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帰り道。明かりの少ない道を軽自動車でゆったりと走りながら、清白は先程の生徒のことを思い返していた。
及川。市立西高校の三年生。下の名前はユズキだかユズルだか、そんな感じだ。成績は極めて平均の中の中だが、日本史の出来の悪さは抜きんでている。なぜ日本史だけがそんなにできないのかは分からない。
人物としては……髪を染めていたり制服を緩く着崩しているところは軽いが、そこまで素行が悪い部類でもない。授業態度は悪くもなければ特別良くもなく。明るく快活で友人も多く、時々はちょっと羽目を外してみたり、今時の高校生として特に突出したところはない。
あえて言うなら愛嬌はある。物凄い二枚目であるとかいうわけではないが、人懐こそうな細い一重の目や、大きくて口角の上がった口許、そしてあの遠慮を欠いた言動には無礼よりも親しみを覚える人が多いだろう。それでいて長身。女子にも人気があるに違いない。
その及川が、なぜ。
「ガキの思考回路は本当に分からん……」
及川があんなことを言った理由として、考えられる可能性、その一。彼が単独で、あるいは他の生徒と共謀して清白をからかっているのだという説。何しろ清白の授業は厳しい。私語厳禁、忘れ物厳禁、宿題忘れなどもってのほか。もちろんそれに見合った成果は叩きだしているが、不満を持っている生徒も少なくないだろう。意趣返しをしてやりたいと思う輩が湧いてもおかしくない。だが、あのとき指導室の周囲には誰もいなかった。及川の様子も途中からはひどく必死だった。もちろん、そう見せていただけかもしれないが。
その二。及川は同性愛者で、清白に本気で好意を抱いているという説。……考えられなくはないが、考えたくはない選択肢だ。だが、好意を持っている相手にいきなり「えっちしたい」は、いくら高校生でもありえないのではないだろうか。可能性薄。
その三。気の迷い。これが一番濃厚だ。
「なんにせよ」
低く呟いて、エアコンのスイッチに手を伸ばす。九月の夜はまだまだ暑い。もう夏休みは終わってしまった。受験生たちにとっては追い込み時期である。高校三年生である及川にとっても、講師である清白にとっても、勝負の季節が始まる。余計なことにかかずらっている暇はない。
「……無用な心配か」
清白が突き付けた条件は、全塾内一位。校内最下位、塾内ワースト二位の及川が取れるはずもない。
「馬鹿らしい」
なのに独り言が止まらないのは、きっと嫌な予感がしていたからだ。
水曜日、三コマ目。週に一度の高校三年生の社会の授業で、清白は眩暈を感じた。
「……お前の席はそこじゃないだろう」
中学生は基本的に五教科全てを受講することになっているが、高校生の理社は任意受講となっていて、高三の場合は全体の四分の一ほど、十六人だけが受講している。つまり、少人数での授業なのだ。なので、今清白がこうして圧迫感を感じているのはおかしい。その原因は言うまでもなく、先日清白に『えっちしたい』とのたまった生徒、及川だ。及川は本来後ろから二番目の席であるにも関わらず、教卓の目の前、清白から距離にして五十センチほどのところに座していた。
「ええ? だって集中して授業受けたいんですもん」
などと、へらへらとのたまう。清白は手にしたボールペンを折ってしまうところだった。
「嘘つけよユズ」
「そんなキャラじゃねーだろおまえー」
周囲の男子生徒も冷やかしている。ユズ、とは及川のあだ名らしい。清白は彼の下の名前を明確に覚えていない。後で出席簿で確認しておこう。
「……自分の席に戻りなさい」
「嫌です」
ピシ、と。己のこめかみに青筋が走った音が聞こえた。清白は本来気が長いほうではない。
「及川、おまえ」
「生徒がやる気になってるんですよ、先生。お願い」
言葉に詰まる。やる気、とか意欲、とか。講師はそういう言葉に弱い。何より、清白は授業の段取りが狂うのが嫌いだ。本鈴が鳴ってからもう三分経っている。これ以上彼の説得に時間を費やしたくはない。
「……今日だけだぞ」
「やった!」
などと諸手を挙げて歓ぶ様がちょっと可愛らしいだなんて、決して思っていない。
清白は咳払いをひとつして、授業にとりかかった。まずは宿題のプリントを回収。まとめて最背面の席に置いておくよう指示してある。清白の提出物に対する厳しさを知っているだけに、やってきていない者はいない。枚数だけを確認したら、生徒たちに今日やる箇所を指示し、テキストを開かせる。
「今日は百四ページの『脱亜入欧』のところから。まずは復習」
黒板に、素早く板書する。重要用語が入るところは適度な空白を開けて、何が入るのか予想しやすいようにヒントは簡潔に。板書の丁寧さと素早さにはちょっとした自信がある。今日の出来も悪くない。若干の満足を胸に振り返れば、妙にキラキラした瞳と目が合う。及川は異常に輝いた目で清白を凝視していた。その視線にギクリとする。内心の動揺を悟られないよう、意識して硬い声を出した。
「まず、開国に際して日本が米国と結んだふたつの条約の名前は。周藤」
及川と似た雰囲気のちゃらちゃらした男子生徒は、しかし淀みなく答える。
「日米和親条約と、日米修交通商条約。さすがにジョーシキっしょ、先生」
「……それを先日の模試で間違えた奴がいるから聞いているんだが」
ちらり、と。視線を真下に落とせば、及川はテキストを頭から被って隠れていた。教室に、ど、と笑いが起こる。因みにそのふたつは中学二年で習う項目だ。
「ではそのふたつの条約において、日本にとって不利であった点は大きくふたつ。それを……及川」
じぃっとその茶色い頭を見下ろす。及川はテキストの合間から、細いが愛嬌のある目をそうっと覗かせた。
「えっとぉ……」
条約名が分からなかった奴が内容まで覚えているとは思わないが、お前はこんなことも分からないんだぞ、と印象づけるには良い手だ。清白は授業ではなるべく生徒に重要事項を答えさせるようにしている。
「ナントカの自主権と、ナントカ裁判権」
「……川田。助けてやれ」
及川のふたつ後ろの席でくすくす笑っていた女子生徒にお鉢を回す。彼女は溌剌とした声で答える。
「関税の自主権がないことと、領事裁判権を認めたことです」
「結構。それに対して日本が朝鮮と結んだ条約が……」
黒板に黄色のチョークで重要事項を書き足していく。それを及川が真剣な顔でテキストの余白にメモをしだして、清白は瞠目してしまった。及川は不真面目ではないが、意欲のある方でもなかった。やることはやるけれど、必要以上はやらない。そんな生徒だ。それが、今は必死に清白の授業内容を逃すまいとかじりついている。それは異様な光景であり、その光景に清白は寒気を覚えた。
いや。いやいやいや。
日米修交通商条約も分からなかった人間が、模試で一位を取れるはずがない。X会の生徒は高校三年だけで関東中に千人以上いるのだ。二桁の順位すら不可能に違いない。
そう己に言い聞かせているのに、体の奥底から嫌な予感がふつふつと沸いて出てくる。清白は極力教室の後ろのほうに視線を送りながら、五十分を乗り切った。
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