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※執務室とトイレ・ウィズ・エリオット その1
シンクタンクへ働いていた頃、バート・バカラックとかフランシス・レイとかを蛇蝎の如く忌み嫌っていた。建築関連の企業は何故か電話の保留音へ、60年代のポピュラーソングを使いがちなのだ。
電子的に編曲された「雨に濡れても」を聴きながら、別回線で返事を待ち構えている議員秘書の尖った声を反芻する時間はさながら最後の審判へ引き出されたジョン・ウェイン・ゲイシーの気分。自分が愚かで無力な道化になったようで、よく耐えられたものだと若い頃の己に感心するほどだった。
幸い、近頃は固定電話も滅び、保留音という概念そのものがなくなった。着信には出来るだけ早く出るべしという考えも廃れつつある。
普段ならば5回程鳴るまでコールは無視するのだが、今回は液晶に映った名前が名前だ。話をしていたゴードンやヴェラスコに「失礼」と告げ、エリオットはデスクの上のスマートフォンを取り上げた。
「ハリー?」
「エル、す、まないが、少し、遅れそうだ」
「それは構わないけど、どうしたんだい、具合が悪そうだが……」
「いや、そうじゃなくて……そこに誰かいるのか」
「ちょっと待ってくれ、別室に移動する」
2人に目配せし、市長付スタッフの事務室を出た頃には、もう悪い予感しかしていなかった。廊下を早足で突き進んでいるうちに、それは確信へ変わる。
「その、っ、もう、執務室には来てるんだ」
「モーは?」
「今日は直行で、ブライズのところへ遣いにやってる。だから、これ、君にしか、頼れない……」
はあ、と艶かしい溜息は、明確に男を誘う。朝の9時15分。理由は分からないが帰結は明らかだ。市長は欲情していた。解消してやらなければ仕事もままならない程に。
本来は、自分のペニスくらいちゃんと管理して貰わなければ困ると、苦言の一つも申し立てるべきだ。赤ん坊のオムツを替えるんじゃあるまいし。
そこまで考えたら、急激に腹が立ってきた。くるりと踵を返し、エリオットは廊下を引き返し始めた。ばたんと、電話口にも聞こえるほど大きな音を立てて開いた扉は、4階に唯一設置されているトイレだった。2つ個室があるきりのここは、実質フロアを陣取る市長周りのスタッフのみが使用している。
いつまで経っても、頼みの綱が己の元へ馳せ参じて来ないことに気づいたのだろう。「エル?」と不安げな口調で尋ねられた頃には、エリオットも奥の個室を施錠し、便器に腰を下ろしている。ズボンは寛げていない。官能的な気分になってやるつもりはなかった。「ハリー」
さも呆れたと言わんばかりの吐息を交え、そう呼び掛ければ、相手が小さく息が呑んだと知る。
「君、朝から一体何を?」
「何を、って」
動揺しつつも、答える声が益々興奮の度合いを高めたことは間違いなかった。
これまで何度も告白されたが、ハリー・ハーロウはエル・エリオットの声を大層気に入っているのだという。彼と持つ情事の際、触れたりキスをしたりとフィジカル面の愛撫を施されるのと同じ位、耳元に睦言を吹き込んで甘やかすことは、2人の間でお決まりの流れとなっていた。
言葉は武器だ。辣腕弁護士として鳴らしたハリーこそ、そのことを誰よりも理解している。操ることも巧みならば、相手が仕掛ける罠にも敏感だった。
彼は罠に掛かるだろうか。微かな息の音へ耳を澄ませながら、エリオットは待った。無言もまた攻撃。持久戦は得意だった。
「少し、羽目を外し過ぎたんだ」
結局、ハリーは飛び込んできた。上擦る声に混じって、ぐち、と水音が響く。
「その……最近、通販サイトを見るのに、ハマってて。昨日、注文してたものが、届いた」
「続けて」
「っ、これ、見て貰った方が早い、カメラモード、切り替えるから」
「悪いがハリー、今こちらはビデオ通話が出来ないんだ」
「え……他に誰かいるのか」
「大丈夫、私1人だよ。ただ、君の言葉で説明して欲しい」
それだけで、勘のいいハリーはルールを飲み込んだらしい。ごくっと喉を鳴らした音が聞こえたように思うのは、気のせいだろうか。
「エル……」
「ほら、早く。モーが帰ってくるかも」
「ぅ……」
ごとん、と固い音が響いたのは、執務机にスマートフォンを置いた為らしい。短いノイズの後に届けられたハリーの声は、稚気と官能、二種類の甘えですっかり蕩けていた。
「これ……買ったんだ。シリコン製の、凄く大きい」
「凄く大きい?」
「ディ、ディルド、ペニスの模型」
「そんなもの買って、何に使うつもりだったんだい」
はしたないなあ、この街の市長は。わざとらしく嘆息してやれば、ハリーは喉の奥でひっと悲鳴を上げる。
「だ、だって、皆忙しそうだし、あんまり誘って消耗させるのも……そもそも、時間だってない」
「お願いすれば、誰か1人位誘いに応じてくれたと思うよ。何せ皆、君の部下なんだから」
「き、君も……?」
「ああ。これでもスケジュールを調整するのは得意だからね」
ほっと安堵させたのも束の間、気付けば乾いていた唇を舐め、エリオットは「それで」と呟くように囁いた。
「まさか、それを市庁舎に持ち込んで、あまつさえ使ってるなんてことは、ないだろうね」
「ゃ……すまない、だって」
「朝からオナニーをするのが癖だから?」
「ちが、これ使って、慣らしておけば、すぐにヤれるから」
「ああ、なるほど……」
ここで少し、声音に軽蔑を混ぜる。敏感に聞き取ったハリーは、殆ど悲鳴混じりに「ごめんなさい」と訴えた。
「だって……! っ、ぁあ、も、5日もお預けだ、死ぬ……!」
「5日禁欲したくらいで人間は死なないよ。理性的な生き物なんだから。君も犬じゃあるまいし、少しは我慢ってものを覚えた方がいい」
「ゃ、や、そんなこと言ったって! 英雄は色を好むんだ!」
必死の抗言に混じり、ぐちゃ、ぬちゃ、と水音はどんどん激しくなる。短い喘ぎが連なるこの嬌声は、多分まだそこまで激しい行為には至っていない。エリオットには容易く想像することができた──最近修理して貰ったから、そう簡単には後ろへ倒れなくなった執務椅子へ、大きく脚を開いて座り込んだハリーの姿。脱いでいるのはスラックスと下着だけ。晒されたペニスは天突く勢いで屹立し、白濁混じりの糸を引いているが、それほど熱心には擦られていない。今彼は、新しい玩具へ夢中なのだから。
「因みに、そのディルドは具体的にどんなものなんだい」
「ぐ、具体的? ……んっ、普通の、だけど。ライムグリーン色をしてて、ぁっ、う、馬の、ペニスみたいだ」
「馬のものを見たことは無いけど、だいぶ大きそうだな」
「ふ、ぅ、うう、大きさって言うより、形が……長さは、奥まで押し込んだら、やっと僕の手で、根元が握れるくらい……先端が、太くて、少し湾曲してるから、ひ、っ、直腸が、変に撓む……」
大分具体的に想像できるようになってきた。相当グロテスクなおもちゃだ。一体全体何故、ライムグリーンなんて選んだんだか。
「い、まは、まだっ、奥まで挿れるの、怖いから、先のところで、ぜんりつせん……あ、あぁっ、ああ、痛っ、ビリビリくるっ、だめだめだめ、これやり過ぎると、本当に癖になるから、ぁ!」
ぐぷぐぷ、ぬぽぬぽ、全く奔放な音を響かせながら、ハリーは必死になって自分の弱点を抉り続けている。終いには鼻を啜って「や、やめて、これ抜いて、ぇ……!」と、自涜にも関わらず懇願し始める始末だった。
「ハリー、今君は、1人でアナルをいじめてるんじゃないか。自分で止められるだろう?」
「だって、だって、止められない……え、エルっ、ふ、ぅぇ、ひ、ひどい、ひどいぞ、意地悪……っ!」
「何とでも。私が止めに行っても構わないけど、それはつまり、君は勝手に欲情して止められない、淫乱だってことの証明になるね」
「っ……ぅ……!」
加虐的な言葉は、明らかにハリーを昂らせた。ぎしぎしと椅子の軋む音が大きくなり、比例して水音は粘り気を増して、そして声はもはや、執務室の外にまで届いているだろう。モーが帰っているとしたら、全くご愁傷様だという他ない。
「あっあっあっ、も、もう、もうむり、イく、エル、ほんとにイく……!」
「イけばいいんだ。だって、凄く気持ちいいんだから」
そうだね? 気持ちいいね? ゆっくりと、そう鼓膜に吹き込んでやる。もしもこの場にハリーがいたならば、きっとあの形いい、案外小さな造形の耳は、発火しそうなほど真っ赤に火照っていることだろう。
「ぁ、は、ぁっ、や、いや……! まだ……!」
「ハリー」
「ーーーーっ、エ、ルっ……っっ!!」
ハリーは、エリオットの声が官能的だと言う。けれどエリオットにとって、この普段は落ち着いて低めの音程を保つ声が、甘く掠れる瞬間には、到底及ぶものではない。
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