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ジャングル・クルーズ

「それで、案内するのは窓口とバックヤード諸々、食事の後に議事堂へ行って市長室で問題ないかな」  エレベーターを降り、心なしかうきうきとした足取りで一階フロアを突っ切るハリーの後ろ姿に、ゴードンは何度目かの「すいません、手を煩わせて」を繰り返した。 「ディズニーワールドよりも、こっちの方がいいと聞かなくて」 「賢い子達じゃないか」  エントラスからこちらへ向かって手を振る2人に、ハリーはゴードンよりも先に手を振り返した。 「それに、一度会ってみたいと思ってたんだ。君の娘さん達に」    社会見学させてあげたら、と元妻はいとも気軽だったが、馬鹿げている。市庁舎は託児所では無いし、ハリーは子供が苦手である事を身内で公言していた。  「すぐ帰しますから」と言うゴードンに、ところがハリーは「午前中は差し迫った用もないし、僕が案内するよ」と前のめりの勢いで賛成された。一体どう言う風の吹き回しだろう。  それは界隈でリリー・マルレーン症候群と言うのさ、とエリオットは肩を竦めた。仕事とか、家族とか、相手が持つ自分以外の本命へ寛大になるふりをし、殊更友好的に振る舞って距離を縮めようとする。下手すれば当の本人よりも上手くやれるかも知れない。  何とも言えない顔で相対したから、長女は顔を合わせざま、表情を曇らせた。 『ダディ、何か老けた? 市長にこき使われてるの?』 『余計なお世話だ。そう言うお前は、また背が伸びたな。シャーリーも元気にしてたか?』 『私は相変わらずだけど、お姉ちゃんはボーイフレンドと遊び歩いてるよ。フローって子』 『シャーリー!』  子供の成長は早い。15歳になる長女のオリヴィアはひょろりと細長く、今やゴードンの胸元に頭がある。手話を使う時、よく見えるよう毎回しゃがみ込んでやったのは、一体何年前の話だろう。  姉に輪を掛けおしゃまなシャーロットも12歳。くすくす笑う顔が、驚くほど母親そっくりだ。 『その人、パパの部下?』 『初めまして、ミズ・シルバーマン。このイーリングの市長を務めているハリー・ハーロウです』  にこやかに、ハリーは声での挨拶へ、滑らかな手話を合わせる。目を丸くしたのは子供達だけではない。  長女は生まれつき耳が聞こえないと事前に伝えてあったが、練習したのだろうか。凝視するゴードンに、ハリーは涼しげな顔を作る。「大学で講義を取って、ボランティアをした事もあるんだ。ただ長い会話は学生の時以来だし、専門的な話は君が通訳してくれると助かる」 『君のお父さんは本当に優秀な戦略官だ。だから確かに、少しこき使い過ぎてる。君達と会う時間も奪っていないか、申し訳ないよ』 『いいえ、そんな』  懐っこさと自信を併せ持つハリーのカリスマ性の前では、大胆不敵なオリヴィアも畏まる。ショートボブのブルネットがぷるぷる振り立てられた──髪を切ったことはSNSの投稿で知っていたが、実際目にするのは今日が初めてな気がする。 『どうせ父は仕事人間ですから』 『君と違って、よく出来た娘さんだな』 「お黙んなさい」  己が傅くべき市長を睨み付け、ゴードンは精一杯の威厳を、手で語る言葉に乗せた。 『今日はシャーリーのレポートを片付けるんだな。市長直々に案内して下さるんだ、心して拝聴するように』 『ジャングル・クルーズとまでは行かないけれどね。さあ、出発だ』  先を歩き出したハリーは、背後で娘達が交わした会話へ気付かなかかったに違いない、幸か不幸か。 『思ってたより賢そう』 『それにハンサムだし』 『ちょっとあんた、オジ専……』  配慮の心配は無用。ハリーと娘達の会話はスムーズに進む。 『市営遊園地の開園を公約に入れたのは本当ですか』 『あそこは自然公園も兼ねているんだ。文明と自然の融合は、僕の理想だよ』  カラスを忌み嫌い、南米から飛来した貴重な野鳥を根絶やしにせんと息巻いていた男の理想。ゴードンが鼻で笑っても、ハリーはしゃあしゃあと『特に野鳥の件は、君達のお父さんに尽力して貰ったんだ。遊歩道の再整備も完了したし、後で連れて行って貰えば』と来る。 「午後から少数党院内総務と打ち合わせの後、騒音条例の件で関係者の所へ顔を出すんです」 「トーニャの相手は僕だけで十分だし、ダウンタウンはヴェラへ行かせろ。君は半休を取れ……騒音と言えば、遊園地の測定値がまだ上がってないな。様子見ついでに、建設現場の見学を」  つらつら交わされる遣り取りに、ぽかんと口を開けて見守っていたシャーロットが目を瞬かせる。「すごい、ダッド。無茶苦茶仕事出来るコンサルタントみたい」 「そうさ、シャーリー。君のお父さんはこの市庁舎で最も切れ者の一人だよ。時々僕にも矛先が向くから、ほとほと参る」  街の市民ですら迂闊に立ち入ることのできない場所を一通り見て回り、職員用食堂で魚のフライを食べさせ、ハリーのホスピタリティは完璧の一言、いや、少し過剰なほど。苦手なりに、精一杯歓待しようとする努力が痛い程伝わる。  だからこそゴードンは、滅多に覚えることのない、居たたまれなさを感じていた。午後からのハリーはきっと、噴出した疲弊で、とんだ駄々っ子となるに違いない。  例え大人がグロッキーになろうとも、子供は元気が有り余っている。物怖じしないシャーロットは、執務室へ到着したハリーが「さあ、他に質問は?」と腕を広げた途端、手にしていたラプンツェルのボールペンをカチカチ鳴らした。 「ええっと、そもそも市長へ立候補したきっかけは何ですか?」  一方オリヴィアは、父の腕をタップし、こそっと手で囁く。 「ちょっと失礼」  親子の時間を大切にしろと言ったのは他ならぬハリーだ。豆インタビュアーへたじたじの姿を後目に、ゴードンは娘の背を押した。 『トイレは下の階だ。階段を降りて左に真っ直ぐ』  オリヴィアは首を振り、誰もいない廊下を不安げに見回す。母親に似て先細りの美しい指で紡がれる言葉は、勇気ある彼女らしくない躊躇いに満ちていた。 『ハーロウさんが良い人なのは分かった、ダディが街の為に全力を尽くしてる事も。でもハーロウさんって、同性愛者なんだよね?』  漏らした舌打ちは盛大なしかめっ面を伴うから、健聴者でなくともありあり理解できただろう。 『ベイビー、念の為聞くが、お前にそんな顔をさせるのは、お前の母親か?』 『マムを責めないで。私は自主的にラビと話してる』  決して明るいとは言えない照明の下、色白の頬がさっと紅潮する。 『自分のルーツは大切にしたい。それにやっぱり、同性同士って不自然だし』 『お前が信じるものを否定はしないさ。でもな、オリヴィア。愛情は本人が選べない。自然と感じるものなんだよ。ある意味人知を超えた感情なのかも知れないな』  説得が徒労に終わる可能性は極めて高い。職務上の経験から、ゴードンは理解していた。  何せ己は、元妻へ全て任せきりにし、この子へ選択肢を提示しなかった。今から与えることは可能だろうか……勿論。けれどそれは、彼女と母親の絆にひびを入れる。許されないことだ。元妻の努力がただただ尊敬に値するのは、己の罪悪と同じ位に自明の理だった。 『今すぐ理解しろとは言わんが……』 『でも』 『父さんは彼と寝た』  この子が生まれ障害が発覚し、必死で手話を覚えた時は、まさか彼女に対し「性交する」なんて単語を見せつけると想像もしなかった。  案の定、オリヴィアはその場で凍り付く。一度固い拳となった手のひらは懸命な努力で解かれ、言葉を紡いだ。 『私達のこと捨てるの』 『いいや。何よりも愛してる。お前達の為なら命を投げ出しても構わない』  くしゃりと歪んだ顔の中、見る見るうちに盛り上がった涙のお陰で、父の言葉は届かなかったかも知れない。 『それでも父さんは、あの人が大事だ。人生を賭けてみたいと思った、初めての人だから』  肩を抱き寄せられても、オリヴィアは抵抗しなかった。今間違いなく、己は一番の禁忌を犯した。もう二度と会いたくないと言われても仕方ない。  何を言っているんだ、今更。これまでこの子達を散々傷付けておきながら。そう自嘲する権利すら今の自らにはない。知っているからこそ、ゴードンは黙って、シャツの胸元へ染み込む熱い雫を受け止めた。  子供達を駅へ送り、戻って来たゴードンにハリーは「良い子達だね。お母さんの教育が素晴らしいんだろう」と宣う。だからゴードンも淡々と「オリヴィアには、俺達の関係を話しました」と返す。  愕然とした表情で、溜飲を下げることは許して欲しい。 「あの子も大人ですからね。理解しましたよ」  その後、きっちり噓を付くから。  それでもまだ揺れるエメラルドの瞳に、別の存在を見出す。掻き消すよう、ゴードンはこの街で最も大事だと見做される男の頬に触れた。

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