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第二幕 2.インチキおじさん、登場③

 介護施設から出ると、もうなんだかんだ夕方になっていた。 「おう、庄助。仕事か?」  駐車場まで戻ってきて、後部座席に荷物を積み込んでいると、同じ織原組の向田稔二(むこうだ ねんじ)に声をかけられた。  ちょうどそこはパチンコ屋の裏手の道に面していて、向田は遊戯を終えて一息、加熱式タバコを吸っていたようだ。今の時代はパチンコ屋といえど、どこも店内は禁煙の店が殆どだ。 「あ! 向田さんお疲れ様です。この先のデイサービスに営業で行ってまして……」 「ふぅん、営業。立派なもんだな」 「えへへ、ありがとうございます」  向田は織原組に属している、40代の中年ヤクザだ。  とはいえ、組のものから正式に盃を受けたわけではない。国枝の事務所にはあまり立ち入らず、独自で店をやったりしてシノギを得ているそうだ。  見た目は年齢よりも若々しいが、筋肉質で日サロで焼いたような真っ黒い肌に、やけに歯並びの整った白い前歯が印象的な、有り体に言えばとても胡散臭い見た目の男だ。  一週間ほど前、たまたま組の本部から、国枝の事務所であるユニバーサルインテリアに使い走りに来ていた向田のことを、庄助は憶えていた。 「“織原の虎”のペットは、随分良い子なんだなァ」  カラーレンズの眼鏡の奥から、淀んだ目が庄助を値踏みするように見ていた。 「ん?」  「ご主人様に食わせてもらう飯は美味ぇか? 子猫ちゃんよ」 「あぁ……!?」  向田があまりに普通のトーンで言ったので、それが侮辱だと一瞬わからなかった。気持ちがついていかずに、遅れて敵意を剥き出しにしてしまった。  なんやこいつ、むかつくな。  どいつもこいつもヒトのこと、猿とかペットとか好き放題言いやがって。  俺はカゲの付属品やない、孤高のタスマニアデビルや。と、庄助は内心憤慨した。  威嚇のように短い眉を吊り上げた庄助を見て、向田は逆に口元を緩ませた。 「なんてなぁ、ごめん」 「え……」 「今のは八つ当たり。ごめんごめん」  火がついた怒りの出鼻を挫かれて、庄助は目を丸くした。向田は大量の水蒸気を空に向けて吐き出すと、ポケットにカートリッジをしまい、庄助の肩に手を回した。  突然他人に馴れ馴れしく触れられた庄助は、びくっと身体を縮こまらせて身構えた。  知らない男の手に触れられると、どうしても思い出す。  前に、半グレたちに捕まって犯されそうになったときのことを。  抵抗できないように括られて嬲られて、弱った姿を嘲笑う男たちの、あの厭な顔。  こちらが嫌がるたびにだんだんと興奮して増長し、生臭い息を吐きつけながら触れてくる指。刃物を向けられ、押さえつけられて足を開かされた絶望。  それらがふとした瞬間、頭の中でフラッシュバックする。  向田にそんな気持ちはないとわかっていても、胃がせり上がってきて、冷や汗が出る。 (情けない。男のくせに、こんなことくらいで……早く忘れんと)  庄助自身、傷つき、トラウマになっていることを認めたくなかった。  自分はそこそこ喧嘩も強いし根性もあるのだと、そう理由もなく自負してきたものをポキンと折られたようだった。  当初よりしばらく経った今になって、男たちに犯されかけたという事実が辛くなってきている。 「矢野さんと行ったんだってな。メシ食いに。国枝くんも一緒だろ? 庄助は可愛がられてるから。若者の出世に、ちょっと嫉妬してたんだよ」 「えっ……そうなん、ですか?」 「そうそう、ごめんなぁ。大人気なかったな」  向田が笑うと、嘘みたいに白い歯が光る。タイトなヘンリーネックの黒いシャツの胸元にちらりと刺青が見えたが、何の絵なのかはわからなかった。  加熱式タバコ独特のアンモニアのような臭気が、向田から漂ってくる。信頼できない、と庄助は直感で思った。 「お詫びさせてくれや。そうだ、キャバクラでも奢ってやるよ」 「きゃっ……キャバクラ!?」  キャバクラを、奢る。  すごすぎる言葉だ。異世界の呪文みたいだ。  庄助は目を輝かせた。  ああ、この世知辛い世の中で、自分の非を認めてすぐに謝れる大人がどれだけ多いだろう。彼は、向田はそれができたじゃないか、よく見ればそこはかとなく優しそうだ。  歯が白いことはええことや。肌が黒いのも、太陽の光によく当たってるっていう健康の証や。  自分の心の瞳の濁りを取り去って見ると、相手も美しく見えてくるものだ。  向田さんはきっとええ人やな。庄助は手のひらを光の速さで返した。

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