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先任権の落とし穴

 市庁付オフィスのドアを潜ったら、ヴェラスコが泣いていた。自分のデスクまで歩いて2歩の場所で、ぽつんと立ち尽くし、子供の如く両の握り拳を顔に当て、ぐずぐずと鼻を鳴らしている。 「おい、どうしたよ」  ゴードンが声を掛ければ、普段ならもう少し反抗的な態度を取るだろうに。今は顔を背ける事すらせず、益々項垂れる。普段から坊や扱いしていたとは言え、ここまで弱々しい姿を見せられると、流石に戸惑ってしまう。 「何かあった、マレイにケツでも撫でられたか」  肩に触れ、出来る限り穏やかな口調で問いかけても、黙って首を振る。もう季節は冬近い。この部屋は決して空調の効きが良いとは言えない。なのに上着越しに感じる高い体温と、汗ばむ癖毛は、さながら発熱しているかのようだった。  こんな事を言ったら目の前の男は今度こそ号泣するかも知れない。けれどゴードンは、幼い頃の長女を思い出した。両親のどちらに似たのか、彼女もなかなかの頑固者で我慢強く、そして一度怒り出せば貝のように口を噤んだ。理由を聞き出すのも一苦労。不幸な事に、ゴードンは大抵の場合、彼女の怒りへ根気強く付き合う時間を持てず「帰ったらゆっくり聞くよ」と宥めて無理矢理車に押し込み、学校へ送り出してしまったものだった──次の父の帰宅が一週間後になると、お互い知った上でのやり取り。戻ったら彼女の機嫌は治っているから、結局ゴードンは娘が何故腹を立てていたか知る事が出来なかった。  今でもそう、テキストのやり取りは途切れさせないよう努力しているが、それでもむらが出来る。今は極端に少ない時期。最近はツリーを開くのも億劫だ。溜まり続ける未読通知は恐怖すら掻き立てる。  覗き込もうとしても、ヴェラスコはぐっと自分の顔へめり込ませるように拳を押し付ける力を強めるばかり。埒があかない。棒のように硬直し、無言で啜り泣く同僚に手をこまねき続け、救いの神が登場するまでの数分が10倍の長さに感じられた。 「ああ、お帰り」 「ただいま……一体どうなってんだ」 「決定打はアウディのリアバンパーへ盛大に傷を作ったこと。縦列駐車の時に縁石へ乗り上げたらしい」  エリオットが缶入りのダイエットコークを差し出しても、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を見せるのが恥ずかしいのだろう。手が伸ばされることは無かった。ハンカチを差し出されて、ようやくくるりと背を向け、チーンと乱暴に鼻をかむ。 「そんなかみ方したら蓄膿になるぜ」 「ヴェラ、さあ、一口で良いから飲んで」  今や二人がかり、エリオットに肩を抱かれると僅かに緊張が解け、ゴードンが玉の汗を浮かべる額に受け取ったコーラをこつんとぶつければ、真っ赤に潤んだ目が現れる。長い睫毛に絡む滴を絡め取るようにして、腫れた瞼へ押し当てた頃には、ヴェラスコも缶を掴んでいた。 「市長とのミーティングは後20分後だ。少し遅らせるかい」 「大丈夫」  エリオットの提案は脅しの色など全く含んでいなかった。けれどヴェラスコは健気にも首を横に振る。声は鼻詰まりで酷い有様だったが、寒々しく乾燥した部屋に決然と響いた。 「ごめん。ちょっと取り乱した」 「この仕事量だ、当然さ」 「トイレで落ち着いてくるから」 「いいよ、私達は先に執務室へ行ってる。ゆっくりおいで」 「決定打って事は、他に理由があるのか」 「さっき言ったことが全てだよ。彼に任せる仕事が多過ぎる。チャイナタウンの復興、高速鉄道の騒音問題の調整役、チャータースクールの認可問題、あとマレイの二重スパイ。パニックを起こして当然さ」  そう言うエリオットも、ここのところ張り詰めている事は疑いようが無かった。細面の顔立ちは、そうでなくても不健全な色味を持つ廊下のLEDライトの下、まるで切り削いだかのように鋭い。 「私達も経験があるだろう」 「ああ、俺も長女が生まれた時と、転職して初めての大きな案件が重なってな。確かニューアークの商業ビルの建設の……昼食に買おうとしたサラダが目の前で売り切れた瞬間、持ってた携帯電話を、咄嗟に逆側へ折った事がある。あの時は、自分が正気でないと自覚して、心底怖くなったね」 「へし折ったのが前の客の首じゃなくて良かった」  会議まで後15分。それなのにエリオットは非常階段に向かう扉を押し開け、電子煙草を取り出す。この寒さだから外に出るのを億劫がるゴードンに、エリオットは「そんな厚着してるのに?」と肩を竦めた。その時ようやく気付く。外から戻って以来、トレンチコートを身につけたままだ。  実際、この格好なら、まだ北風の到来には早い外気で丁度いい。対してエリオットは、凭れる踊り場の柵が氷柱のような有様でも、まるで寒さを感じていないようだった。今の一服へ完全に集中して、他の感覚を遮断している──この一年で彼の喫煙量は圧倒的に増えた。 「で、連中は?」 「駄目だな、頑として折れない」  エリオットが近頃、自然保護局と他の議員の間をハチドリの如く飛び回っているように、ゴードンは専らテーマパークの工事現場へ張り付いている。  予想は付いていた事だが、遊園地の建設作業員は往々にしてストライキを起こす。特に厄介なのが水回りとコンクリート関連の連中だ。  今回は水回りの方。直前になって、結局水飲み場よりもトイレの数を優先させようと仕様が変わった。で、煽りを食らったのが4つ建設されるレストラン部門で……とにかくドミノが次々と倒れていくように、物事は混乱を来す。  ネルシャツ族は大声を上げて事務所をぐるぐる周回したりしない。プラカードは振り回されるのではなく男根のようにりゅうと林立し、連中はスレッジハンマーその他の物騒な建設工具を持って、じっと作業現場の前でホワイトカラーの上層部や、仕事に向かう他部門の仲間達を睨んでいる。そんな状態がもう10日程続いていた。  こう言う危機はゴードンの専売特許だ。ロビイスト時代に嫌と言うほど遭遇し、その度に切り抜けて来た。ボウ一族は基本的に公認会計士を多く輩出して来たが、ゴードン自身は現場の人間とも相性が良いし、ネクタイを付けた奴らとも上手くやる。実のところ、がさつで粗野な態度と言うのは、案外どこでも尊敬を勝ち得るのに役立つものなのだ。  が、今回ばかりは余り乱暴な手段を使いたくはない。何せイーリングの市長が肝入りで進める計画だ。 「社長のトムソンはなんて?」 「未だに80年代の幻想へ浸ってる」 「もう殆ど半世紀前だぞ」  ふうっと吐き出されたメンソールの紫煙は、ゴードンの鼻を擽る前に、秋風へ吹き散らされる。 「それで、お前は条件付きで労働審判も可能とするレイオフ制度を出させたいと」 「両者痛み分けだろ」 「資本主義に寄り添い過ぎてるよ」 「それをあんたが言うかね」  思わず上げた哄笑もまた、エリオットには届かない。 「工事の進捗は順調と言えない。さっさと進ませなきゃな」 「ハリーが納得すると思うか」 「交渉の場でここまで言ってやったら、みんな仕事へ戻るさ。これでもまだゴネるような奴は、将来的にいつか問題を起こすだろうよ」  そのいつかがまた、この夢の園ではない事を心底祈る。  これが、かなりの綱渡りである事を、勿論ゴードンも承知していた。が、人生に安穏を望むならば、最初からこの仕事を選んでいないし、ましてやこの街にやって来なかった。スリルはメインディッシュ、はったりが間食。ゴードン・ボウの胃は40を超えても大飯食らいだ──胃薬へ頼らなければならない日だってあるとしても。 「分かった、ハリーには伝えよう。反対しても私が納得させる。けれど絶対実行させるな」 「任せろ」  とにかくそう胸を叩けば、この寒い場所から逃げ出せる。建物の中へ駆け込んだゴードンの丸められた背中へ、エリオットは盛大な溜息をぶつけた。 「お前、ここの所寝てないだろう。あんまり機嫌が良過ぎるし、寛容過ぎるぞ」  結局市長の執務室へ到着したのは会議開始の2分前。だが先に来ていたヴェラスコは、閉ざされたドアへ背を預け、唇を尖らせている。 「30分延期。テキスト見なかった?」  スマートフォンを確認するエリオットを後目に、ゴードンは扉へ耳をそばだてた。嬌声は聞こえない。「ハリー、無理しないで良いんですよ」大方、秘書の巨根を口へ詰め込むのに忙しく、そんなものを出す余裕は無いのだろう。モー本人は潜めているつもりだろうが、裏返る重低音はいとも容易く扉を突破する。 「こんな所で潰してる暇があったら、打ち合わせしよう。ゴーディ、さっきの話、ヴェラにも共有して」 「はいよ。もう癇癪起こすんじゃないぞ、ヴェラシータちゃん」  ヴェラスコが喚き出す前に、ゴードンは彼の手からタブレットを取り上げ、指を滑らせた。  

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