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水曜の授業後の「個別指導」も回数を重ねるたびに、双方にそれなりの進捗があった。
及川の日本史の成績は改善されつつある。あやふやになっていた基礎的な部分を徹底的に固めたことにより、試験のたびに付け焼刃で叩きこんでいた用語が彼の中で意味を持ち始めた。事項と事項のつながりが見えたことで、文章の正誤を問う問題や、出来事の順序を問う問題の正答率が上がってきたのだ。
一方清白のほうは、服ごしにならば及川に触れられるようになった。肩、腕、胸、脚、背中。触れる布地が冬服になったのも大きい。露出している部分はまだいささかハードルが高かったが、時間の問題かもしれない。
「ほら、あとふたつ頑張れ」
「ううう~」
机に胸から伏せた及川が子犬のような唸り声を上げる。略語と正式名称の穴埋め問題。略語を答えるほうはどうにか全て終わったものの(ふたつ間違えているが黙っている)、略語から正式名称を導くほうがなかなか埋まらない。
「意味が分からないまま丸暗記しようとするから入らないんだ。お前英語は得意だったろう。ほら、NPOのPはプロフィット、利益。じゃあNGOのGは」
「あっ、ガバメント!」
非政府組織、お世辞にも綺麗とは言えない字が正解を綴る。
「へへ、先生の教え方分かりやすい」
「当たり前だ。プロだぞ」
清白のペンがシャッと軽やかな音を立てて赤丸を描く。それをぼんやりと見ていた及川は、ふと取り組んでいたプリントから顔を上げた。
「先生はさ」
「まだひとつ埋まっていないぞ」
雑談は終わってから。断固とした姿勢は崩さない。たっぷり悩んだ及川が書いた答えは一文字だけ間違っていた。
「先生はどうして塾の先生になったの?」
「唐突だな」
及川はプリントの上に頬杖をついてまっすぐに清白を見上げてくる。適当に誤魔化してもいい。だが生徒に嘘をつくのは嫌いだ。色々と知られてしまっている及川には尚更、嘘をつく理由もない。
「……本当は教師になろうと思った」
「へえ」
今の立場が不本意だと告げているようなものだ。そういうつもりはなかったが、そう取られても仕方ない。なんとなく、目が合わせづらい。清白は隙間なく閉じられたカーテンの襞をぼんやりと見詰めた。
「だが、教育実習でつまづいた」
「え、先生が? 何でもできそうなのに」
「鉄棒がつかめなかった」
「……あー」
今ならば回避のしようも思い付く。上手にできる生徒に見本を見させればいい。そのまま補助も任せればいい。だが清白は経験値が皆無の大学生だった。できない、先生やってみせて。そう言われて鉄棒の前に立ち、脚が竦んだ。何十、何百、下手をしたら何千もの子どもたちが触ってきた鉄棒。年中風雨にさらされているそれが、最後に拭かれたのはいつなのだろう。
その瞬間清白には色々なことが分かってしまった。音楽室のピアノの鍵盤。プール。子どもたちが座っている椅子。使用している机。バスケットのボール。窓際の棚の上のじょうろ。会議室のパイプ椅子。学校は清白の触れられないもので満ちていた。
実習の日程を半分終えた日、泣きだしたくなった。歴史が大好きだった。歴史の楽しさを子どもたちに教えたかった。大学卒業と同時に教員免許は取得できた。だが採用試験は受けなかった。
「聞いていい?」
何を、と問い返す前に及川が先を紡ぐ。
「先生はいつから、そのー、色んなものがさわれなくなったの?」
「いつから……」
考えたこともなかった。思い返してみる。
幼い頃からただ漠然と、あらゆるものに対して「汚いな」という意識があった。強いて言うならば、父親は綺麗好きの部類だったように思う。家の中は常に清潔が保たれていた。だがそれもあくまで常識の範囲内だ。自分の場合は明らかに「異常」と呼べる範囲に逸脱している。これはきっと、持って生まれた性質なのだろう。
年齢を経るにつれ「汚い」はどんどん増えて、清白の日常を圧迫した。さび付いたブランコの鎖。給食の食器。校庭の水道。バスのつり革。お釣りとしてもらう小銭。
汚いという意識は、触るという行為を躊躇わせ、いつしか己がそれをひどく嫌悪していることに気づいた。高校を出る頃にはすっかり、他人に触れることが駄目になっていた。
「気づいたらなっていたな。明確には思い出せん」
こんな話を他人にする日が来るとは思わなかった。それも高校生の生徒に。
「そっかあ。難しいね」
及川は下手な慰めを言わなかった。
凝視し続けていてもカーテンは揺れ動かない。いつからエアコンをつけなくなったのだったか。残暑はとうに払拭されて、及川の制服には濃紺のブレザーが増えた。茶色い頭の中央が少し黒くなっている。受験生なのだからいい加減真っ黒に戻すべきだと思うが、それを言うのは清白の役目ではない。
「でも俺、先生が塾の先生でよかったな」
「あ?」
剣呑な声が出てしまった。教師になれなかったことに今更未練はないが、今の言い方は相手によっては逆鱗に触れるに等しい。だが及川は気づいた風もない。この浅慮が、若い、ということだろうか。
「だって塾の先生だから、こうやって俺の成績気にして一対一で見てくれてるわけじゃん」
怒気がそがれる。そうか。あまりに個人的な話題が多くて忘れかかっていた。今は勤務時間であり、及川は生徒なのだ。これは、仕事か。
――本当に?
キスしてほしいと言われ。それができないなら少しずつ触れることに慣れてほしいと言われ。毎週、少しずつ生徒の体に触れている。
その事実を思い出し、背筋がぞっとした。
とうに一線をはみ出してしまっている気がする。これはまだ「大丈夫」な距離感だろうか。己の過去についてまでべらべらと喋ってしまった自分が恐ろしい。
「ま。俺はせんせーが学校の先生でも好きになってたと思うし、追いかけると思うけどね」
「……なんで俺なんだ」
「言ったじゃん。字が綺麗なところが好き」
「本当にそれでいいのか、お前の青春は。もっと手が届く範囲の堅実な恋愛をしたらどうだ」
「本当にほしいものに手を伸ばさないほうが不健全じゃない?」
ああいえば、こう。ほんの僅かにだが苛立ちを覚える。理解ができない。周囲のものを汚いと拒絶し、己の殻にこもる清白のどこに好意を抱く要素があるというのだろう。
「ね、先生。問題終わったよ」
「そうだな」
「今日はどこ触ってくれる?」
聞き方がきわどい。ひとつ溜息をついて、清白は及川をまじまじと見た。向かい合わせた机の上に上半身をもたれさせ、左手で頬杖をついただらしのない姿勢。口許と目尻もだらしなく緩んでいて、期待に満ちた目でこちらを見てくる。その様が待てをくらっている大型犬のように見えて、心が傾いた。魔が差した、と言ったほうが近い。
清白は手を伸ばした。ごく自然な仕草だったように思う。犬をよしよし、となだめるのと一緒だ。清白の手は、及川の頭を撫でていた。
「……え」
細い目が大きく開かれる。
始めて触れた及川の髪。とてもふわふわしている。あたたかい。整髪料をつけている感じがしないので、もしかしてこのふわふわはセットしているのではなく天然なのだろうか。
ゆうに十秒は撫でていたと思う。ゆっくり手を離す。その間清白はずっと及川と目を合わせていた。
「これでいいか」
言った自分の口許が少しだけ柔らかかったことに自覚はある。変わらずまっすぐに見ていれば、すぐ正面にある及川の顔が端のほうからみるみる赤くなっていく。
「嘘ぉ、先生が、おれの頭、ええ、うそぉ」
紡ぐ言葉が要領を得ない。ひどく動揺した様子で何度も自分の頭に手をやっては、清白の感覚をなぞっている。
さすがに面白くなって、清白は少しだけ笑った。それを見た及川がまた大袈裟に感激するのが、余計におかしかった。
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