4 / 4
第四話
もうこの際道を教えてくれるならだれでもよかった。恥を忍んでその人に道を聞くことにした。その男の人はきれいな顔立ちをしており、同時に冷たい印象を受けた。少し怖いとさえ感じるその目に蒼芭は釘付けになっていた。しかし、なによりも特徴的なのはやはり左頬から首筋にかけてのタトゥーだろう。外部的な要素とは言えど蒼芭を震えさせるのは十分だった。
「ねぇ、さっきから何?」
その一声でハッとする。止まっていた時間が動きだすように蒼芭はパニック寸前だった。全くの赤の他人をじっと見つめるという失礼な行為。現在地がわからない絶望的な状況。疲労によるげっそりした表情。何もかもが彼とミスマッチで蒼芭の脳みそは処理落ちしてしまった。
「さっきから黙ってるけど。どうした?具合でも悪いのか?」
端正な男はしっかりと冷たい視線で こっちを見つめ、蒼芭に近寄る。蒼芭はその日本人離れした瑠璃色が急に怖くなり、一歩後ろに後ずさる。しどろもどろになりながら「道に、迷ってしまって……」と蚊の鳴くような声で路地に寄りかかる「その人」に経緯を伝えた。
「そうなんだ。よかったら一緒に大通りまで出ようよ」
「え⁉いいんですか⁉」
男の何気ない一言が蒼芭を混沌の中から救った。どもっている蒼芭にしびれを切らした彼は長い足を持て余して段差から降り、蒼芭との距離を詰める。
蒼芭は溢れ出る安堵を心の底から抱きしめた。もうこの際、彼がテロリストでも凶悪殺人犯でも愉快犯でもよかった。とにかく大通りにさえ連れて行ってもらえばきっと大丈夫。その一心で蒼芭は目を輝かせながら言う。男は別に大したことではない、と言わんばかりにカツン、とその辺にある石を蹴った。
「いいよ。俺も大通りに用事あるから」
「ありがとうございます!」
この大きな奇跡に感謝しよう。たまたまそこに居た人が親切な人でここまでよくしてくれるなんて、蒼芭史上最高にうれしい出来事だった。またも緩みそうになる頬をしっかり引き締めるためにきゅっと唇を噛んだ。
(この人、歩くの早いなぁ……)
男は街道に慣れたような足取りで蒼芭より先を歩いた。普段の彼の速さなのか定かではないが、蒼芭が歩くよりもずっと早く感じられた。小走りになりながらも、話についていこうとつっかえながら進んでいく。男は蒼芭を見かねてすこし速さを落とした。ガラガラと後ろをついてくるキャリーケースが今まで通ってきた道を示している。
「名前、なんていうの?」
そして男は脇道を右に曲がった所で一息つく代わりに蒼芭に問うた。男は耳に付けている多数のピアスを揺らして蒼芭の方を向く。
突然話題を振られた蒼芭は対処する術もなく、また懲りずにあわあわと唇だけを動かした。そしてやっと捻りだした声はひどく情けなく、紡いでいる途中でもいいから口を噤みたくなってしまうほどだった。
「え?ぼ……僕の、ですか?」
「うん。あぁ、先に名乗る方がいいよな。俺は九条俊煕 。こうして出会ったのも何かの縁だと思うし。よろしくな」
男は落ち着いていて、同時に聞き取りやすい、清涼な声で名乗った。名を聞いた途端に先ほどまで恐怖に凍てついているような彼の青い目が柔らかく、びいどろの盃のような輝きに変化した。
九条俊煕。どこか知っているようでわからない。そんな名前の響きだった。
蒼芭はなんとなく、彼の名前が心の中で反芻していることに疑問を隠せなかった。どうしてだろう、きっと自分はこの人を知っている。けれど、どこで、どうやって知ったのかまでは思いだせなかった。思考が白い靄に雲隠れしてうまく繋がらない。
一人悶々としている蒼芭は自分が名乗っていない事を思い出し、再度あわただしく言葉の機織り機を稼働させた。そんな蒼芭を責めるでもなく、急かすでもなく、俊煕は静観していた。
やっとの思いで組み合わせた言葉はやはり、弱々しい声で俊煕の元へ届いた。
「えっと、僕は岸峰蒼芭です。よろしくお願いします……」
初対面でこんなに打ち解けてよいものかと一瞬蒼芭は身構えたが、俊煕の笑顔にほだされてうまく考えられなかった。さっきまでのように裏路地でタジタジしているのもおかしいけれど、これから俊煕と一緒に大通りに案内されるのもおかしな話だ。
何個か角を曲がり、徐々に歩いている人の影が見えてきた。俊煕の背より向こう側から人は左から右へと流れていく。きっと、僕ら二人からみて左側に駅か大通りが展開されているのだろう。これでやっと『普通の旅』ができる、と蒼芭は前向きに事を捉える。
しかし、俊煕は人の流れには全く興味を示さず、むしろ蒼芭自体に興味を持っているような事を言う。
「蒼芭……か。どんな字を書くんだ?」
「蒼穹の蒼に松尾芭蕉の芭です。父と母の名前を一文字ずつもらったので両親のことも褒められたみたいですごくうれしいです。」
「そっか」
俊煕は自分で話を展開しておきながら少し困惑していた。ただ社交辞令のつもりだったが、存外、蒼芭が素直に答えてくれるのだから反応に困った。きっと両親に愛されて育ったのだろう。目を伏せながらでもわかる蒼芭の眼光には凛とした輝きが宿っていた。
ともだちにシェアしよう!

