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しかし、得てして嫌な予感というのは当たるものだ。
「はい、それでは成績検討会議を終わります。本日もみなさんよろしくお願いします」
教室長の一言で、六名の職員は各自の仕事へと移る。清白は自席に座したまま、資料を両手に硬直していた。
今年度第三回模試、校内受験者成績一覧、高等部。各教科の点数と偏差値、校内順位と塾内順位が記載されている。五十音順に並んでいるため、『及川』の名前はすぐに見つかった。
「ウソ、だろ……」
教科別得点の、右から三番目。『日本史』の欄には、この校舎で見たこともないような点数が記載されていた。
「いやー清白先生どんな教え方をしたんですか? あんなに日本史苦手だった及川が」
高校生を担任している山本が笑う。塾講師よりも山男が似合いそうな彼に背中をばしんと叩かれ、清白の眼鏡が机上に飛んでいった。それを拾うことも忘れ、清白はぼやけた視界の中で成績一覧の用紙を凝視していた。思い出したようにジャケットを脱いで椅子の背もたれにかける間も、目はそこに釘付けになっている。
『及川弓鶴 現文、六十五。古典、六十九。数、百三十八。英、百六十四。生物、六十。政経、五十一。』
ぱっとしない数字が並ぶ中、一番左の項目。
『日史九十八。偏差値七十一。校内順位一位。塾内順位、一位。』
足元にぽっかり穴が開いたような、という感覚を、清白はこのとき初めて味わった。
「せんせー、冠の字間違ってる」
変声期独特の中性的な声に指摘され、清白は「は?」と声を裏返らせて黒板を振り返った。確かに、「冠位」と書くべき箇所が「寇位」になっている。板書のミスなど、これまでしたこともなかった。
「あ、ああ。元寇の寇になっているな。悪い、直してくれ」
教育者の心がけとして、己の非は正直に認めることにしている。素直に訂正すれば、前のほうに座る何人かがどっと笑う。
「せんせー聞いたことない声出してた」
「ねー超うける」
ばっちり聞かれていたらしい。何もかも及川のせいだ。強い力で「寇」の字を消しながら、清白は心の中で何度も悪態をついた。馬鹿な。何かの間違いだ。そうでなければ不正行為か。くそ、及川め。
焦る心とは裏腹に、授業は淡々と進行していく。中学二年生、清白が担当する学年だけあって、よく慣れているのでやりやすい。多少上の空でもそれなりに授業が成り立つ。
「じゃあ問一の年表埋めは左ページを見ながら。問二は何も見ずに。合わせて十分、はじめ」
問題を解くときは一言も話さないのが清白のルールだ。生徒たちもそのことをよく分かっているので、シンとなって集中して問題に取り組む。全員の頭が下を向いたのを確認し、清白は机間指導を始めた。生徒たちの机の間を回り、手が止まっているものがあればヒントを指し示し、正答が書けているものや、拾い上げたい誤答を脳内でピックアップする。成績順で分けたうちの、出来るほうのクラスだ。少しひねりの利いた問題以外はおおよそ正答を書けている。指名したい生徒をあらかた確認し教壇に戻ろうと踵を返したとき、胸ポケットに入れていた多色ボールペンが弾みで飛び出した。カシャッと軽い音を立てて床に転がったそれを、何人かの生徒が目で追う。拾い上げようと屈み込むが、近くに座っていた生徒のほうが速かった。メタリックブルーのそのペンを拾うと、「はい、先生」と笑顔で差し出してくれる。清白はそれを一瞬遅れて「ありがとう」と受け取り、胸ポケットには入れず、教卓の隅に置いた。
「十分経ったので、答え合わせ。各自赤ペンを出して」
解答を朗々と読み上げながら、清白の意識は二つに千切れている。ひとつは及川のこと。今日、火曜日は日本史の授業がある日ではないが、高三は英数の授業があるため間違いなく来ている。今頃はひとつ下の二階で授業を受けているはずだ。何とかして、彼に会わずに逃げ切る方法はないだろうか。思考を巡らすが、うまい手が見つからない。
もうひとつは、教卓の隅に置かれた多色ボールペンのこと。清白が解答を読み上げる間、気になる誤答を拾い上げて解説している間、メタリックブルーのボディは静かに何かを訴えてくる。まだ暑さの残る季節なのに寒さを感じ、清白は捲っていた長袖シャツをさりげなく降ろした。
「せーんせっ」
振り返らずとも分かる。今にでもスキップし出しそうなこの声音は、奴だ。奴しかいない。授業が終わったあとなるべく遅く教室を出たのだが、清白が降りてくるのを待ち構えていたらしい。おそろしくて振り返ることができない。首筋に鳥肌が立った。
「ちょぉっと日本史の質問があるんですけど……お願いできます?」
全ての授業が終わり、廊下は帰宅する生徒や自習室へ向かう生徒でごった返している。その喧噪の中にあって、彼の声は妙にクリアに耳に届く。清白は恐る恐る背後を振り返った。思いの外近い距離に立っていた及川は、これ以上ないほど満面の笑みを浮かべている。薄暗い廊下であるはずなのに、そこだけいやに明るい気すらしてくるから怖い。
「……中三の模試の添削がある」
一歩後ずさる。踵が階段の縁のゴム部分にぶつかった。及川は人懐こい顔をずいっと近づけると、元より細い目をキュウと細める。これが彼の笑い方なのかもしれない。
「せーんせ? やだなあ、教育者が約束破っていいんですかあ?」
「ぐっ……」
痛いところを突いてくる。及川は、歯噛みする清白ににっこり笑いかけると、「さ、行きましょ」と促してくる。仕方なしに降りてきたばかりの三階へ逆戻りする。テキストやチョークなど授業道具を入れたプラスチックケースの中で、筆箱に仕舞うこともできない多色ボールペンがカラリと転がった。
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