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第六章③

 実家を離れたところで、身に染み付いた生き方は簡単には変えられない。男に体を売ってみたり、女にも売ってみたり、ヤクザのイロをしてみたり、その伝手で違法賭博格闘技に出場してみたり、危ない橋を渡ることも度々あった。とにかく命を持て余していた。使い道が分からなかったのだ。  父をはじめ家の人間が肇にそうしてきたように、肇も自分の躰を道具として扱うことに慣れていた。ストレスの発散、性欲の発散、支配欲を満たすための道具として使われることに慣れていた。それ以外の生き方を想像することさえできなかった。    彼女と出会うまでは。    彼女はきっと、現世に降臨した聖母だったのだろう。今でも肇はそう思う。都会を彷徨う野良犬同然の肇を、彼女だけが見つけてくれた。誰も彼もに見捨てられ、疎まれ、蔑まれ、虐げられて、自分で自分を大切にすることさえ知らなかった肇を、人間にしてくれた。人としての生き方を、人の愛し方を、一から教えてくれたのだ。  世界は残酷だが、闇に満ちているわけではない。敵は大勢いるが、味方がいないわけではない。救いはちゃんとここにあって、幸福はどこにでも転がっている。そんな簡単なことを、肇は大人になって初めて知った。   「結婚しよう」    そう言ったのは、どちらからだったろう。金もないのに背伸びして結婚指輪を買って、深夜のベランダで秘めやかな結婚式を挙げた。  彼女のお腹がどんどん大きくなる。耳を当てると、確かな生命の息吹を感じた。   「……こいつはいいな。俺も、お前に産んでほしかった」 「何言ってるの。あなたがパパになるのよ」    無事に真純が生まれ、この腕に初めて抱いた時のことは今でも鮮明に覚えている。  生まれたばかりの赤ん坊は、力加減を間違えれば簡単に壊れそうなほど小さかった。繊細な硝子細工を扱うよりも緊張しながら、肇は慎重に抱っこした。生まれたばかりの赤ん坊は、目も開いていないし髪の毛も疎らだし、肌は皺くちゃで猿みたいな見た目をしているのに、この世の何より愛おしく、尊いものに思えた。   「真純も、パパに会えて嬉しいって」    この頃が一番幸せだった。家族のために真っ当に働いて、妻と二人で息子を育てて、毎日が忙しくて、しかしこれこそが人間の営みというやつで。幸せで、幸せすぎて、一生分の幸福をこの短期間で使い果たしてしまったのだ。   「買い物行ってくるから、真純のことお願いね」    そう言って出かけた彼女と再会したのは、警察署の霊安室だった。    暗く冷たい、地下牢のような空間に、真純の泣き声だけが反響した。彼女の選んだ乳母車に寝かされて、真純は火がついたように泣き叫んだ。肇は放心状態で立ち尽くした。  幸せ、だなんて。どうして思ってしまったのだろう。幸せすぎて、忘れていた。自分が、人間以下のゴミだということ。罰が当たったのだ。人間未満のくせに、人並みの幸福を求めて、享受したから。幸せになりたいなんて、思うことさえ許されなかったのに。分を弁えず、不相応な欲を抱いてしまった。自分にそんな値打ちはなかったのに。  これは肇の罪だ。重く苦しい十字架だ。これを背負って、あと何十年、真純を育てていかなければならないなんて。

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