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第七章②

 玄関で立ち尽くしていた肇の双眸が水の底に沈む。堰を切ったように溢れ出したそれを、薫はただ呆然と眺めていた。あの肇が、泣いている……?   「てめぇ、今までどこで何して……っ」    乱暴に薫の胸倉を掴んだその手は、すぐに力なく縋り付く。   「マジで……なんでもっと早く来ねぇんだ……」 「っ……ごめ……」    薫の胸倉を握りしめた両手がか細く震えている。薫はその手に自分の手を重ねた。肇の手は、ひどく冷たい。寒い季節ではないのに。   「僕ももっと早く来たかったけど、でもっ――」    言葉は続かなかった。肇に唇を塞がれた。   「ちょ、んん……?!」    強引に部屋の中へ引きずり込まれる。ドアが閉まる瞬間、隣人が隙間からこっそり覗いているのと目が合った。  扉に背を預けるようにして押さえ付けられた薫を情熱的なキスが襲う。こんなキスは初めてだ。玄関でするのも初めてだ。何より、肇がこんなにも積極的なのは。まるで夢のようだった。  いまだ呆気に取られている薫はされるがまま。肇のしなやかな舌が器用に出たり入ったり。優しく歯列をなぞられ、上顎を甘く撫ぜられて、腰が情けなく震えている。肇のあえかな吐息だけで込み上げるものがあるが、キスの味にしてはあまりに塩辛い。   「ちょっ、と、まって……」    しな垂れかかる肇の体を押し返す。肇は不服そうに胸を押し付けてくる。その時、肇の背後に小さな影が動いた。   「かおる! おかえりー!」 「真純!? 無事だったんだ、よかった」 「真純ィ、今は俺が薫と仲良くしてんだぞ」 「ますみもかおるとぎゅーする!」 「えっ、ちょ……」    真純は元気に薫にじゃれ付いた。少し見ない間に随分大きくなった。それに、薫を名前で呼んでくれている。こんなに嬉しいことはない。   「かおるー! おかえりー!」 「た、ただいま」 「薫。こっちはもういいのかよ?」 「え、ちょっと……」    肇は口の端の古傷をぺろりと舐める。艶めかしい色が目の毒だ。その仕草がどれだけ男を煽るのか知っていてするのだから質が悪い。真純の前でダメだと思いながらも、長い禁欲生活が祟ったか、薫のそこは容易く兆し始めていた。   「もっとし――」 「冗談だ」    肇はあっさりと手を放した。真純を部屋に戻らせ、薫にも上がるよう促す。燃え上がった熱はいまだ燻っているが、薫は渋々と靴を脱いだ。  真純は、大切にしているであろうおもちゃやぬいぐるみをたくさん引っ張り出してきて、薫に持たせてくれた。子供なりのおもてなしというやつなのだろうか。肇は、おやつとジュースを出してくれた。珍しいこともあるものだ。   「これねー、ますみすきなおやつ。かおるにもあげる!」 「ありがとう」 「わんわんだよぉ。これ、わんわん」 「かわいいね。いただきま――」 「だめぇ。わんわんはますみのだから。かおるはこっちにして」 「これは何の動物さん?」 「んとねー、うさちゃん!」    動物を模った素朴なビスケットだ。バターが優しく香る。懐かしい味がした。  まるで、ずっと昔からこうなることが決まっていたみたいだ。薫は夢のように穏やかな時を過ごした。テレビを見ながら三人でおやつを食べて、肇の膝で寛ぐ真純に絵本を読んであげて、ごっこ遊びをして、お絵描きをした。そのうちお昼寝の時間になって、肇は真純を寝かし付けた。    そして大人の時間が始まる。   「真純は?」 「よく寝てる。遊んで疲れたんだろ」 「そう……」    肇は、わざわざ薫の隣に腰を下ろした。やけに距離が近い。そっと手が重なって、薫は心臓が飛び出しそうになった。火照った顔を隠しもせずに振り向くと、透き通る涙が肇の頬を濡らしていた。   「っ……」    泣き顔さえも、惚れ惚れするほど美しい。薫はドキドキしながら見惚れてしまった。肇も泣くことがあるんだ、なんて失礼なことを考えながら。   「……そんなに見んなよ。溶けちまいそ」 「ご、ごめん……」 「……」 「……あの、僕……」 「お前は本当にバカなガキだ」 「えっ、なんで急に貶されてんの、僕」    涙を流して言う台詞ではないだろう。相変わらず、肇の言動は突拍子もない。   「俺なんかのガキ庇って、てめぇが死んでちゃ世話ねぇわ」 「しっ、死んでないよ、僕。生きてる……よね?」 「死にかけたんだろ。話には聞いてる」 「そ、そうだけど……でもほら、経過は良好だし、後遺症もないからさ。今はぴんぴんしてるよ」 「……自分の価値が分かってねぇのか? てめぇは」 「分かってるよ……」 「分かってねぇだろ。橘本家の次期当主様だぞ。てめぇが死にかけてどんだけの人間が……結果的に何ともなかったからよかったが、お前の生死は国中に影響を与えるんだからな。その辺肝に銘じとけ。二度とバカな真似はすんなよ」 「……それってどんな真似」    薫はむっとして言った。   「バカな真似って言うけど、僕は別にバカなことしたつもりはないよ。咄嗟のことで、考えるより先に体が動いてたけど、あの時の判断は間違ってなかったって今でも思う。たぶん、この先もずっとそう思うよ」 「だから、てめぇの価値を正しく認識しろっつってんだ。ガキ一人死ぬくらいどうってことねぇが、てめぇが死んだらやべぇ大事になんだよ」 「僕の価値を決めるのは僕だ。僕はあの時、自分が死んで真純が助かる方がいいって思ったんだ。実際そうだっただろ?」 「何を根拠に」 「お前のためだよ」 「……何を……」 「肇にとっては、全人類の命よりも真純の命の方が重いでしょ。もちろん、僕より真純の方が価値がある。お前にとってはね。もしも真純まで亡くしたら、お前はきっと一生立ち直れなくなる。だから、真純を助けることがお前を助けることにもなる。って、まぁそこまで考えてたわけじゃないけどね。でもこれが僕の本音だよ。実際、真純が無事で、お前は心の底からほっとしたはずだ。僕は自分の価値をちゃんと認識できてるだろ」 「……」    肇は苦い顔をして舌打ちをした。   「……だから、バカなガキだっつーんだよ」 「うっそ、まだそんなこと言う!?」 「俺の一番は真純だ。それは変わらねぇ。けどな」    肇は薫の胸倉をぐいと掴んで引き寄せた。涙は乾いていた。腹を括った男の顔をしていた。   「二番はお前なんだよ」 「それって……」    唇が重なった。触れるだけのキスだ。涙の味がした。   「……わりぃ。やっぱお前は三番だ。二番はあいつが……」    肇は決まり悪そうに呟くが、そんなことは薫にとって些細なことだ。   「それって、実質僕が一位ってことでしょ」 「……俺の話聞いてたか?」 「だって、その二人は殿堂入りみたいなもんだし。肇の中の一番は、実質僕だね」 「誰もんなこと……」    薫は肇を押し倒して、自ら唇を重ね合わせた。技巧は相変わらずだが、情緒はある。それに愛も。恥ずかしそうに縮こまった舌を絡めて吸って、溢れ出す気持ちを混ぜ合いながら、肇の中を薫のそれで満たしていく。気持ちの重なる幸福感に酔いしれ、その甘さに浸る。   「っ、ん……おい、」 「なに? 僕も好きだよ」 「んなこと、一言も……」 「肇も勃ってる。僕としたいって思ってくれてる?」 「んなの、不可抗力だろっ……」 「キス気持ちいもんね。くっついてるだけでも気持ちいし」 「っ、ちょ、待てって」 「あんな情熱的なキスしてくれたくせに」 「あれはっ……つか、今はダメだ。明るいうちからこんな」 「暗くなればいいの? エッチだなぁ」    薫は揶揄い半分で笑ったが、肇の反応は意外なものだった。肇との付き合いはそれなりに長いが、こんな表情は見たことがない。   「……悪いかよ……」    真っ赤な顔を隠しながら、目を逸らす。これは確実に照れている。あの肇が、照れる日が来るなんて! 薫は純粋に感動した。   「ちょっ……どうしちゃったの、ほんと……かわいすぎ」    頬が上気しているのは、キスのせいだろうか。涙の痕か、目元も赤く潤んでいる。その様が非常に愛おしく、愛らしく感じられて、薫は堪らなくなった。年上の男にそんな感情を抱くなんて奇妙かもしれないが、実際そうなのだから仕方ない。   「と、とにかく、今はしねぇから」    肇は薫の胸に腕を突っ張って押し返した。   「昼とか夜とか気にするタイプだったっけ」 「っせぇな。準備できてねぇんだよ。誰かさんがいきなり押しかけてくるせいでよォ。それに真純もそろそろ起きる」 「早くない?」 「最近あんま寝ねぇんだよ。代わりに夜はぐっすりだけどな」    それなら夜の方がゆっくりじっくりやれていいな。などと邪なことを考えた薫の心を見透かすように、「エロいこと考えてんじゃねぇよ」と肇は笑った。      夜は真純を連れて三人で外食に出かけた。薫にとっては久々の外食だ。庶民的な食事も久しぶり。肇に言うと「金持ち自慢かよ」と怒られるかもしれないが。   「ますみのぽてと、かおるにあげる!」    お子様ランチのフライドポテトを、薫にあーんして食べさせてくれた。真純の笑顔に癒される。   「ぱぱも、あーん」    あまり食べる気はなさそうな肇の口にも、真純は遠慮なくポテトを放り込む。   「おれいに、ぱぱのばーぐ、ますみにちょーだい」 「お前、最初からそれ狙いだろ」 「ねーぇ、おねがーい。ちーずばーぐ、くーだーさい」 「強かな野郎だな。誰に似たんだか」    肇は、チーズの溶けたハンバーグを真純の一口サイズに切って食べさせた。真純は嬉しそうににこにこ笑い、丸い頬をさらにぷくぷく膨らませる。ソースで汚れた口元を、肇はナプキンで優しく拭った。   「たくさん食って、デカくなれよ。どうせここは薫持ちなんだ」 「……真純はやっぱりあんたの子だよ」 「なんだ、真純に焼きもちか? お前にもあーんしてやろうか」    肇は、付け合わせのブロッコリーをフォークで刺した。   「ほらよ。出血大サービスだ」 「いらないよ。どうせ食べたくないからくれるだけでしょ。真純の手前、野菜もちゃんと食べないと」 「んだよ、お気に召さないか? 俺がこんなことすんのは、お前だけなんだけどなァ」 「何それズルい……」    肇は、にやにやと小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。揶揄われているだけと分かっていても、「自分だけ特別」という言葉に人は弱いものだ。薫は大人しく口を開けて、肇にブロッコリーを食べさせてもらった。付け合わせの野菜にしてはちょっぴり甘かった。      今晩は泊めてもらえることになった。急な訪問だったが、薫の着替え等は前回泊まった時に置いていったものがそのままになっていたため、そこについて支障はない。問題は、真純が全然寝付かないことだった。  肇が絵本を読み聞かせてやって、普段はそれですぐに寝てしまうらしいが、今夜は薫というイレギュラーな存在がいるせいか、興奮して全く寝てくれない。   「つぎはねー、おばけのごほん」 「何冊目だと思ってんだ。もう寝ろよ」 「や! もっとよむの」 「これで最後だからな」    真純は、肇の広い胸に柔らかいほっぺたをぎゅっとくっつけて甘え、肇の声に耳を傾ける。読み聞かせとしてはあまり上手とはいえない、抑揚のない低い声で淡々と読み進めていくが、それが不思議と心を落ち着かせる。いつの間にか薫も目を瞑っていた。

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