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番外編『書き表せない気持ち』
「新作の短編、すごく面白かったです!いつものキタセさんのテイストとは違うけど、緊迫感とか臨場感があって!」
「はは、ありがとう朔良 」
交際を始めてから数ヶ月経ったある日の夜。
俺たちは最初に会った居酒屋の個室で飲んでいた。飲み過ぎるとロクなことにはならないので、お酒は控えめにして食事メインだけど。
昨夜遅くに公開した二万字ほどの短編を既にチェックしていたらしく、サクラちゃんは興奮気味で語っている。ていうか、今回はSNSで告知してなかったのによく気付いたな。
「痴漢を題材にした作品って舞台は大抵通勤電車じゃないですか。でも、この短編では新幹線なんですよね。そこがまた珍しいというか」
「そう、かな?」
スマホで小説投稿サイトを開き、読み返しつつ感想を語ってくれるサクラちゃん。新作を公開する度に、彼はSNS上だけでなく直接こうして感想を伝えてくれる。いつもならすごく嬉しいんだけど、今回ばかりはちょっと複雑だ。
「で、この際どい場面で颯爽と助けが来る展開がまた……聖司 さん、どうかした?」
「え、あ、なんでもない」
ぼんやりとしていた俺に気付き、向かいに座るサクラちゃんが心配そうに顔を覗き込んできた。俺の好きな金の髪がさらりと揺れる。うん、間近で見ても隙のないイケメンっぷりだ。
「お仕事で疲れてるんですよね。ごめんなさい、オレが会いたいって言ったから」
先ほどまでのハイテンションから一転、サクラちゃんはしおしおと萎れたように肩を落とし、申し訳なさそうに謝った。
「週末だし大丈夫。俺も会いたかったからさ」
「ホントですか!?」
「ほんとほんと」
会いたかったと言った瞬間、パッと顔を上げ、満面の笑顔を向けてくる。イケメン大学生の笑顔は破壊力がすごい。くたびれたアラサー会社員の俺には眩し過ぎる。
気を取り直したサクラちゃんによって感想語りが再開された。
「この痴漢の手口がまた妙にリアルで、主人公の女性が追い詰められていく様子がまた可哀想で。今回は特に状況と心理描写がすごくないですか?」
「はは、表現力が上がったかな」
「絶対そうですよ! だって、まるで実際に体験したかのような──……」
そこまで言って、サクラちゃんはピタッと喋るのをやめた。みるみるうちに笑顔から真顔に変わり、口元に手を当てて考え込む。
「聖司さん、何日か前に出張行ってましたよね」
「え、うん」
しばらく沈黙してから、サクラちゃんがいつもよりやや沈んだ声で尋ねてきた。
「平日最終の新幹線で、空いてたから自由席に座れたってメールくれましたよね」
「う、うん」
仕事で数日九州に出張に行って、帰りの新幹線からサクラちゃんにメールした。『お土産買ったから今度会う時に渡すね』って。それが今日なんだけど。
「……もしかしてこの短編、ホントの話なんじゃないですか?」
正面から真っ直ぐ見つめられ、俺は思わず目をそらした。気まずさを誤魔化すように酎ハイのグラスを傾ける。沈黙を肯定と受け取ったのか、サクラちゃんは「そうですか」とだけ返して黙り込んだ。
急にお通夜みたいな空気になったんだが。
「な、なにか追加で頼むか? 飲み物は?」
「……いいです。もう帰りましょう」
「う、うん」
その後はお互いひと言も喋らず、重苦しい雰囲気で店を出る。気まずい空気の中「じゃあ」と帰ろうとしたら手を引っ張られ、近くにあった薄暗い路地裏へと連れ込まれた。
「さ、朔良?」
そのまま雑居ビルの外壁に追い詰められ、完全に逃げ道を失ってしまった。壁ドン状態。目線ひとつぶん高いサクラちゃんを見上げるが、薄暗くて表情がよく見えない。
「……知らないヤツに身体を触られたの? あの小説みたいに」
いつもの彼らしくない低い声で問われ、しばらく迷ってから小さく頷く。俺が認めたのを見て、サクラちゃんは大きな溜め息を吐き出した。
「言ってよ、そういうの。オレ、聖司さんの彼氏でしょ?」
「や、でも、ちょっと触られただけだし、俺は男だから。ホラ、小説のネタにしたくらいだしさ」
思いのほかショックを受けているサクラちゃんに驚いて慌てて弁解するが、それは全くの逆効果だった。
「主人公の女の人、すごく怖がってた。聖司さんがそう思ったからですよね? 鳥肌や嫌悪感、痴漢の気持ち悪さと恐ろしさ、逃げようのない状況……あれは全部聖司さんが感じたことなんでしょ?」
「……」
「短編では乗客の男性が痴漢を追い払って警察に引き渡してくれたけど、実際は……」
物語の後半、怯える女性がワザと物音を立て、気付いた近くの席の男性が助けてくれるという展開にした。
しかし、実際はそんなことはなかった。
平日最終の新幹線。
乗客の数は疎 ら。
みんな疲れて眠っている。
俺も接待帰りで寝こけていた。
空いている座席は他にもあるのに隣に座られた時は驚いたが、そいつがカバンからブランケットを出した時も(今日は肌寒いもんな)と思っただけ。ブランケットが自分の膝に掛かった時も別に何とも思わなかった。
まさか、そのブランケットの下から手を伸ばされ、太腿を触られるとは。
たまたま手が当たっただけと自分に言い聞かせ、しばらく黙って寝たフリをしていたら、手が更に伸びて脚を何度も撫でられた。身を捩って逃げても追ってくる手が気持ち悪くて、次第に股間に近付いてくる手に耐えきれずに席を立って逃げた。
文句を言ってやりたかったけど、とてもそんな余裕はない。別の車両に移っても、またアイツが来たらと思うとうたた寝すら出来なかった。
「くそ、オレがそこにいたら絶対そいつを殴ってやったのに……!」
「朔良……」
「オレ、何にも知らなくて。何が『面白かった』だよ。聖司さんがヤな目に遭ってたってのに」
確かに怖かったけど、ちょっと触られただけ。理不尽な目に遭う女性の気持ちをほんの少しだけ理解出来た気もするし、経験を小説に活かせば無駄にならない。そう思っていた。
でも、嘆くサクラちゃんの姿に心が痛む。
こんな風に悲しい顔をさせてしまう作品なんて書くべきではなかった。どこにも出さず、胸の内に隠しておくべきだった。
「ごめん朔良。嫌なもの読ませて」
謝ると、サクラちゃんはバッと顔を上げた。間近にある彼の顔には焦りの表情が浮かんでいる。
「違う、聖司さんが謝ることない。オレは一番ツラい時に助けてあげられなかったことが悔しいんだ。もし助けてって言われても流石に走ってる最中の新幹線には駆け付けられないけど、何も知らずにいるのだけは嫌だ!」
俺の肩を掴む手にぐっと力が込められた。痛いくらいなのに、サクラちゃんには触られても全く怖くない。心配されていると分かってるからだ。
「あの短編は、聖司さんのSOSなんでしょ?」
そうだ。俺は誰かに助けてもらいたかった。男だし、被害を訴えるなんて出来ないけど、無理やり触られて嫌だった、気持ち悪かったって言いたかった。悲しくて悔しい気持ちを昇華するために書いたんだ。
「……っ」
サクラちゃんは俺の気持ちを作品から読み取って理解してくれた。そう思ったら涙がこぼれた。すぐそばにある彼の顔がにじんで見えなくなる。
「こ、怖かったんだ。ロクに抵抗出来なくて、黙って逃げるしか出来なくて。男なのに情けないよな。これが女の人なら身動きすら出来ないだろうなって」
「聖司さん」
「だから、小説の中でヒーローに助けさせたんだ。俺も助けてほしかったから」
涙目で話す俺を、サクラちゃんはぎゅっと抱きしめてくれた。彼の腕の中はあたたかくて安心出来る、俺の特等席だ。
「こんな顔で夜道を歩かせらんない」
サクラちゃんの指先が俺の頬に伝う涙をそっと拭う。熱を孕んだ声に耳をくすぐられ、ビクッと身体が揺れた。痴漢野郎に抱いた嫌悪感とは全然違う。恥ずかしさと戸惑いが入り混じった感覚に頬が熱くなった。
「家まで送らせて」
「…………うん」
夜道を並んで歩きながら、またしばらく沈黙が続いた。居酒屋のある繁華街から人通りがない住宅街に差し掛かってからは、ずっと手を引かれている。一歩先を歩くサクラちゃんの姿をぼんやりと眺めながら、傷付いていた心が癒されていくのを感じた。
彼は俺の書いた作品の中にあった、自分でも気付いてなかった気持ちを読み取ってくれた。こんな風に寄り添われたのは初めてで、さっきまで胸の底に仕舞い込んでいた不安や恐怖が取り払われていく。
「送ってくれてありがとう」
「いえ。それじゃ、おやすみなさい」
「ま、待って」
アパートの部屋の前で、サクラちゃんはすぐ帰ろうとした。玄関のドアノブに掛けていた手を離し、慌てて彼の腕を掴み直して引き留める。
「上がっていかない、のか?」
ここまで来たのに、と問うとサクラちゃんは眉尻を下げて泣きそうな表情になった。何度か口を開き掛けてはやめるのを繰り返す。そして、「ごめんなさい」と絞り出すようにして懺悔の言葉を口にした。
「……お、オレ、初めて会った時、キタセさんに酷いことした……あんなの痴漢と変わんない」
「え」
あの時、突然押し倒されて怖い思いをした。でも、それは何年もの間に積み重ねてきた彼の気持ちが溢れた結果の行為だ。誰彼構わず襲う痴漢とは根本的に違う。
「バカだな」
今にも泣きそうなサクラちゃんの腕を掴み、アパートの部屋に引きずり込む。まだ電気が点いていない、真っ暗な玄関の壁に彼の背中を押し付け、無理やり唇を重ねる。しばらくしてから身体を離すと、サクラちゃんは「なんで」と震える声で呟いた。
「好きな人に触れたいと思うのは当たり前だろ。今、俺に無理やりキスされて嫌だったか?」
「い、嫌じゃない。嬉しい」
「そういうことだ」
「せ、聖司さん……ッ!」
とうとう泣き出したサクラちゃんが、俺の身体を痛いくらいの力で抱き締めてきた。やっぱり、サクラちゃんには触られても怖くない。
「帰さないって言ったらどうする?」
「絶対帰らない」
「全部触って上書きしてくれるか?」
「オレ、触ってもいいの?」
「朔良だから触ってほしいんだよ」
「うん、全部触る。触らせて」
玄関の内鍵を掛け、電気も点けないまま部屋の中になだれ込む。
どっちのか分からないほど高鳴る心臓の音。互いの匂いと体温。それらを肌で感じながら過ごした一夜は文章には書き表せないけれど、『何よりも得難い幸せな時間』だったとだけ記しておく。
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