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 自宅に帰った清白は一気に冷静になった。  よく考えたら色々おかしい。  そもそも清白に落ち度はない。及川が勝手に好きだなんだののたまって、キスをしたいとか言い出して、一方的に条件をつきつけてきて。それらに清白が従う道理など微塵もない。  寝返りを打って天井を見る。本当は左向きでないと眠れない。  生徒と、キス? これから日本史の授業がある水曜日、ふたりきりで密会して?  頭がおかしいとかしか思えない。及川は生徒だ。高校生だ。清白は講師だ。大人だ。会社の規定にもしっかり定められている。  生徒に手を出してはいけません。  親しくなるのは結構。だがそこに「個人的に」という形容がついてはならない。一線を越えた講師の末路など、誰でも痛いほど知っている。そのリスクを冒させるほどの理由が清白にあるだろうか。  いや、ない。  そもそも及川の側にしか「理由」などないのだ。くだらない。跳ね除ければいい。お前のお遊びに付き合っている暇はない、と。  もう一度寝返りを打って左を向く。目を閉じる。瞼の裏に、己のネクタイをぎゅうと両手で握りしめる及川の姿が映った。 『先生が触ってくれた。俺に』  目尻と眉尻を同時に下げてはにかむ顔。  ひとつ、舌打ちをする。眠れそうにない。頭の中で年表の数字を必死に羅列した。  深く息を吸う。吐く。手を伸ばしかけて、ためらい、下ろす。もう四回目だった。 「無理なら今日もネクタイまででいいよ?」  気遣わしげに言ってくるのがいたたまれない。水曜日の授業後、塾内には自習や質問のために残る生徒でささやかな喧噪が満ちていた。その中にあって、この個室はひどく静まり返っている。そのせいで呼吸の音すら相手に聞こえているのではないかと思えて、余計に息継ぎが下手くそになる。  机に腰を凭れさせた及川の、緩く開いた脚と脚の間に身を据えると、ふたりの目線はほぼ同じ位置にある。悔しいが彼のほうが随分背が高いのだということを実感した。 「……そもそも」  気まずさを緩和させるために会話に持ち込む。この個別指導室に入ってからというものの、及川の顔を直視することができていない。 「なんで俺とキスがしたいんだ、お前は」 「ええ? 好きだって言ったじゃん」 「だから、なんで、俺なんかを」  提案の突拍子のなさに気を取られて、そんな根本的なことを考えていなかった。  そもそも清白には及川に好かれる要素がないのだ。まず第一に清白は男だ。しかしこれは、及川のセクシュアリティ次第では不自然ではないことになる。第二に清白は生徒に優しくない。有体に言ってしまえば愛想がない。彼らと親しく慣れあうこともしない。そんな人間に好意を抱く理由が分からない。では内面が魅力的でないなら外見か、というと、そんなこともないと清白は思う。自身の性情のせいもあり、清潔感には気を遣っている。遣いすぎているほどに。だが人目をひく外見かと言われると、決してそんなことはない。清白は背が低い。これは男性として致命的な魅力度のダウンだ。顔は、細身の銀縁眼鏡で誤魔化せているが随分童顔だ。加えて三白眼。眼鏡をかけていなかった学生時代は、普通にしているだけなのに睨んでいるようだとよく言われた。対して及川は、前述したように百人が見たら九十九人が好感を抱くような人相をしている。その彼が、こんな自分を、好きになる理由が見当たらない。これが第三。  返答を待つ。その間清白は及川のネクタイをじっと見ていた。先週、あれに、触れた。  ややあって頭をかきながら及川がこぼした言葉は、これまでもそうであったように、また随分突拍子のないものだった。 「字が綺麗だから」 「……は?」  思わず顔を見る。及川はこちらを見てはいなかった。頭を片手でぽりぽりとかきながら、あさっての方向に視線を彷徨わせている。さすがにおかしなことを言っている自覚があるらしい。 「字が綺麗? なんだ、それは」 「だって本当なんだもん。きっかけなんて色々あるじゃん? 顔が好きとか、手が綺麗、とか、スポーツしてる姿が素敵、とか。俺にとってはそれが字だったんだよ。授業中の、黒板に書く先生の字」  そんな、そんな理由だなんて。  確かに板書には自信がある。見やすく、丁寧に、かつ素早く書くことができるのがささやかな自慢だった。だがそれが原因で、今現在こんな目に遭っているだなんて。  清白は両手で顔を覆いたくなった。我慢して、片手で眼鏡を押し上げるにとどめる。この及川という生徒は本当に逐一清白のペースを惑わせる。こんな茶番、とっとと終わらせてしまおう。意を決して手を前に伸ばした。  やるならば一気にいったほうがいい。伸ばした勢いのそのままに、両手を及川の肩に置いた。  ぱふ、とシャツが孕んだ空気を吐き出す音。手のひらにじんわりと及川の体温が伝わってくる。そんなに熱くはない。ゆうに十秒は触っていた。ゆっくり、手を離す。その手をどこに持っていったらいいか分からなくて、体の前でゆるく組む。手のひらと手のひらの中に及川の感触が閉じ込められているような、不思議な気持ちになった。 「……何か言え」  あまりに反応がないので、伏せていた顔を恐る恐る上げる。及川は、なんともだらしのない顔をしていた。細い一重の目を爛々と見開き、口はぽかりと半開きにして、よく見れば唇がわなわなと震えている。歓喜に打ち震える、という言葉の説明欄に載せられそうな表情だ。この顔に清白のほうがうろたえた。 「な、んだその顔は。何か言いたいことがあるならはっきり言え!」 「え、いや、違、だって、ええ?」  要領を得ない。じっと見上げた顔が、端のほうからじわじわと紅潮していく。人の顔って本当に赤くなるのか、なんて謎の感動を覚えてしまった。 「先生が触ってくれた……」  ようやく零したその言葉が、清白の臓腑にじんわりと染み渡る。 「これが、先生の温度」  胸の前で腕を交差させて、両手で自らの肩に触れる。自分で自分を抱き締めたようなおかしな姿だが、表情はあまりにも蕩け切っている。弓なりに細めた瞳が眠たい猫のようだった。  ただ清白が肩に手を置いた、それだけのことで、こんなに歓ぶ及川が不思議でならない。そんな風に他人に想われたことなど一度もない。目眩がしそうだった。 「……今日はこれで満足か」  努めてぶっきらぼうな声を出す自分の顔までも赤くなっていないかどうか、清白には自信がない。一刻も早くこの部屋を辞したかったのだが、及川は意外にも「待ってまだ!」と声を上げる。 「ついでって言ったらアレなんだけど、折角ふたりきりなんだから日本史教えてほしい」  漫画ならば清白の頭に小さい星が降ってくる場面だ。そのくらい面食らった。  だが確かに、日本史を個別に教えるという名目でこの教室を使っているのだ。何も成果が上がらないでは体裁が悪い。 「いいだろう。座れ」 「やった!」  及川の成績があがるなら、清白としても悪いことばかりではない。少しくらい見返りがないとやっていられないというものだ。  己の座る椅子を引きながら、何とも言い訳めいた供述を胸の内で呟いた。

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