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23話・一夜明けて
俺のフルネームは『獅堂 静雄 』である。どう言い間違えても『ナオヒサさん』とやらになるわけがない。
寝惚けて知人の名前を口にしたのかもしれないが、それにしては表情と声音が甘かった。まるで愛しい人の名を呼ぶように。
ちなみに例の不名誉な噂のせいで、伊咲センパイには大学内に親しい友人はいない。バイト先は親戚の詩音 さん。時折連絡が来る出版社の担当さんは女性。最近仲良くなった俺の友人・千代田 の下の名前は海斗 である。『ナオヒサさん』なんて男は彼の周りに存在しない。
──俺の知る限りでは、の話だ。
結局あの後悶々と悩み続けて一睡もできなかった。
なので、近所にある二十四時間営業のスーパーに行き、食材を調達してひたすら料理している。伊咲センパイのアパートのキッチンには小さな鍋とフライパンがひとつずつと最低限の調味料しかない。それらを駆使して煮物や炒め物、ポテトサラダなどを作った。かなりの量になったので、食材と一緒に買ったタッパーに詰めておく。
そうこうしているうちに夜が明け、伊咲センパイがのそりと起きてきた。寝起きでぽやぽやしてらっしゃる。
「獅堂くん、おはよ」
「おはようございます、伊咲センパイ」
ダイニングテーブルに並ぶフレンチトーストとサラダ、フルーツヨーグルトに、伊咲センパイの眠気は見るからに吹き飛んだ。
「いい匂いがすると思ったら、これ全部獅堂くんが作ってくれたの?」
「ハイ、お口に合えばいいんすけど」
「こんなすごい朝ごはん初めて!」
コーヒーを注いだカップを差し出すと、伊咲センパイは笑顔で受け取った。早速席につき、フレンチトーストをひとくち食べる。
「うわあ、美味しい」
「良かったっす」
嬉しそうな伊咲センパイを向かいの席に座って頬杖をついて眺める。小さな口をもぐもぐさせて食べている姿が愛らしい。一生飽きない。ずっと見ていられる。
「あれ、君は食べないの?」
「俺は作りながら摘 んでたんで」
もちろん嘘である。昨夜聞いた知らない男の名前が気になって眠れないばかりか食欲まで減退してしまったのだ。
だが、伊咲センパイに余計な心配は掛けたくない。ましてや『ナオヒサさん』について直接訊 ねるなんて真似はしたくなかった。知りたいけど知りたくない、聞きたくない。
なにより、今の空気を壊したくなかった。
「おかず作っておいたんで食べてください。食べ切れなさそうなら詩音さんにお裾分けしてもいいんで」
「えーっ、すごーい! ありがとう!」
冷蔵庫内を埋め尽くすタッパーを見て無邪気に喜ぶ姿に、俺は目を細めた。眠れなかった時間を有効活用して胃袋を掴む作戦に出たのだが、どうやら効いたようである。
「材料費払うよ、幾らだった?」
「いや、俺がやりたくてやったんで」
カバンから財布を取り出そうとしたので慌てて止めると、伊咲センパイはしょんぼりと肩を落とした。
「でも、詩音の家の片付けも手伝ってもらったし、僕ばっかり助けてもらってる」
「アレも俺が勝手についていっただけっすよ」
結局、急な呼び出しに対して釘を刺すことはできなかったが、伊咲センパイの身内である詩音さんに好印象を抱いてもらうことには成功した。将来的に、伊咲センパイの家族にご挨拶する前に良い情報が伝わっていれば俺の心証が良くなる。全ては俺のためなのである。
「君にどうお礼をしたらいいのか分からない」
「お礼なんて要らないっす」
「……困ったな」
固辞する俺に困り果て、伊咲センパイは眉を下げた。貸し借りがある状態が嫌なのだろう。そんな彼の隣に歩み寄り、そっと肩を抱く。
「俺は自分がやりたいことしかしてないっすよ。そばに居られるだけで幸せなんで難しく考えないでください」
「う、うん」
耳元で囁けば、伊咲センパイは顔を真っ赤にして肩をすくませた。息が耳にかかってくすぐったかったらしい。
「あのね、獅堂くん」
くい、とシャツの裾を引っ張られる。恥じらう様子の伊咲センパイが下を向いたまま口を開いた。
「さっき目が覚めた時にね、君が隣にいなくて、僕が寝てる間に帰っちゃったのかと思って、さ、寂しかった……」
「ン゙ン゙ッ゙!!」
萌え過ぎて変な声出た。
いつもは淡々としてクールな伊咲センパイがこんな風に甘えてくれるなんて嬉しい。最高。録音しておけば良かった。
「俺は見てましたよ、伊咲センパイの寝顔」
「やだ恥ずかしい。ヨダレ垂らしてなかった?」
「全然。可愛くて見惚れてました」
「そういうこと言うのやめてよぉ」
うん、俺たちはまごう事なく付き合いたてのラブラブカップルだ。伊咲センパイも俺の複雑な心情には気付いていないようで、普通に照れている。
大丈夫。俺たちはうまくやっていける。
でも気になる。
『ナオヒサ』ってマジで誰!?
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