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弾丸列車
窓際は危ないからと言ったが、「高速鉄道の二重窓を撃ち抜ける弾丸を使って、こんな田舎の市長を狙撃する奴が?」とあっさり却下される。
何だか妙にむずむずする物を感じ続けているモーと裏腹、ハリーはすっかりご機嫌だった。国内で二本目の高速鉄道『サクルーシブ・エクスプレス』が開通して一年と少し。試乗以外でまともに乗車したのは今回が初めてかも知れない。
予約を取る時、個室にしませんかと尋ねれば、それも「たった4時間の旅だぞ」と否決。せめてビジネスクラスにと押し通したが、それでもまだ「スタンダード席が良かったのに」と駄々を捏ねていた。一つの街の市長ともあろう人間が一番安い席に乗っているなんて、庶民派をアピールするにしてもあざと過ぎる。「彼の事だから、単純に全部の席を制覇して見たいんだろ」というゴードンの意見を、今回ばかりは信じたい。
だがビジネスクラスでないと、ハリーもここまで安らかに爆睡出来なかったに違いない。
頑なな子供のように窓側の席を確保した癖して、ハリーは列車が走り始めてすぐ、カーテンを閉じてしまった。持ち込んだタブレットで仕事の資料を読んでいたのは20分程。珍しく同行を命じられたモーも、懸命に今回の会議の予習を行っていたから、肩へ寄り掛かってきた重みを然程意識しなかった。すうすうと穏やかな寝息が鼓膜を打ち始め、ようやく憐憫が湧いてくる。
とにかく、市長と言う仕事は疲弊するものなのだ。しかもこれは、体力で補填出来るものではない。
モー自身、ここのところ休日は(丸一日市庁舎へ出て来ずに住む日が、月に4日あれば僥倖だと思える価値観が、いつの間にか身についている)昼前まで起きられなくなった。 「そりゃ30も折り返し地点だぜ」とゴードンは示唆し、ヴェラスコは「冬のせいだよ」と断じて、エリオットは「万が一何か異常があったら大変だし、脳波を調べて貰ったら」と恐ろしい気遣いをする。
結局、診断結果は3人の意見を水で薄めてカクテルしたようなもの。3年前の己に、ストレス性の過眠で医師からカフェイン錠剤を処方される羽目になるなんて言っても、まず信じないだろう。
まさか、未だ脳が事務仕事をイレギュラーなものと判じ、拒絶していると言う訳では絶対にない。これはストレッチ不足ではなく、疲労破壊なのだ。例えばエクセルの関数、猫の目のように目まぐるしく変更される同僚達の予定と来客の管理、クリスマスカードの発注と名簿リストのチェック、その後あからさまに嫌そうな顔をするヴェラスコへ市長のサイン代筆を頼むこと(イーリング市は封建的側面が強く、未だ市長からのクリスマスカードを欲しがる人間や団体が500人近くいる)
一介の秘書に過ぎない己でこの有様、市を統べるハリーの気疲れは並大抵のものでは無い。今朝も出かける前に執務室へ駆け込んできた副市長と一時間近い蹇々囂々のやり取り、よっぽど列車のチケットを取り直そうかと、やきもきさせられた──最終的に「馬鹿、もう君なんて知らない!」と飛び出して来たハリーを抱え「まだ話は終わってないわよ!」とディーンの叫びを背に、何とか市庁舎を脱出して列車へ駆け込んだのは発車の3分前。アフガニスタンへ視察に来た上院議員を警護していた時以上の緊迫感だ。
けれど一難去ってまた一難。目的地のカラマズーは荒れる事が予め決定付けられていた。ハリーが昨年から一枚噛んでいる「銃所持の権利を是正する性的少数者の会」(この案件を担当するまで知らなかったが、保守的な州では未だ同性愛者と言うだけで精神不安定と看做され、猟銃の登録証を発行して貰えない事があるそうだ)の委員会、そしてデモンストレーションの会場は、数多のデモ隊に囲まれるだろう。ほんの数日前、ミシガン州ではナヨいオカマだと馬鹿にされた異性愛者の高校生が学校へ拳銃を持ち込もうとして逮捕された挙句、TikTokに犯行声明を出して随分バズった。ここまで間が悪いと、Qアノンと無縁の己ですら、陰謀を疑いたくなる。
せめて束の間、この数時間だけは安らぎを。車内は暖房が効いていたが、念の為にハリーの身体へ己のステンカラー・コートを掛けてやり、30分も過ぎた頃だろうか。
今朝は気合を入れてカフェインの錠剤を2錠飲み下した。ついでにこの街のナンバーワンとツーが諍っている間、タンブラーをなみなみと満たすブラックコーヒーを2杯。
薬を処方して貰った時、添付の説明書へは一通り目を通した。吐き気、めまい、心拍数の増加、震え、下痢、頻尿。
幸い肝臓は丈夫な方だ。いや、だからこそ、最後の一つを特に強く感じるのかも知れない。
そう言えば、駅へ向かいハンドルを握っていた時点で既に臓器への予兆はうっすら感じていたのだが、駅に着いてから、それが無理なら列車に乗ってからで十分間に合うとたかを括っていた。
時は今。そっと腰を持ち上げようとしたが、微かに身じろいだだけで、ハリーは小さく呻いて眉間に皺を寄せる。駄目押しとばかりに上着の裾を握られ、モーは完全に身動きを封じられた。
目的地まで後3時間。我慢出来るだろうか? 多分、その気になれば。いや、嘘は良くない。正直、今座席へ深く座り直した仕草だけで、膀胱が圧迫されたような気がする。
喉が引き攣れそうなほど乾燥した空気の中、背中に冷たい汗が滲む。尻の下で灰色の合成皮革がきゅっと音を立てる事すら、刺激だ。
背に腹は変えられない。慎重に背凭れへ身を預け、頭をのけ反らせながら、モーは「エル、ゴーディ」と囁いた。すぐさま、後ろからエリオットが「どうしたんだい」と返事を寄越す。
「すみませんが、少し席を代わってくれませんか」
「ちょっと待って、一時保存してから……頼む」
「何だよ、飯なら向こうで」
「ちょっと手洗いに」
がさつな身じろぎと共にこちらへ回り込んできたゴードンは、状況を把握して盛大に吹き出した。
「おいエル、見ろよ」
幾らモーが睨みちぎっても、全く堪えない。それどころかスラックスのポケットからスマートフォンを取り出す始末だった。
「叩き起こせ」
「こんな熟睡してるのに」
「犬並みの忠誠心、全く泣けてくるぜ」
連写の音が響くに至って、エリオットも異変を察知したのだろう。座席越しに覗き込まれ、真上から呆れたような溜息と共に言葉が降ってくる。
「君は、本当にハリーから信頼されてるね」
「それ位しか能がありませんから」
「怒らない、怒らない……ほら、ゴーディ。モーが漏らしたら可哀想だろう」
珍しく悪ふざけを面白がっているエリオットは、ぽんとテキストの着信音が聞こえるや、すぐさまスマートフォンを確認した。ほぼ同時に、己の上着のポケットでも、バイブレーションが響く。
「もしかして、今の写真シェアしました?」
「心配しなくても、俺と、エルと、ヴェラと、お前のグループさ。お、早速ヴェラの返信。『ウケる』だと」
「煽るなよ。他ならぬこの鉄道の防音壁の件も大詰めで、ピリピリしてるんだから」
画面ではなく現実のハリーを見下ろしたまま、エリオットはぽつりと呟いた。
「彼も随分疲れてるな」
疲れと苛立ちを覚えているのはこちらも同じ事。良い加減尿意は限界で、下腹が張っている感覚と、何か迫り上がるような不快感は誤魔化しようもない。
言葉が刺々しさを増し、顔つきが険しくなる一方なのを心ゆくまで鑑賞し、やっとゴードンは動き出した。そっと肩から頭を外し、モーが抜け出した隙に席へと入れ替わる──のが中々難しい。ビジネスシートとは言え大柄のモーには狭い。何度か前の席にぶつかって舌打ちされる始末だった。
「俺ぐらいの体格の人間なんて山程いるんですから、もう少し余裕のあるシート設計にすれば良いのに」
「最近君、カフェインに頼り過ぎじゃないか。次から医者に頼んで、リタリンを処方して貰ったら」
「それ、コロンバイン高校の連中が飲んでた奴でしょう?」
幸い現地の警察官が優秀だったので、騒動は最低限で済む。先週モーに教授された通り散弾で空飛ぶ陶器の皿を撃つハリーの腕前はお見事の一言。本来彼は家に22口径の拳銃すら置いていない事を差し引いても、そつのなさは全てを凌駕する。
器用さは持続し、帰りの列車の中でもハリーは真っ直ぐシートへ凭れかかって眠る。姿勢が崩れていたのは後ろの連中に他ならない。ゴードンは腕を組み、今にも前のめりで転がり落ちそうなほど頭を垂れる姿勢で。
投げ出された膝へ相棒のつむじがぶつかろうと、眼鏡がずれようとお構いなし。エリオットは窓へ額を押し付けながら、これまた寝息を立てている。
それがどうしたと言う話だが、一応モーはスマートフォンを取り出し、一度だけシャッターをタップした。
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