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第七章① 一番大切なもの

 このところ、肇は魂が抜け落ちたようにぼんやりしていることが多くなった。他の男と寝なくなった代わりに、薫ともしてくれなくなった。ただ、薫が訪ねること自体は咎めないので、薫は頻繁に会いに行って、前みたいに一緒におやつを食べたり、真純と遊んだり、肇はあまり聞いてくれないが一方的に話をしたり、そういったささやかな日常を送っていた。   「肇は、これからのこととか考えてるの?」    薫は思い切って訊いた。   「何のことだ」 「だから、その……」    肇が以前に増して無気力になってしまったのは、奥さんの墓を建てたせいではないか、と薫は責任を感じていた。  今すぐ埋葬しなくても、遺骨を家に保管するのは悪いことではない。急いで墓なんて建てて、そのことで肇の心に取り返しのつかない穴を空けてしまったのではないか。遺骨を家に置いて、添い寝をしたりして、それで肇の心が安定していたのならそれでよかったのではないか。   「んだよ。はっきり言え」 「だからその……僕、まだここにいていいの?」 「はぁ?」    肇は面倒くさそうな顔をする。   「俺が出てけっつったら出てくのか? その程度か、お前は」 「いや、ていうか……僕って、肇にとっての何なんだろうって」 「無料のベビーシッター」 「ひどくない!? そりゃ、真純はかわいいけどさ」    真純は一人でお着替えをして、出かける準備をしている。「こーえん、はやく!」と騒いでいる。   「肇は行かないの? 最近僕ばっかりだけど」 「俺はいい。さみぃ」 「僕だって寒いよ!」 「真純風邪引かせんなよ」 「てめー、はやく!」    真純は薫の足下に纏わり付いて急かす。   「じゃあ行ってくるけど」 「おう、気ィ付けてな」 「……別に、理由なんかなくてもいいんだよ」 「は? どうした急に」 「理由なんかなくても、肇が僕を好きになってくれなくても、僕はやっぱりお前が好きだし、もちろん真純も大好きだし、だからずっとここにいたいって話」    肇は訝るように首を傾げた。何を馬鹿げたことを言ってんだ、そんな甘っちょろい考えだからガキだっつーんだよ、なんて肇に言われる前に、薫は真純と手を繋いだ。   「それじゃ、いってきます」 「まーしゅ!」    バタン、とドアが閉まる。凍て付くような冬の空気が胸を貫いた。    *    橘薫は妙な子供だ。肇は思う。初めて会った時から、どこかおかしかった。    『お兄さん、こんなとこで何してるの?』『寒くないの? 大丈夫?』『僕のカイロ貸してあげようか』    本家の跡取りという特別中の特別な立場にも関わらず、肇なんかに興味を持って話しかけてきて。肇なんて、所詮は分家の三男坊。しかも妾の血を引いて、半分は下賤の血が混じっている。伯父一家のみならず、親戚一同からそういった目で見られていることは、肇も幼い頃から分かっていた。だから、伯父は肇を極力公共の場に出さなかったのだ。  あの晩は、偉大なる曾祖父の通夜とあって、さすがに出席させざるを得なかったようだが、肇はなるべく人目に付かないようにと言い付けられていたし、余計なことは一切話すなときつく教えられていた。  肇が広間を抜け出して庭にいたのは、そういった白い目に晒されることに疲れたからだ。人目に付くな、口を利くなと言われていたって、周りの大人達が勝手に肇を見ては、憐れんだり見下したり、あるいは伯父夫婦を労わったりする。それがもう耐えられなくて、逃げ出した。その先で、薫に出会ったのだ。    今思えば、肇を最初に見つけてくれたのは、あの子供だったのかもしれない。初めて、無垢な瞳に肇の姿を映してくれた。ほんの僅かな時間だったが、性欲や支配欲からは掛け離れた純粋な友愛が、そこには確かに存在したのではないか。  しかし、薫も所詮は橘家の人間だ。いつか大人になって、肇が酷く穢れた存在だという事実を知ったなら、もう二度と純粋な瞳に肇を映してはくれないだろう。今晩が最初で最後、次会う時はあの大人達のように、侮蔑と憐憫の眼差しで肇を見るのだろう。    そう、思っていたのに。    橘薫は妙な子供だ。出奔した肇をわざわざ探して押しかけてきて、好きだの何だのと宣って、一向にそばを離れようとしない。通夜の晩に間違った幻想を植え付けてしまったのだろうかと思い、肇は残酷な現実をこれでもかと叩き付けてやったが、それでもなお諦めようとしない。  やはり、薫はどこかおかしいのだ。十近くも年上の親戚の男を、何年も懸想し続けているなんて。子供がいるくせにろくに働きもしないで、適当な男を引っ掛けては股を開いて小銭を稼いでいる、そんなろくでなしの男を、それでもまだ好きと言えるなんて。    性欲や支配欲や所有欲を薫が有していないとは言わないが、それもそもそも肇が焚き付けたようなものであるし、それに、薫は決して肇を侮辱しない。手頃な穴扱いしてほしいのに、薫は決してそんな風には肇を見ない。自立した一人の人間として、肇に接するのだ。  それに、肇の唯一の宝物を、肇と同じように大切にしてくれる。普通、子供に邪魔されてお楽しみが中断すると、大抵の男は機嫌を悪くする。真純を疎んじて、実家に任せろだの施設に預けろだの、中には直接的な暴力に訴える者もいた。そんなクズは肇が先にぶん殴って、裸のままで追い出したが。  けれど、薫は真純のことを第一に考えてくれる。真純の喜びそうなものを買ってきたり、子供の好きそうな場所へ連れていったり、いい遊び相手になってくれるし、育児の手伝いまでしてくれるようになった。    もう認めるしかないのだろうか。二度と人を愛さない、幸せになりたいなんて願わないと決めていたのに、肇はもうだいぶ前から、薫をかわいいと思い始めている。  おかしいのは肇の方だ。十近くも年下の親戚の男を、肇とはまるで釣り合わない格上の男を、愛してしまいそうになっている。しかし、身の丈に合わない望みなど抱くものではないことも知っている。    突然、電話のベルが鳴った。    *    公園へ向かう途中、交通事故に巻き込まれた。薫は一時昏睡状態に陥り、意識が戻った時には集中治療室にいた。  体のあちこちを骨折していた。ギプスであちこち固定され、しばらくは寝たきりで過ごした。トイレにも行けないし、食事は介助が必要だった。骨がある程度癒合してくると、毎日リハビリに励んだ。頑張り過ぎだと医者には怒られたが、薫には急ぐ理由があった。会いたい人がいた。その人はとうとう見舞いに来なかった。  一度転院し、無事に退院してからも自宅で軟禁状態――いや、安静を保った。ようやく自由に動けるようになった頃には、季節が二つも変わっていた。    薫は、焦る気持ちを抑えきれず、最寄り駅を駆け出した。    高架下の澱んだ空気。明滅する信号機。胡散臭い辻占い。泥水を撥ねる古タイヤ。撒き散らされる排気ガス。高く鳴り響くクラクション。行き交う人波の雑踏と喧騒。踏切の赤い警報機。振り下ろされる黄色い遮断機。猛スピードの特急列車。急勾配の坂道を下から見上げる。見慣れた建物。見慣れた街路樹。坂の上から見る景色。  まだここにいるだろうか。いてくれるだろうか。薫は階段の手前で足を止めた。風雨に晒され塗装が剥げ落ちた錆だらけの外階段。甲高い足音を鳴らして上ったところで、そこに誰も住んでいなければ意味がない。インターホンを鳴らしても、迎えてくれる人がいなければ意味がない。    もし、もしも、いなくなっていたらどうしよう。玄関に鍵が掛かっていたら。部屋がもぬけの殻だったら。既に新しい住人が住んでいたら。あの人がここにいないとしたら。  そうなったら、どうしていいか分からない。もう一度探すか。手掛かりは残されているだろうか。どちらにしろ、二度と会ってはくれないかもしれない。  薫は何度も逡巡し、とうとう、インターホンに指を重ねた。  バタン、とドアが開いた。ベルを鳴らす前だった。その人は呆然と立ち尽くしていた。黒い瞳がじわりと滲んだ。    *    突然、電話のベルが鳴った。病院からだった。真純が交通事故に巻き込まれたと告げられた。目の前が真っ暗になった。肇は裸足で飛び出した。  無我夢中で走って、真純が運ばれたという病院に駆け込んだ。がらんとした待合室の、一番隅のソファで、真純は一人で待っていた。   「ぱぱ!」    真純が腕の中に飛び込んできた。小さくか弱い体は、血が通って温かかった。「ぱぱ、ぱぱ」と泣きじゃくる真純を抱きしめて、肇は崩れるように座り込んだ。全身の力が抜けて、頬を熱いものが伝った。   「ずっといい子に待ってたんですよ。パパが来てくれて安心したのね」    応対してくれた看護師が言った。  事故に巻き込まれたとはいえ、真純はほんの掠り傷を負っただけだった。一応消毒をしてもらい、絆創膏を貼ってもらったそうだ。病院からの電話に気が動転し、上着も着ずに裸足で駆けてきた肇の方が重傷だった。体はすっかり冷え切って、足は傷だらけになっていた。  安堵したのも束の間に、肇はふと思い出す。真純と一緒にいたはずの薫は、どこでどうしているのだろう。看護師に尋ねてみると、思わしくない答えが返ってきた。  家族の要望で詳しいことは話せないと前置きされた上で、薫も真純と共に事故に巻き込まれたと告げられた。病院へ担ぎ込まれた時点で意識がなく、ICUで懸命な治療が続けられているという。万が一ということもある、と看護師の顔色から窺えた。    奈落に突き落とされるとはこのことだ。肇は絶望の味を思い出した。泥を噛むより辛い。唇が渇いていく。  このまま薫が帰らなかったとして、肇が葬儀に呼ばれることは絶対にない。お別れ前にガラス越しにでも面会が許されるだろうか。そんなことは万に一つもない。「いってきます」が最期に聞いた言葉になるのだろうか。あの後ろ姿が、最期に見た薫の姿になるのだろうか。もう二度と、遺骨にさえ、一目会うことは叶わないのだろうか。   「ぱぱ、ぱぱぁ」    病院の売店で買ったサンダルを履いて帰った。真純はまだめそめそしている。瞼が赤く腫れて、肇のスウェットは涙を吸ってびしょびしょだ。   「ますみをね、ぽーんってね」 「ああ。痛かったな」 「ううん、ううん。ますみを、ぽーんってしたの」 「……?」 「ますみをね、えーいって。ますみ、いたたーって。えーんってなったの」    真純はジェスチャーで一生懸命に何かを伝え、擦りむいたおでこをぎゅっと押さえる。   「けど、……」    真純は声を詰まらせる。つぶらな瞳に大粒の涙がいっぱい溜まって、ぼろぼろと溢れた。しゃくり上げる真純の背中を、肇はそっと撫でた。   「あいつが……薫が、お前を守ってくれたのか?」    肇が言うと、真純はしきりに頷いた。   「……悪かったな。怖い思いさせた」 「ぱぱぁ、だっこ」 「してるだろ」 「もっとぉ。ぎゅーってしてて。ますみ、はなさないでね」 「……ああ」    吐く息は白く、雪のように溶けて消えた。

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