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第十章⑥
微睡みの中、全身を優しく包まれるような心地よさに、薫は目を覚ました。目に入るのは見慣れぬ天井。クリスタルグラスのシャンデリア。全面ガラス張りの窓に朝日が差し込み、薫の胸にもたれて眠る肇の寝顔を明るく照らす。
しっとりとして艶のある、黒々とした毛髪に光が差し、一層美しく照り輝いて見える。そっと指で梳いてみれば、いつも通り手によく馴染む、上質な絹糸のような肌触りだ。男らしい健康的な肌色は、朝日を浴びて仄かに上気して見える。
「ん、ん……」
一体どんな夢を見ているのだろう。肇の寝言までもが色っぽく聞こえて、薫は体温が上昇するのを感じた。
今回の旅行を、薫は何よりも楽しみにしていた。
真純が空気を読んでくれたのか、単純に友達との遊びを優先したかったのかは分からないが、薫にとっては僥倖であった。三人で家族旅行をしたことは数多くあれど、肇と二人きりで出かけるなんて初めてだった。完全に新婚旅行の気分である。
留守番をしている真純には悪いけれど、土産をたくさん買っていって許してもらうとして、しばらくは肇を独占できる。今もまさに、薫は肇を独占している。昨晩の残滓もそのままに、裸のままで寄り添っていられる。これほど贅沢なことがこの世にあるだろうか。
「はーじめ」
黒髪を掻き分けて額にキスを落とすと、肇はむずかるように眉間に皺を寄せた。いつも薫をガキ扱いしてくる肇だが、こういうところは子供っぽくてかわいい。まぁ、そうでなくてもかわいいが。いや、どちらかといえば美人系だが。
「起きないなら、もっとすごいことしちゃうけど?」
頬をすり寄せ、耳を食む。耳たぶを甘噛みし、穴に舌を這わせて、ぴちゃぴちゃと卑猥な音を奏でる。むにゅっと押し付けられた豊満な乳に手を這わして弄り、つんと尖った乳首を指先で突つく。
「んっ……」
肇の瞼はきつく閉じられたままだが、声色が熱を帯び始める。乳首を弾いてみれば、もじもじと腰が動いた。
「寝てても感じるんだ。かわいーね」
昨夜の肇の乱れた姿を思い出す。サクランボみたいに勃起した乳首をあえて放置していたら、「触ってほしい」と涙を浮かべて懇願してきた。あの姿にはくらくらきたし、しばらく忘れられそうにない。色々な意味でお世話になりそうだ。
普段は飄々としているくせに、イキすぎて怖かったり気持ちよすぎたりすると、子供みたいに駄々を捏ねたり、舌足らずに甘えたりする。肇のそのギャップが、薫の心を捉えて離さない。
今もそうだ。澄ました顔をしているくせに、ちょっと躰を弄っただけで容易く乱れる。昔はこんなにも隙だらけではなかった。積み重ねた年月のおかげだろうか。心を許されていると感じて嬉しくなる。
十年の月日は長い。恋を知った日から数えたら、二十年近くになる。
初雪のちらつく中、夜の闇に溶け込むように佇む肇の姿を、薫は今でも覚えている。暴力的なまでの美しさと、今にも消えてしまいそうな儚さとを併せ持ち、そして、泣きたくなるくらいに孤独だった。孤独で、それでいて気高い獣のような、そんな空気を纏っていた。そんな肇に、幼い薫は憧れた。
ようやく肇の居場所を突き止めて再会を果たした時、まさか子持ちになっているとは思いもしなかったし、肇の薫に対する心証も良いものではなかったのに、どういうわけか運命の歯車が噛み合って、今ここにこうして肇と二人でいるなんて、まるで奇跡のように感じられる。
奇跡だろうが何だろうが、薫はこの幸せを手放すつもりはない。今が永遠に続くと無邪気に信じられるほど、薫はもう子供ではないけれど、なるべく永くこの幸福が続くようにと努めることはできる。
「キスしちゃおっかな~。お姫様は王子様のキスで目覚めるん……」
こちらを見つめる黒い双眸と目が合った。今の今まで眠っていたはずの肇が、目を開いて薫を見ていた。そして、少し揶揄うような感じで、傷のある口角を持ち上げた。
「誰が王子だって?」
「っ……」
火がついたように体が熱くなる。肇が寝ていると思って何気なく放った恥ずかしい独り言が、まさか聞かれていたなんて。頭のてっぺんまで真っ赤になった薫を見て、肇はけらけらと笑った。
「何恥ずかしがってんだよ、オージサマ」
「やめてよマジ……この歳で王子とかないから」
「そうかァ? 見た目だけなら王子系だろ」
「えっ、そう?」
「おう。マジで」
「マジぃ?」
薫の腕の中で、肇は挑発的な笑みを湛える。本気なのか冗談なのか分からないが、艶のある唇は誘っているようにしか見えなくて。薫は思い切って唇を寄せた。けれど。
「ばぁか、朝っぱらから盛ってんじゃねぇよ」
肇に阻止された。
「えぇ……今のはそういう流れじゃない?」
「知らねぇな。朝メシはまだかよ」
「モーニングはそろそろ終わりだよ」
「腹減った。なんか頼め」
「わがままだなぁ。じゃあブランチってことでいい?」
薫はベッドサイドの受話器を取った。
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