡したのは、統一感のない駄菓子の詰め合わせだった。   「ボンも来てたか。ま、来るっつってたもんな」    肇は悪びれずにへらへらと笑う。   「てめぇも食っていいぞ。つまんねぇ菓子だけどな」    静かな怒りが沸々と込み上げた。薫は拳を握りしめた。   「……いらない」    自分でも驚くほど低い声が出た。地の底から這い上がるような、こんな声が自分にも出せたのか。   「真純置いてパチンコなんか行ってんじゃねぇよ! 信っじらんねぇ! それでも父親か!?」    肇は冷めた目で薫を見つめる。薫の怒鳴り声はまるで虚空に消えていくようだった。   「……だったら何だ」 「だ、だったらって何だよ」 「俺が父親失格なら、てめぇがその代わりをやりゃあいいだろ」 「はっ……?」 「真純が寝起きで愚図ったんだろ。それをてめぇは完璧に泣き止ませた。おむつ替えも完璧だ。よく見りゃ部屋も片付いてんな。家事育児ができる男。金もある。これ以上にねぇだろうが」 「な、にを……」 「だから、俺みてぇな親父は要らねぇだろって。てめぇがパパになってこいつ育てろよ」 「っ……」    あまりにも平然と、当たり前のように肇が言うものだから、薫はどうしたらいいのか分からなくなった。衝撃で意識が遠のきそうだ。   「……本気……?」 「んなこと確認する意味あるか? どっからどう見ても、俺ァまともな父親じゃねぇだろ」 「そっ……」    そんなことない、とは言い切れないのが歯痒い。自宅に不特定多数の男を招き入れて体を売って稼ぐなんて、一般的に考えれば決して褒められた生き方ではないのだ。  けれど、それでも、肇は真純に愛情を注いで育てていた。これだけは確かだ。薫はずっとそばで見ていたのだから。肇が真純を何よりも大切にしていることなんて、誰の目にも明らかであるはずなのに。   「元々、父親なんかになっていい人間じゃなかったんだ、俺は。俺みてぇのが父親じゃ、こいつも将来苦労すんだろ。つーか、俺みてぇのに育てられてまともに育つとも思えねぇし」 「……なんで……」 「そりゃそうだろ。こいつだって、母ちゃん殺した俺を恨んでるわけだしな」 「は……?」    肇の元奥さん、つまり真純を産んだ母親は、突然の交通事故でこの世を去ったはずだ。肇が殺したなんて、状況的にもまずありえない。   「それにな、お前が来るようになって、こいつはよく笑うようになったんだ。体重も増えて背が伸びて、急にたくさん話せるようになった。俺じゃ駄目だったんだ。お前の方が親に向いてんだよ」 「そ、そういう問題じゃないでしょ。だってほら、現に真純はパパ大好きなわけだし……」    不穏な気配を感じ取ったのか、真純は肇の足下に纏わり付く。   「こんなもん、ただの生存本能だろ。衣食住を俺に握られてっから、生き延びるために媚び売ってんだよ」 「そんなわけ」 「真純ィ、俺じゃなくて薫お兄ちゃんに抱っこしてもらえ。案外力持ちだぞ」    肇は真純を抱き上げて、薫に押し付けた。薫は真純を受け止めるが、やはり見た目以上にずっしりと重い。これを肇は軽々と、時には片手で抱っこするのだから、力持ちは肇の方だ。   「ぱぱ……」    真純は指をしゃぶり、不安げに肇を見る。   「ほら、やっぱりパパがいいって。僕の腕じゃ安定しないんだよ」 「ぱぱぁ……」 「……んな目で俺を見んなよ」    肇は忌々しげに舌打ちをし、背を向けた。   「とにかく、俺はもう降りる。ガキなんざもうまっぴらだ。うるせぇしきたねぇしすぐ泣くし言葉通じねぇし、抱っこしなきゃ泣くし抱っこしても泣くし、寝たと思ったら泣くし夜中もずうっと泣いてっし……」    おそらく、真純が今よりもっと小さかった頃の話だ。真純を残して嫁さんが死に、肇はずっと一人きりで必死に真純を育ててきたのだ。粉ミルクで授乳して、夜泣きに悩まされ、母親がいないことで困ることも多かっただろう。その苦労を、薫はただ推し量ることしかできない。   「今はだいぶ落ち着いてるけどな、あいつが死んだ直後はマジでやばかったんだ。俺ァこいつに殺されると思ったね。けどまぁ、それも仕方のねぇことだよな。俺がこいつから母ちゃんを奪っちまったんだ。一生かかっても、こいつは絶対に俺を許しゃしねぇだろうさ」 「……そんなこと、あるわけないじゃん」 「てめぇに何が分かんだよ。こいつが俺を好きだなんて、万に一つもあるはずがねぇだろ」 「……」    薫は唇を噛みしめた。涙が零れそうになった。真純はつぶらな瞳をくりくりさせて、心配そうに薫を覗き込む。肇とそっくりな黒い瞳。  誰がどう見たって、真純はパパが大好きなのに。打算や生存本能ではなく、肇を父親として認めているからこそ、この世の何よりも信頼しているというのに。肇に抱っこされてすぐに機嫌を直すのは、そこが世界一安全だと経験上知っているからだ。どうしてそんな大事なことが、肝心の肇に伝わらないのだろう。  薫は深呼吸し涙を堪えた。ここで泣いたら、それこそただのガキだ。話も聞いてもらえなくなる。   「……肇がどう思ってたって、真純にとってはたった一人の大切なお父さんなんだよ。捨てるなんて絶対ダメだ」 「捨てるとは言ってねぇ。てめぇにやるっつってんだ」 「真純にとっては同じことだ。肇は随分と自分を低く見積もってるみたいだけど、僕に言わせれば十分よくやってるよ。それは真純もよく分かってる」 「……どうだかな」 「それに、大事な人との間にできた子供でしょ。投げ出したら奥さんも悲しむ」    突然、壁に穴が空いた。肇の逞しい握り拳が深々とめり込んでいる。粉々になった壁紙がパラパラと舞い散った。   「知った風な口利くんじゃねぇ」    成長途上の薫とは違う、完成された男の低く重たい声。真純は怯えて薫にしがみつく。薫も足が竦みそうになったが、肇が感情を爆発させてくれたことを嬉しくも思っていた。いつもどこか気怠げで、全てを他人事のように受け流して、何もかもを諦めたような目をしているから。  薫は真純を抱きしめて、一歩前へと踏み出した。   「そりゃあ知らないよ。だって、何にも話してくれないじゃん。だけど、奥さんはきっと、真純の幸せを願って――」 「だからだよ」    肇は遮るように声を荒げた。   「だから、もう無理なんだ。こいつは俺と一緒にいない方がいい」 「なんで――」 「分かるんだよ。こいつは俺といても幸せにならない。いつかあいつそっくりに成長して、いつかあいつと同じように……」    肇は唇を噛みしめ、乱暴に押し入れを開けた。薫は目を見張る。仕舞われていたのは白い箱。銀の刺繍が施され、華鬘結びの飾り房が付いている。   「遺骨……」 「きめェだろ。こんなモンをいつまでも大事に取っておくような男なんだ、俺は。こんなモン残しておいたって、あいつが戻るわけじゃねぇのに」 「……」 「いっそ捨てちまうか」 「っ……!?」    薫が止めに入る暇もない。肇は骨箱を勢いよく持ち上げて、頭上高く振りかぶった。  けれど、そのまま。投げ捨てることなんてできやしない。肇は震える膝を折り、無様に項垂れた。壷の中で、骨の崩れる音がした。   「……」 「……真純連れて、とっとと消えてくれ」 「……嫌だ」 「……じゃあ俺が出ていく」    肇はおもむろに立ち上がった。薫に抱っこされた真純がおずおずと手を伸ばすが、肇は目もくれずに通り過ぎた。扉の閉まる音だけが冷たく響いた。   「……ぱぱぁ……」    真純の声が潤む。薫は自分を奮い立たせた。   「パパはちょっとだけお出かけだって! すぐに帰ってくるよ。それまで二人でお留守番してようね」 「うん……」 「何して遊ぼっか。まずはお片付けかな」 「ねんね」 「お昼寝したいの? さっきまで寝てたのに」 「ううん。あれ、ねんねする」    真純は、畳の上へ置きっぱなしにされた骨箱を指していた。薫が抱っこから下ろすと、真純はとてとてと近寄って、骨箱を撫でた。   「これねー、まま」 「……うん……」    母の死を分かっているのかいないのか、純真な笑顔を見せる真純に、薫は胸が苦しくなった。   「ぱぱと、ままと、ますみ。ねんねするの」 「……三人で一緒に寝るの?」 「うん。ぱぱねー、ままがすきなの」 「っ……そうだね」    胸が締め付けられる。真純の健気さに。肇の一途さに。  本当は最初から分かっていた。肇の心には、亡き妻への愛が今なお強く残っている。薫の入れる余地など、もうどこにも残っていない。肇の愛に、薫は到底敵わない。   「てめー、いたいいたい?」 「えっ……?」 「いたいいたい? だいじょーぶ?」 「あ……」    いつの間にか涙が零れていた。滲む視界に、真純の不安そうな顔が揺れる。真純が優しい子に育ったのも肇のおかげだろうに、どうして本人はそれを認められないのだろう。   「大丈夫だよ。元気元気! パパがくれたお菓子食べよっか」    難しいことは考えまい。肇が帰るまで、真純をしっかり見ておかなくては。それが今の薫の使命だ。

ともだちにシェアしよう!